探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

京極高知の子孫・その1~宮津藩・高家京極家~

こんにちは、勘矢です。
今回は京極高知の子孫について調べたことをまとめました。
 
 

1. 高知系京極家

 京極高次の弟 高知も豊臣秀吉に仕えて近江国内で五千石を知行し、のちに舅の毛利秀頼の遺領 信濃飯田(長野県飯田市)六万石を継ぎ、その後加増されて十万石となった。関ヶ原の戦いののち、丹後宮津(京都府宮津市)十二万三千石余に転封となった。
 1622年に高知が没すると遺領は分割され、高広は宮津七万八千二百石を継ぎ、高三は田辺三万五千石、高通は峰山一万石を分与された。高広の子 高国のときに改易された。
 1690年に高国の長男 高規が召し出され、1695年に奥高家となり、その後安房国内で二千石を与えられた。養子高甫(高国三男)が相続するときに五百石を高林(高国五男)に与えて千五百石となった。
 京極高広の三男 高勝も高国の改易に連座して逼塞となり、その後許されて蔵米五千俵を賜りましたが、三代高平が早世したため無嗣断絶となった。
 京極高知の六男 満吉ははじめ田中姓を名乗り蔵米を千俵を与えられ、三代 高久のときに京極に復し、蔵米から上野国内千石に改められた。
 

京極氏略系図(高知系)
 
 

2. 宮津藩主京極家

初代 京極 高知(たかとも)【1572~1622】
 京極高吉の二男、母は浅井久政の娘 マリア。
 1591年(20)に兄 高次から近江国内で五千石を分与され、1593年(22)に外舅毛利秀頼の遺領信濃飯田六万石を継ぎました。豊臣秀吉没後は高次とともに徳川家康に属し、1600年(29)の関ヶ原の戦いでは岐阜城攻めで戦功をたてました。家康の命により、大津城落城後に高野山で謹慎していた高次を説得して復帰させました。高知は丹後田辺十二万三千二百石を与えられ、その後宮津城を築いて宮津に移りました。大坂の両陣に参戦し、戦功をたてました。享年51。
 正室は織田信澄の娘、継室は毛利秀頼の娘。
 
二代 京極 高広(たかひろ)【1599~1677】
 京極高知の嫡男、母は毛利秀頼の娘。
 大坂の両陣に父とともに参戦しました。1622年に24歳で丹後宮津藩を相続し、父の遺命により弟高三と義弟高通に分知したため七万八千二百石となりました。虐政を布いたため領民から恨みを買い、1654年に56歳で隠居しました。
 1666年(68)に嫡男高国の親不孝と悪政を幕府に訴え、二男高勝を擁立しようとしましたが所領を没収されました。流浪の身となり、のちに京都に住みました。享年79。
 正室は播磨姫路藩池田輝政の娘。
 
三代 京極 高国(たかくに)【1616~1675】
 京極高広の長男、母は池田輝政の娘。
 1654年に39歳で丹後宮津藩を相続しました。はじめは仁政を行いましたが、いつしか悪政を行うようになりました。1666年(51)に父高広が高国の悪政を幕府に訴えましたが、幕府はそれを口実に所領没収しました。陸奥盛岡藩南部家に預けられ、配所料三千俵を与えられ、その配所にて没しました。享年60。
 

後宮津城跡
 

3. 旗本京極家(高知系)

(1)高家 京極采女

初代 京極 高規(たかのり)【1643~1708】
京極高国の長男、母は伊達政宗の娘。
 1666年(24)に父が所領没収されたとき、伊勢津藩藤堂家に預けられる処分を受け、配所料三千俵を与えられました。 1680年(38)に赦免され、1690年(48)に蔵米二千俵を与えられ、1695年(53)に奥高家となりました。1697年(55)に蔵米を改められ、安房国内で二千石を賜りました。1702年(60)東福門院の法会のため京へ、1704年(62)久能山遷宮のため駿河国に赴きました。1705年(63)に辞職して寄合に列し、その後隠居しました。享年66。
 
京極 高祐(たかすけ)【1682~1699】
 京極高規の二男。父に先立ち没しました。享年18。
 
二代 京極 高甫(たかすけ)【1662~1729】
 京極高国の三男。はじめ落合を称した。
 1666年(5)に父が所領没収されたとき、因幡鳥取藩池田家に召し預けられ、1680年(19)に赦免されました。その後、兄高規の養子となり、1705年に44歳で家督相続し、表高家に列しました。このとき五百石を弟高林に分け与えたので千五百石となりました。1709年(48)と1716年(55)に御使として京に赴きました。1724年(63)に務めを辞しました。享年68。
 
三代 京極 高本(たかもと)【1694~1758】
 京極高甫の長男。
 1729年に36歳で家督相続しました。1742年(49)に奥高家となり、1744年(51)に日光山へ、1747年(54)に御使として京に赴きました。1748年(55)に務めを辞しました。享年65。
 
京極 高常(たかつね)【?~?】
 越後長岡藩の分家で旗本 牧野忠列の五男。高本の婿養子となるも、病により家督は継ぎませんでした。妻は京極高本の娘。
 
四代 京極 高厚(たかあつ)【1753~1781】
 京極高常の長男、母は京極高本の娘。
 1758年にわずか6歳で祖父の家督を相続しました。享年29。
 妻は旗本 永井直富の娘、後妻は備中鴨方藩主 池田政方の娘。
 
五代 京極 高以(たかゆき)【1777~?】
 京極高厚の長男、母は池田政方の娘。
 1781年にわずか5歳で家督相続しました。
 1807年(31)に高家となり、翌年に辞しました。
 妻は旗本 西郷員相の娘。
 
六代 京極 高正【?~?】
 1810年家督相続しました。表高家
 
七代 京極 高福【?~?】
 1832年家督相続しました。1850年高家となりました。
 

旗本京極氏略系図(高知系)
 
 

(2)京極織之助家

(寛政年間までの当主)
初代 京極 高林(たかよし)【1664~1725】
 京極高国の五男。はじめ寺島を称した。
 1666年(3)に父が所領没収されたとき、伊予宇和島藩伊達家に召し預けられ、1680年(17)に赦免されました。1705年(42)に兄高規の養子となり、五百石を分け与えられて小普請となり、京極に復しました。1707年(44)に御小姓組に列しました。享年62。
 
二代 京極 高周(たかよし)【1699~1729】
 常陸麻生藩主 新庄直詮の十二男。
 高林の婿養子となり、1725年に27歳で家督相続しました。享年31。
 妻は京極高林の娘。
 
三代 京極 高英(たかふさ)【1711~1789】
 筑後三池藩主 立花種明の二男 種盈の子。
 高周の婿養子となり、1729年に19歳で家督相続しました。1739年(29)に御書院番の番士となり、1742年(32)に辞職し、1765年に55歳で隠居しました。享年79。
 妻は京極高周の娘。
 
京極 高慵(たかただ)【?~?】
 旗本関永張の二男。この関家は江戸初期の大名関一政の子孫。
 関永張の妻は新庄直詮の娘なので、高慵は高周の甥にあたる。高英の婿養子となるも養父に先立ち没しました。
 妻は京極高英の娘。
 

京極・新庄・関 関係図
 
四代 京極 高暁(たかあき)【1745~?】
 常陸麻生藩主新庄直祐の六男。二代高周の甥。
 高林の婿養子となり、1765年に21歳で家督相続しました。1768年(24)に西ノ丸の御小姓組となり、1775年(31)に辞職しました。1790年に46歳で隠居しました。
妻は京極高英の娘。
 
五代 京極 高豊(たかとよ)【1763~?】
 京極高暁の長男、母は京極高英の娘。
 1790年に28歳で家督相続しました。1798年に36歳で隠居しました。。
 
六代 京極 高朝(たかとも)【1770~?】
 京極高暁の二男。
 1798年に29歳で家督相続しました。。
 妻は旗本 石丸定栄の娘。
 
 

(3)京極仁十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 京極 高勝(たかかつ)【1620~1683】
 京極高広の三男、母は池田輝政の娘。
 1666年(47)に兄高国に連座して逼塞し、翌年これを許され、蔵米五千俵を賜り、寄合に列しました。享年64。
 
京極 高冬(たかふゆ)【?~1679】
 京極高冬の長男。父に先立ち没しました。妻は周防徳山藩主 毛利就隆の娘。
 
京極 国晴(くにはる)【?~?】
 京極高広の二男 高治の子。叔父高勝の養子となるも病のため家督を継ぎませんでした。
 
二代 京極 高金(たかかね)【?~1700】
 京極国晴の長男。
 1683年に祖父の家督を相続しました。1690年に桐間番に列し、翌年に故あって小普請に貶されました。1698年に蔵米を改め三河国内で五千石を賜りました。
 妻は伊予吉田藩主 伊達宗純の養女(伊予宇和島藩 伊達家家臣 伊達宗職の娘。宗職は宗純の弟)。
 
三代 京極 高平(たかひら)【1698~1709】
 京極高金の二男、母は伊達宗純の養女。
 1700年にわずか3歳で家督相続しました。1709年(12)に無嗣断絶となりました。享年12。
 
 

(4)京極伝之助家

(寛政年間までの当主)
初代 田中 満吉(みつよし)【1616~1662】
 京極高知の六男、母は各務氏。
 1635年(20)に三代将軍 徳川家光に拝謁し、交代寄合に準ぜられました。1646年(31)に御書院番の番士に列し、蔵米千俵を賜りました。1659年(44)に御使役となり、1661年(46)に信濃松代藩主 真田幸道が幼稚のため、仰せにより現地に赴き御目付をつとめました。翌年、日光に赴いてその地で没しました。享年47。
 妻は尾張家の家臣 浅賀真乗の娘。
 
二代 田中 高稙(たかなお)【1646~1730】
 田中満吉の長男、母は織田氏
 1662年に17歳で家督相続しました。1666年(21)に御書院番となり、1675年(30)に小十人頭、1682年(37)に御使番となりました。1686年(41)に辞職して小普請となり、1695年に50歳で隠居しました。享年85。
 妻は甲府徳川家家老 島田時郷の娘。
 
三代 京極 高久(たかひさ)【1664~1732】
 田中高稙の長男、母は甲府 家老 島田時郷の娘。
 1695年に32歳で家督相続し、田中から京極に復しました。1697年(34)に御書院番の番士となり、蔵米を改めて上野国内で千石を賜りました。1699年(36)に火事場目付をつとめましたが、翌年廃止により免職となりました。1703年(40)に黒田直邦が常陸下館城、松平正久が上総大多喜城をそれぞれ賜ると、中山直房とともに城引渡役をつとめました。
 1705年(42)に御書院番組頭となりました。1712年(49)に同役井出正府の養子長五郎が乱心した際、その処置に落度があったため逼塞となりましたが、その後、駿府城守衛のため赦されました。1727年(64)に西ノ丸御先弓頭に移りました。享年69。
 妻は旗本 酒井忠実の娘、後妻は旗本 松下之則の娘。
 
京極 高寿(たかなが)【1691~1729】
 京極高久の長男、母は酒井忠実の娘。
 1709年(19)に御小姓組の番士となり、1724年(34)より二ノ丸に勤仕し、翌年西ノ丸の御書院番となりました。父に先立ち没しました。享年39。
 妻は但馬豊岡藩主 京極高住の養女(高住の弟高里の娘)。
 
四代 京極 高儔(たかとも)【1720~1782】
 京極高寿の長男。
 1732年に13で祖父の家督を相続しました。1746年(27)に御書院番に列し、1757年(38)に辞職しました。1773年(54)に西ノ丸の御書院番となり、翌年辞職しました。1781年に62歳で隠居しました。享年63。
 
五代 京極 高丘(たかおか)【1749~1783】
 京極高儔の長男。
 1781年に33歳で家督相続しました。享年35。
 
六代 京極 高貞(たかさだ)【1767~?】
 京極高丘の長男。
 1783年に17歳で家督相続しました。1798年(32)に御小姓組の番士となりました。
 妻は旗本 柘植正陽の娘。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻(東洋書林
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。