こんにちは、勘矢です。
今回は豊岡藩京極氏について調べたことをまとめました。
1. 豊岡藩京極氏
1622年に高三が丹後田辺(京都府舞鶴市)に三万五千石で分知されたことからはじまり、1668年に但馬豊岡(兵庫県豊岡市)に転封となった。1726年に高寛が早世したため絶家となったが、弟高永に家名存続を許され、旧領のうち一万五千石を与えられた。以降幕末まで存続した。
京極高住の三男 善興ははじめ水野姓を称し、父の遺領より蔵米二千俵を与えられた。子の高明のときに京極に復した。
2. 豊岡藩主京極家
初代 京極 高三(たかみつ)【1607~1636】
京極高知の三男、母は側室 竹原氏。
二代 京極 高直(たかなお)【1632~1663】
京極高三の長男、母は水野忠清の娘。
1636年にわずか5歳で丹後田辺藩を相続しました。享年32。
三代 京極 高盛(たかもり)【1650~1709】
京極高直の長男、母は水野忠善の娘。
1663年に14歳で丹後田辺藩を相続し、弟高門に二千石を分与しました。1668年(19)に但馬豊岡に転封となりました。1674年に25歳で隠居しました。享年60。
四代 京極 高住(たかすみ)【1660~1730】
京極高直の四男、母は水野忠善の娘。
兄高盛の養子となり、1674年に15歳で但馬豊岡藩を相続しました。1702年(43)に興国寺を創建し、1708年(49)には仙洞・女院の両御所普請手伝をつとめました。1714年に55歳で隠居しました。享年71。
五代 京極 高栄(たかよし)【1690~1721】
京極高住の長男、母は側室 難波氏。
1714年に25歳で但馬豊岡藩を相続し、弟水野善興に蔵米二千俵を分与しました。享年32。
六代 京極 高寛(たかのり)【1717~1726】
京極高栄の長男、母は側室 中村氏。
1721年にわずか5歳で但馬豊岡藩を相続しましたが、1726年に10歳で没したため、除封となりました。享年10。
七代 京極 高永(たかなが)【1720~1760】
京極高栄の二男、母は側室 中村氏。
1726年(7)兄高寛の名跡相続を許され、但馬豊岡一万五千石を与えられました。領地が大幅に削減されたため藩財政は窮乏し、百人以上の藩士の籍を削り、残る藩士の禄も大きく削減しました。さらに翌年江戸屋敷が全焼したため、藩財政の再建に苦慮しました。倉持左膳を勝手方に登用して改革を行うも、守旧派の重臣石束源五右衛門は反対して離反しました。享年41。
八代 京極 高品(たかかず)【1741~1792】
京極高永の長男、母は細川興生の娘。
正室は伊勢八田藩主 加納久堅の娘。
九代 京極 高有(たかあり)【1775~1841】
丹後峯山藩主 京極高久の子、母は側室 野口氏。
高品の養子となり、1791年に17歳で但馬豊岡藩を相続しました。1794年(20)・1803年(29)・1818年(44)の3回、大坂加番をつとめました。藩財政再建のために杞柳生産の保護・奨励し、1823年(49)に藩営産物会所を開設して行李流通の独占をはかりました。1831年に57歳で隠居しました。享年67。
十代 京極 高行(たかゆき)【1794~1847】
京極高有の長男、母は脇坂安親の娘。
十一代 京極 高厚(たかあつ)【1829~1905】
京極高行の長男、母は側室 古山氏。
1847年に19歳で但馬豊岡藩を相続しました。1849年(21)に駿府加番、1851年(23)に大坂加番をつとめました。1862年(34)に海防のため領内の津居山港、瀬戸浜、気比浜に大砲を備えました。翌年、生野の変に出兵しました。1869年(41)に版籍奉還して豊岡藩知事となり、1871年(43)に廃藩置県を迎えました。享年77。
正室は小林文次郎の娘
3. 旗本京極家(高三系)
(1)京極五郎左衛門家<番町京極家>
初代 水野 善興(よしおき)【1697~1747】
京極高住の三男、母は難波氏。はじめ祖母の実家の水野を称した。
1714年(18)に父の遺領より蔵米二千俵を分け与えられて寄合となりました。1745年(49)に御小姓組の番士となりました。享年51。
二代 京極 高明(たかあきら)【1735~1779】
水野善興の四男。
三代 京極 高亮(たかすけ)【1759~1788】
京極高明の長男。
1779年に21歳で家督相続しました。享年30。
妻は旗本 坂部広保の娘、後妻は旗本 安藤信姿の娘、後々妻は旗本 大久保忠敬の娘(高亮没後は実家に戻る)。
四代 京極 高螎(たかのぶ)【1765~1819】
京極高明の二男。
妻は旗本 水野勝羨の娘(離婚)、後妻は旗本 大久保忠元の娘。
五代 京極 高潔(たかきよ)【1792~1834】
京極高螎の二男、母は大久保忠元の娘。
妻は大和小泉藩主 片桐貞芳の娘。
六代 京極 高景(たかかげ)【1814~1861】
京極高潔の子、母は片桐貞芳の娘。
1834年に21歳で家督相続して小普請入りしました。1836年(23)に西ノ丸御書院番となり、1849年(36)に西ノ丸御書院番から御使番となりました。1856年(43)に大坂目付となりました。享年51。
妻は旗本 大久保忠陽の娘、後妻は戸川主水の娘、高尾信尹の娘。
京極 高忠【1817~?】
京極高潔の子。はじめ大久保を称した。
1849年(33)に兄の養子となり、1856年(40)に御書院番に召し出され三百俵を賜りました。養父に先立ち没しました。
妻は新見内匠頭の娘。
七代 京極 高簡(たかやす)【1854~1931】
京極高景の子、母は高尾信尹の娘。
1861年にわずか8歳で家督相続しました。1868年(15)頃、本家豊岡藩京極高厚の養子となりました。1869年(16)に藩の権大参事となるが、1871年(18)の廃藩により免官となり、その後廃嫡されました。
八代 京極 高廉(たかかど)【1856~1920】
京極高景の子。1868年(13)頃に家督相続しました。幕府瓦解により本家に吸収され、豊岡に移りました。享年65。
(2)京極大学家<糸井京極家>
初代 京極 高門(たかかど)【1658~1721】
京極高直の三男、母は水野忠善の娘。
京極 高里(たかさと)【?~?】
京極高直の六男。兄高門の養子となるも病により兄高住の許に帰りました。
二代 京極 高為(たかため)【1692~1732】
旗本 稲垣昭友の三男。
高門の養子となり、1721年に30歳で家督相続し、寄合になりました。享年41。
妻は一族京極高久の娘。
三代 京極 高亶(たかあつ)【1719~1785】
旗本 稲垣昭為の二男、母は島津久利の娘。
伯父高為の末期養子となり、1732年に14歳で家督相続し、寄合になりました。1745年(27)に御小姓組に列し、1751年(33)に秋月種陰とともに国目付として会津に赴きました。1755年(37)に御使番に進み、翌年に薩摩藩主島津忠洪(のち重豪)の国政監視のため薩摩国へ赴きました。1764年(46)に新番頭に進み、1774年(56)に日光奉行となり、翌年に大坂町奉行、1781年(63)に御持筒頭に転じました。享年67。
四代 京極 高燭(たかてる)【1757~1785】
京極高亶の長男。
妻は旗本 村瀬俊清の娘(離婚)。
五代 京極 高貞(たかさだ)【?~1864】
越後高田藩主 榊原政永の十二男。
妻は京極高燭の娘。
六代 京極 高教(たかのり)【?~?】
京極高貞の子。
七代 京極 高孝(たかよし)【?~1862】
旗本 秋山正修の子。実祖父は武蔵川越藩主 松平朝矩。
妻は京極高貞の娘か。
八代 京極 高朗(たかあき)【1828~1864】
旗本 滝川具近の子、母は小笠原直毅の娘。
1859年(32)御小姓組進物番出役より御使番に転じ、1860年(33)に目付(勝手掛・外国掛)となりました。1861年(34)に遣欧使節の目付に選ばれ、イギリス、フランスなどを訪れました。翌年二百石を加増され二千二百石となりました。1863年に辞職して寄合になるも、すぐに神奈川奉行となり、長崎奉行、騎兵奉行に転じました。翌年、目付(勝手掛)に再任され、さらに大目付となりましたが、まもなく没しました。享年37。
妻は石河氏の娘 乗子(四代高燭の子 田中正休の娘)、後妻は林復斎の娘 操。
九代 京極 高驥【1842?~1906】
旗本 倉橋政常の子。
妻は京極高朗の養女 政子(七代 高孝の娘)。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
但馬の殿様(吉盛智輝 著 / 神戸新聞総合出版センター)
寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻(東洋書林)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
最後までお読みいただきありがとうございます。