こんにちは、勘矢です。
1. 水戸藩分家 松平家とは
(1)初代水戸藩主 徳川頼房の四男頼元は1661年に二万石を分知されて、常陸額田藩(茨城県)を立藩しました。1700年に二代 頼貞が陸奥守山(福島県郡山市)に転封されました。七代目までは直系で続きましたが、最後の頼之は水戸家からの養子でした。1870年に常陸松川(茨城県大洗町)に移り、廃藩置県を迎えました。
(3)頼房の七男 頼雄は1682年に常陸国茨城郡で一万石を与えられ宍戸(茨城県笠間市)に陣屋を置きました。五代 頼救、七代 頼筠は水戸藩から養子入りしました。1864年に九代 頼徳は水戸藩内の抗争に巻き込まれ、幕府に手向かったとして自刃し、所領没収されました。1868年に隠居の父頼位が再興を許されました。
2. 陸奥守山藩主一覧
初代 松平 頼元(よりもと)【1629~1693】
徳川頼房の四男、母は側室 佐々木氏。
二代 松平 頼貞(よりさだ)【1664~1744】
松平頼元の長男、母は小笠原忠真の娘。
三代 松平 頼寛(よりひろ)【1703~1763】
松平頼貞の三男、母は側室 松本氏。
兄頼尚が病弱のため廃嫡になると、嫡子となりました。1743年に41歳で陸奥守山藩を相続しました。1761年(59)に江戸藩邸内に藩校養老館を創設し、2年後に守山に分校を開校した。また、「菊経国字略解」などの著書がある。享年61。
四代 松平 頼亮(よりあきら)【1744~1801】
松平頼寛の三男、母は側室 益田氏。
松平頼順は水戸藩主 徳川宗尭の長男であるが、側室の子のため二男として幕府に届けられ、二万石を与えられました。頼順は甥の頼図を養子にとりましたが、頼図が22歳で没したため、頼順家は二代で断絶しました。
五代 松平 頼慎(よりよし)【1770~1830】
松平頼亮の二男、母は側室 川上氏。
六代 松平 頼誠(よりのぶ)【1803~1862】
松平頼慎の二男、母は徳川治保の娘。
1830年に28歳で陸奥守山藩を相続しました。助郷反対一揆など様々な騒動が起こりました。1844年(42)に高松藩主 松平頼胤と府中藩主 松平頼縄とともに、水戸藩主 徳川斉昭に隠居・謹慎を伝える使者をつとめました。また、新藩主 徳川慶篤の補佐1849年(47)までをつとめました。享年60。
七代 松平 頼升(よりのり)【1832~1872】
松平頼誠の三男、母は松平頼説の娘。
1862年に31歳で陸奥守山藩を相続しました。1868年(37)奥羽越列藩同盟に参加したが戦意はまったくなく、新政府軍が守山へ進軍してくると戦わずして軍門に降りました。守山藩は新政府軍に協力的に活動したため、1869年(38)に賞典禄が与えられました。また、同年に守山藩知事に任ぜられましたが、病気のため隠居しました。享年41。
八代 松平 頼之(よりゆき)【1858~1873】
頼升の養嗣子となり、1869年にわずか12歳で家督相続し、守山藩知事となりました。翌年、常陸松川に藩庁を移し、松川藩と改めました。1871年(14)に藩庁などが火災で焼失し、十分な復興を見ないうちに廃藩置県を迎えました。享年16。
守山藩の江戸藩邸は、文京区の教育の森公園(旧教育大跡地)にあり、占春園はその屋敷内にひらかれた庭園で、江戸三名園の一つに数えられていた。現在は筑波大学附属小学校の自然観察の場となっていて、公開されています。また、園内に2019年の大河ドラマ「いだてん」に登場した嘉納治五郎の像がある。
3. 常陸府中藩主一覧
初代 松平 頼隆(よりたか)【1629~1707】
1661年(33)に兄で水戸藩主の徳川光圀から水戸藩領のうち二万石を分与されて諸侯に列し、保内藩を立藩しました。1700年(72)に五代将軍 綱吉から陸奥・常陸国内で新知二万石を拝領し、常陸府中藩を立藩しました。このとき保内の旧領は水戸藩に返還されました。参勤交代を行わない定府大名でした。1705年に77歳で隠居しました。享年79。
二代 松平 頼如(よりゆき)【1673~1707】
松平頼隆の三男、母は側室 高橋氏。
兄頼方、頼寧が早世したため、1691年(19)に嫡子となりました。
1705年に33歳で常陸府中藩を相続しました。享年35。
三代 松平 頼明(よりあきら)【1691~1733】
水戸藩家老 松平頼福の長男、母は側室 進藤氏。
1707年(17)に父の従兄弟頼如の養子となり、翌1708年に18歳で常陸府中藩を相続しました。享年43。
四代 松平 頼永(よりなが)【1713~1735】
松平頼明の長男、母は側室 林氏。
1733年に21歳で常陸府中藩を相続しました。享年23。
五代 松平 頼幸(よりゆき)【1719~1742】
松平頼明の四男、母は側室 久野氏。
六代 松平 頼済(よりずみ)【1715~1784】
頼幸の養子となり、1742年に23歳で常陸府中藩を相続しました。享年70。
七代 松平 頼前(よりさき)【1743~1824】
松平頼済の長男、母は徳川宗直の娘。
1784年に42歳で常陸府中藩を相続しました。1795年に53歳で 隠居しました。享年82。
八代 松平 頼説(よりひさ)【1778~1833】
松平頼済の二男 頼陽の長男、母は側室 鈴木氏。
1794年(17)に伯父頼前の養子となり、1795に18歳で常陸府中藩を相続しました。享年56。
九代 松平 頼縄(よりつぐ)【1805~1884】
松平頼説の長男、母は側室 曾我氏。
1833年に29歳で常陸府中藩を相続しました。1844年(40)に高松藩主 松平頼胤と守山藩主 松平頼誠とともに、水戸藩主 徳川斉昭に隠居・謹慎を伝える使者をつとめました。また、新藩主 徳川慶篤の補佐1849年(45)までをつとめました。1868年に64歳で隠居しました。享年80。
十代 松平 頼策(よりふみ)【1848~1886】
松平頼縄の三男。
4. 常陸宍戸藩主一覧
(第1次)
初代 松平 頼雄(よりお)【1630~1697】
徳川頼房の七男、母は側室 佐々木氏。
二代 松平 頼道(よりみち)【1657~1721】
徳川頼房の七男 頼利の子。
叔父 頼雄の養子となり、1697年に41歳で常陸宍戸藩を相続しました。1719年に63歳で隠居しました。享年65。
正室は水戸家家臣 鈴木重政の娘。
三代 松平 頼慶(よりのり)【1679~1742】
松平頼道の長男、母は鈴木重政の娘。
1719年に41歳で常陸宍戸藩を相続しました。享年64。
四代 松平 頼多(よりた)【1722~1766】
松平頼慶の長男、母は側室 浦上氏。
1742年に21歳で常陸宍戸藩を相続しました。享年45。
正室は石見津和野藩主 亀井玆胤の娘。
松平 頼洽(よりひろ)【1750~1766】
松平頼多の二男。父に先立って没しました。享年17。
五代 松平 頼救(よりすけ)【1756~1830】
正室は松平頼多の娘 喜多。
六代 松平 頼敬(よりゆき)【1778~1807】
松平頼救の長男、母は側室 杉崎氏。
七代 松平 頼筠(よりかた)【1801~1839】
頼敬の婿養子となり1807年にわずか7歳で常陸宍戸藩を相続しました。享年39。
正室は松平頼敬の養女(松平頼救の娘)金姫。
八代 松平 頼位(よりたか)【1810~1886】
松平頼救の四男、母は側室 田口氏。
長倉松平氏は水戸藩初代徳川頼房の第8子 頼泰からはじまり、江戸中期に水戸藩より保福が養子に入りました。頼位が宍戸藩を相続後は保福の子 頼譲が相続しました。頼譲は徳川斉昭が隠居処分になったのち、無断で江戸に出府したことにより隠居謹慎」となりました。
九代 松平 頼徳(よりのり)【1831~1864】
松平頼位の長男、母は松平保福の娘。
1846年に16歳で常陸宍戸藩を相続しました。
1864年(34)に天狗党が筑波山で挙兵すると、幕府は若年寄 田沼意尊(遠江相良藩主)を総督に軍を差し向け、水戸藩の保守門閥派とともに天狗党と対立しました。頼徳は水戸藩主 徳川慶篤の名代として藩内鎮撫のため水戸へ下向しましたが、保守門閥派に妨げられて戦闘となったため水戸城に入城できず、那珂湊に移りました。天狗党の軍勢も那珂湊周辺に集結したため、頼徳は反門閥派の中心に担ぎ上げられ、幕府軍と対抗することになりました。その後、頼徳は幕府側に召致され、水戸藩士族 松平頼遵邸に拘禁されました。官位・領地を剥奪され、切腹を命じられました。享年34。
宍戸藩の領地は幕府領となりました。
(第2次)
初代 松平 頼位(よりたか)【1810~1886】
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川一族大全(廣済堂出版)
松平頼譲之小傳(東京国立博物館デジタルライブラリー)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。