探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

美作津山藩 松平家

こんにちは、勘矢です。
今回は美作津山藩松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 美作津山藩松平家

 1623年に忠直が改易されると、その子光長は翌年、越後高田(新潟県上越市)で二十五万石を与えられました。1681年に光長は越後騒動で改易となりました。
 その後一門の宣富を養子に迎え、1698年に美作津山(岡山県津山市)で十万石で再興しましたが、その子浅五郎が幼少で没すると五万石を減封されました。その後も短命の藩主が続きました。
 1817年に十一代将軍の十四男 斉民を養子に迎えて加増されて十万石に復しました。斉民は隠居後に確堂と号し、明治維新後に徳川宗家の後見人となりました。
 斉民の養子慶倫のときに廃藩置県を迎えましたが、その直後に没しました。家督は隠居斉民の四男康倫が相続しました。
 

f:id:SGM335:20210522105857p:plain

津山松平氏系図
 
 

2. 津山松平家当主

初代 松平 光長(みつなが)【1615~1707】
 松平忠直の長男、母は徳川秀忠三女勝姫。
 1623年に父忠直が改易となると9歳で越前北庄を相続するも翌年、越後高田二十六万石への転封を命じられました。光長は江戸にいることが多く、藩政は小栗正高・美作父子や萩田隼人の両家老に任せていました。
 1674年(60)に嫡子綱賢が世子なく病没したため、跡目相続をめぐる御家騒動(越後騒動)が起き、 1679年(65)に大老酒井忠清の裁断によって一件落着しました。しかし、五代将軍に徳川綱吉が就任するとこの件を蒸し返し、1681年(67)に改易となりました。伊予松山藩に預けられ、1687年(73)に赦されて江戸に帰り、三万俵を与えられました。
 1693年(79)に播磨姫路藩主 松平直矩の三男宣富を養子に迎え、1697年(83)に隠居しました。享年93。
 正室長州藩主 毛利秀就の娘 土佐。
 

f:id:SGM335:20210522110028j:plain

高田城
 
二代 松平 宣富(のぶとみ)【1680~1721】
 播磨姫路藩主 松平直矩の三男、母は側室 村上氏。はじめ矩栄、長矩、長知と名乗りました。
 1693年(14)に越後騒動で改易になった松平光長の養子となり、1697年(18)に家督相続し、翌1698年(19)に美作津山十万石を与えられました。入封直後に高倉騒動と呼ばれる農民一揆が起こりました。享年42。
 正室は出羽久保田藩主 佐竹義処の娘 岩、継室は公家 櫛笥隆賀の養女(公家 園池実尚の娘)。
 
三代 松平 浅五郎(あさごろう)【1716~1726】
 松平宣富の長男、母は櫛笥隆賀の養女。
 1721年にわずか6歳で美作津山藩を相続しました。享年11。
 
四代 松平 長熙(ながひろ)【1720~1735】
 陸奥白河新田藩主 松平知清の三男、母は側室 本多氏。
 従兄の浅五郎が早世したため、1726年(7)に五万石の減封で長熙に家督相続が許されました。入封直後から翌年にかけて山中騒動と呼ばれる農民一揆が起きました。享年16。
 
五代 松平 長孝(ながたか)【1725~1762】
 出雲広瀬藩主 松平近朝の三男、母は側室 槇島氏。
 はじめは広瀬藩の本家出雲松江藩主 松平宣維の養子となりましたが、長熙に世子がなかったことからその養子となり、1735年に11歳で美作津山藩を相続しました。農政改革を行いました。享年38。
 正室は伊勢津藩主 藤堂高治の娘 岸。
 
六代 松平 康哉(やすちか)【1752~1794】
 松平長孝の長男、母は藤堂高治の娘。
 1762年に11歳で美作津山藩を相続しました。藩政改革を行い、藩校を創設しました。享年43。
 正室は近江彦根藩井伊直幸の娘 勢與。
 
七代 松平 康乂(やすはる)【1786~1805】
 松平康哉の二男、母は側室 柴田氏。
 1794年にわずか9歳で美作津山藩を相続しました。享年20。
 正室は伊勢津藩主 藤堂高薿の娘 穀。
 
八代 松平 斉孝(なりたか)【1788~1838】
 松平康哉の三男、母は側室 池田氏
 兄康乂の養子となり、1805年に18歳で美作津山藩を相続しました。1817年(30)に十一代将軍 徳川家斉の十四男 斉民を養子に迎え、五万石を加増されて十万石に復しました。1831年に44歳で隠居しました。享年51。
 正室は越前福井藩主 松平治好の娘 筝。
 
九代 松平 斉民(なりたみ)【1814~1891】
 徳川家斉の十四男、母は牧野氏。
 1817年(4)に斉孝の養子となり、1831年に18歳で美作津山藩を相続しました。1855年に42歳で隠居し、確堂と号しました。
 1858年(45)井伊大老より清水家相続の話が持ち上がりましたが、実現しませんでした。1868年(55)に皇女和宮の守衛を命ぜられ、翌年には徳川宗家を継いだ家達の後見人となりました。享年78。
 正室は松平斉孝の娘 従、継室は松平維賢の娘 敏(維賢は斉孝の弟)。
 
十代 松平 慶倫(よしとも)【1827~1871】
 松平斉孝の三男、母は側室 中西氏。
 義兄斉民の養子となり、1855年に29歳で美作津山藩を相続しました。1864年(38)の第一次長州征伐の際に山陰方面の征長軍の監督を命じられました。1866年(40)の第二次長州征伐では安芸国まで出兵し、1868年(42)の鳥羽伏見の戦いののち、新政府軍に属しました。
 1869年(43)に版籍奉還して津山藩知事に任ぜられ、1871年(45)に廃藩置県を迎えましたが、その直後に没しました。享年45。
 正室筑前福岡藩黒田長溥の養女(豊前中津藩主 奥平昌暢の娘)儀。
 

f:id:SGM335:20210522110223j:plain

津山城備中櫓
 
 

3. 越後騒動

 越後高田藩松平光長の世子綱賢が嗣子なく没すると、光長には他に男子がないため継嗣問題が起きました。藩政の実権を握っていた家老の小栗美作は、光長の異父弟永見長頼の子 万徳丸を継嗣に決めました。その後、万徳丸は元服して綱国と改めました。
 光長のもう一人の異父弟 永見長良(永見大蔵)を中心とした反対派(お為方を称する)は美作の失脚を企み、光長の命により美作は家老職を辞職することになりました。
 しかし事態は収拾せず、幕府大老酒井忠清によって裁断が行われ、両者に和解を申し渡しました。しかし、光長が参勤交代で江戸に行くと再び国許で騒ぎがまた起きて、幕府の命を無視する形となったため、幕府は首謀者の永見らを大名家へのお預けとしました。
 ところが、五代将軍に徳川綱吉が就任した後、この件が再審となり、1681年に綱吉の親裁により両派ともに処分され、小栗親子は切腹、永見らは八丈島などに島流しとなりました。また、藩主光長は家中取り締り不行届きであるとして改易となりました。
 
松平 綱賢(つなかた)【1633~1674】
 松平光長の嫡男、母は毛利秀就の娘 土佐。
 1653年(21)に元服。享年42。
 正室は公家 九条通房の娘。通房の正室は忠直の娘 鶴姫。
 
松平 綱国(つなくに)【1662~1735】
 永見 長頼の子。万徳丸。
 1675年(14)に越後高田藩松平光長の養子となりました。1681年(20)に越後騒動により備後福山藩に預けられました。1688年(27)に赦免されて江戸に戻るも、その後廃嫡されました。享年74。
 
永見 長頼(ながみ ながより)【1630~1667】
 松平忠直の子。通称は市正。父忠直が配流中に生まれ、秀康の母方の姓を名乗りました。1650年(21)に忠直が没すると、兄光長に引き取られました。享年38。
 
永見 長良(ながみ ながよし)【1632~1701】
 松平忠直の子。通称は大蔵。父忠直が配流中に生まれ、秀康の母方の姓を名乗りました。1650年(19)に忠直が没すると、兄光長に引き取られました。1679年(48)に長州藩にお預けとなり、1681年(50)に越後騒動の再審の結果、八丈島に流されました。享年70。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学芸出版
 徳川一族大全(廣済堂出版
 日本人名大辞典(講談社
 徳川御三卿(徳川記念財団)
 事典にのらない 江戸大名の晩年と隠居(新人物往来社
 徳川実紀 第参編(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 大名家のお家騒動(川村和彦 著/電子書籍
 津山市史 第4巻 近世Ⅱ-松平藩時代(津山郷土博物館 津山市史PDF公開)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。