探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

越後糸魚川藩 松平家

こんにちは、勘矢です。
今回は越後糸魚川藩松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 越後糸魚川藩松平家

 福井藩主松平光通の庶子直堅は、1677年に、蔵米一万俵を与えられました。広瀬松平家からの養子直之が、1717年に越後糸魚川新潟県糸魚川市)で一万石を与えられました。糸魚川藩定府大名で、江戸から役人を派遣して領地を治めました。
 三代 直之の養子となった直好は久松松平氏徳川家康の異父弟の一族)からの養子で、以降直廉までは秀康の血筋ではない当主でした。直好が養子に迎えられたのは、直好の叔母が直之の実家の本家になる松江松平家に嫁いでいるので、その縁から選ばれたのではないかと考えます。
 七代直益は越前松平一門の明石藩主松平直泰の娘を正室に迎え、その間に生まれたのが八代直春です。直春は母方で秀康の血筋を汲みます。最後の藩主直静が明石藩から迎えられたのは、直益の婚姻の縁からだと考えます。
 また、直静の先代直廉は本家である福井藩主慶永が不時登城によって隠居謹慎になると福井藩を相続し茂昭と改名しました。
 

福井藩についてはこちらをご覧ください。

越前福井藩 松平家 - 探検!日本の歴史

 

2. 糸魚川松平家当主

初代 松平 直堅(なおかた)【1656~1697】
 松平光通の子、母は側室 お三。
 父光通の正室国姫(松平光長の娘)は実子に恵まれなかったことから、光通は正室を憚って父子の対面を許さず、直堅は家老永見氏に預けました。
 1673年(18)に一族の松平直良を頼って福井藩を離れました。1675年(20)に四代将軍徳川家綱に拝謁し、1677年(22)に蔵米一万石を下賜され、その後江戸赤坂溜池に屋敷を与えられました。享年42。
 
二代 松平 直知(なおとも)【1685~1704】
 松平直堅の嫡男。1697年に13歳で家督相続しました。享年20。
 
三代 松平 直之(なおゆき)【1682~1718】
 出雲広瀬藩主 松平近時の二男。
 直知の妹亀姫の婿養子となり、1704年に23歳で家督相続しました。1717年(36)に越後糸魚川で一万石を与えられました。享年37。
 正室は松平直知の養女(松平直堅の娘)亀姫、継室は下野鹿沼藩主 内田正衆の娘 美和。
 
四代 松平 直好(なおよし)【1701~1739】
 旗本 松平定員の長男。
 直之の養嗣子となり、1718年に18歳で越後糸魚川藩を相続しました。1726年(26)に大坂加番となり、その後、江戸城馬場先門番役、日光祭礼奉行などをつとめました。享年39。
 正室信濃飯山藩主 本多助芳の娘、継室は下総結城藩主 水野勝政の娘。
 
五代 松平 堅房(かたふさ)【1734~1773】
 松平直好の長男。
 1739年にわずか6歳で越後糸魚川藩を相続しました。1756年(23)に大坂加番をつとめ、そのほかに江戸城馬場先門番役や日光祭礼奉行などをつとめました。享年40。
 正室は近江大溝藩主 分部光命の娘 章。
 
六代 松平 直紹(なおつぐ)【1759~1814】
 松平堅房の長男。
 1773年に15歳で越後糸魚川藩を相続しました。1789年(31)に大坂加番をつとめ、1801年(43)から1806年(48)まで大坂定番をつとめました。1806年に48歳で隠居しました。享年56。
 正室信濃飯山藩主 本多助盈の娘 八重、継室は陸奥福島藩主 板倉勝矩の娘 琴枝。
 
七代 松平 直益(なおます)【1789~1833】
 松平直紹の長男、母は本多助盈の娘。
 1806年に18歳で越後糸魚川藩を相続しました。1813年(25)に大坂加番をつとめました。1826年に38歳で隠居しました。享年45。
 正室は播磨明石藩主 松平直泰の娘 幹、継室は駿河田中藩主 本多正温の娘 高。
 
八代 松平 直春(なおはる)【1810~1878】
 松平直益の長男、母は松平直泰娘。
 1826年に17歳で越後糸魚川藩を相続しました。1827年(18)と1830年(21)に大坂加番をつとめました。1857年に48歳で隠居しました。享年69。
 正室は出羽久保田藩主 佐竹義和の娘 熊。
 
九代 松平 直廉(なおかど)【1836~1890】
 松平直春の長男、母は側室 田辺氏。
 1857年に22歳で越後糸魚川藩を相続しました。翌年、越前福井藩を相続して茂昭と改名しました。享年55。
 正室は公家 久我建通の娘幸子、継室は公家 広橋胤保の娘幾子。婚約者は阿波徳島藩主 蜂須賀斉裕の娘 賀代。
 
十代 松平 直静(なおやす)【1848~1913】
 播磨明石藩主 松平斉韶の七男、母は松平直恒の娘。
 直廉の養嗣子となり、1858年に11歳で越後糸魚川藩を相続しました。隠居の直春が後見役をつとめました。
 1868年(21)に清崎藩と改称し、翌年に版籍奉還して清崎藩知事に任ぜられました。1871年(24)に廃藩置県を迎えました。享年66。
 正室は松平直春の娘釣姫、継室は出羽久保田新田藩主 佐竹義理の養女(松平直春の娘)安屋。
 
糸魚川藩上屋敷は溜池あたりにあり、現在の溜池山王駅出口14を出た正面にあたり、およそ榎坂、新榎坂、桜坂、六本木通りに囲まれた区画に相当する場所にありました。

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溜池山王駅出口14と赤坂インターシティAir糸魚川藩上屋敷はこの写真の反対側あたり)
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川実紀 第参編(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩(人文社)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。