探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

越前福井藩 松平家

こんにちは、勘矢です。
今回は越前福井藩松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 越前福井藩松平家

 
 徳川家康の二男秀康は、結城晴朝の養子となって結城秀康を称し、下総結城(茨城県結城市)で十万千石を領しました。1600年の関ヶ原の戦い後、越前北庄(福井県福井市)六十七万石を与えられました。その子忠直は、叔父の将軍秀忠の娘勝姫を娶りましたが、不行状によって改易となりました。
 1624年に忠直の弟で越後高田(新潟県上越市)藩主の忠昌にその所領は与えられ、福井藩と改称しました。忠直の子光長には、忠昌の領地高田藩を与えられました。1645年には分知して四十四万七千石となりました。
 光通の跡は弟昌勝が相続し、その後昌勝は甥の綱昌に家督を譲りましたが、綱昌が発狂して除封となると、二十五万石で昌勝は吉品と改名して再度藩主となました。
 宗昌の跡は一門の宗矩が継ぎましたが子がなく、御三卿の一橋家から相次いで養子を迎えました。その後、斉承の正室に将軍徳川家斉の娘浅姫を迎えたことから加増されて、三十二万石となりました。
 幕末の慶永(春嶽)は田安家からの養子で、幕末四賢候の一人として活躍しました。
慶永が隠居謹慎となると糸魚川藩から茂昭を養子に迎え、廃藩置県を迎えました。
 

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福井松平氏系図
 
 

2. 越前福井藩主一覧

初代 結城 秀康(ひでやす)【1574~1607】
 徳川家康の二男、母は側室 永見氏 お万の方。
 1584年(11)に小牧長久手の戦いのの講和後に豊臣秀吉の養子となり、翌年に元服し、羽柴秀康と名乗り、河内国内で二万石を与えられました。1587年(14)に九州征伐で初陣しました。1590年(17)に下総国の名門結城晴朝の婿養子となり、下総結城十万千石を相続し、一時結城秀朝を名乗りました。1592年(19)の文禄の役肥前国名護屋に在陣しました。
 1600年(27)の関ヶ原の戦いに際しては下野国小山に在陣し、会津主上杉景勝の南下に備えました。戦後の論功行賞によって越前北庄で七十五万石を与えられました。1606年(33)に五男直基を義父晴朝の後嗣として結城家を継承させました。享年34。
 正室結城晴朝の養女(江戸重通の娘)鶴姫。
 

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結城秀康の像(福井城)
 
二代 松平 忠直(ただなお)【1595~1650】
 結城秀康の長男、母は側室 中川氏。
 1607年に13歳で北庄藩を相続しました。1612年(18)に主席家老の本多富正と次席家老の今村盛次の確執などから藩内を二分する御家騒動(久世騒動)が起こりました。次席家老の今村盛次は本多派の久世但馬一族を誅殺しましたが、大御所徳川家康にの採決によって今村派は全員配流に処せられました。本多派には何も処分は行われませんでした。
 1614年(20)と翌年の大阪の両陣に出陣し、夏の陣の八尾・若江の戦いにおいて藤堂・井伊隊が苦戦しているのを傍観して出撃しなかったため家康の怒りを買いました。翌日の未明に抜け駆けをして真田幸村を討ち取り、大坂城大手口に一番乗りを果たしました。家康から評定の席で称賛されましたが、褒賞は初花の茶壷一個のみでした。
 その後、忠直は酒食に溺れ乱行が重なり、将軍家に対しても不遜の行動が顕著になりました。そのため、1623年(29)に改易を命じられ、豊後国へ配流となりました。享年56。
 正室徳川秀忠の娘 勝姫。
 
三代 松平 忠昌(ただまさ)【1597~1645】
 結城秀康の二男、母は側室 中川氏。
 1607年(11)に上総姉崎で一万石を与えられました。1615年(19)の大坂夏の陣に兄忠直に属して戦功を立てました。同年、二万石を加増されて常陸下妻で三万石となり、さらに翌年信濃川中島十二万石を与えられ、海津城に入りました。1619年(23)に越後高田二十五万石となり、美濃本江藩主の稲葉正成を付属され、糸魚川を与えました。
 1624年(28)に兄忠直改易により、越前北庄五十万石への転封を命じられました。北庄を福井に改称しました。 1626年(30)に三代将軍徳川家光の上洛に供奉しました。1637年(41)に越前国内で二万五千石を加増されました。享年49。
 正室紀伊和歌山藩浅野幸長の娘 花姫、継室は公家 広幡兼賢の娘 道姫。正室花姫の妹は尾張藩徳川義直正室となっている。
 
四代 松平 光通(みつみち)【1636~1674】
 松平忠昌の嫡男、母は広幡兼賢娘。
 1645年にわずか10歳で福井藩を相続しました。このとき、異父兄昌勝に越前松岡五万石、異母弟昌親に越前吉江二万五千石を分与したので四十五万石となりました。
 1669年(34)に福井城下で大火が起こり、福井城天守閣なども焼けました。幕府から復興のため五万両を借用し、城下を復興させましたが、天守閣は再建されませんでした。
 光通は庶子直堅をもうけていましたが、正室国姫との間に世子はなかったのでこれを認めませんでした。庶子の件は国姫の祖母高田殿(勝姫)に知られ、光通は高田殿から糾明され、世子がいない旨の起請文を取り付けるほどの事態に発展し、祖母と夫との板挟みになった国姫は1671年(36)に自害しました。また、1673年(38)に直堅は叔父の大野藩主 松平直良を頼って江戸に逃れ、子孫は越後糸魚川藩主になりました。1674年(39)にこうしたことから弟昌親に家督を譲る遺言を残して自害しました。享年39。
 正室は越後高田藩松平光長の娘 国姫。
 
松岡藩・吉江藩についてはこちらをご覧ください。
 
五代 松平 昌親(まさちか)【1640~1711】
 松平忠昌の五男、母は側室 浦上氏。
 1645年(6)に兄光通が福井藩を相続したときに越前国丹生郡にて二万五千万を与えられて諸侯に列しました。1674年(35)に光通の急死により福井藩を相続しました。吉江藩は廃藩となり、その所領は福井藩に返還されたので四十七万五千石となりました。1676年に37歳で隠居しました。享年72。
 正室は美作津山藩主 森長継の娘 万姫。
 
六代 松平 綱昌(つなまさ)【1661~1699】
 越前松岡藩主 松平昌勝の長男、母は松平(久松)定行の娘。
 1674年(14)に叔父昌親の養子となりました。1676年に16歳で福井藩を相続しました。1681(21)頃から不可解な行動がみられるようになり、1686年(26)に乱心を理由に除封となりました。綱昌は江戸鳥越に蟄居となりました。享年39。
 正室は公家 飛鳥井雅直の娘清姫
 
七代 松平 吉品(よしのり)【1640~1711】
 松平忠昌の五男、母は側室 浦上氏。
 1686年(47)に綱昌が改易となると、由緒ある家柄を考慮して隠居の昌親に二十五万石を与えられて福井松平家を再興しました。所領が半知となったため約二千人の家臣を解雇し、残る家臣の給禄も大幅に減らしました。また、職制などを改革整備し、藩政を一新しました。
 1703年(64)に家格が旧に復し、五代将軍 徳川綱吉の一字を賜り吉品と改めました。1710年に71歳で隠居しました。享年72。
 正室は美作津山藩主 森長継の娘 万姫。
 
八代 松平 吉邦(よしくに)【1681~1721】
 越前松岡藩主 松平昌勝の六男、母は側室 秋山氏。
 1701年(21)に叔父昌親(吉品)の養子となりました。1710年に30歳で福井藩を相続しました。享年41。
 正室は公家 日野西国豊の娘 梅姫。
 
九代 松平 宗昌(むねまさ)【1675~1724】
 越前松岡藩主 松平昌勝の三男、母は側室 中根氏。はじめ昌平と名乗りました。
 1690年(16)に奥詰小姓となり、1693年に19歳で越前松岡藩を相続しました。1721年(47)に異母弟で福井藩主 松平吉邦の養子となり福井藩を相続し、八代将軍徳川吉宗の一字を賜り宗昌と改めました。そのため松岡藩は廃藩となり、領地は福井藩に吸収されたので三十万石となりました。享年50。
 正室豊前小倉藩主 小笠原忠雄の養女(常陸額田藩主 松平(水戸)頼元の娘)菊姫
 
十代 松平 宗矩(むねのり)【1715~1749】
 陸奥白河新田藩主 松平知清の二男、母は側室 本多氏。
 1721年(7)に宗昌の養子となりました。1724年に10歳で福井藩を相続しました。在任中は災害が相次ぎ、財政も極度に逼迫しました。このため、藩では格式の回復を希求して、将軍家近臣中から養子を迎えることを幕に懇願しました。八代将軍 徳川吉宗の孫小五郎(のち重昌、一橋宗尹の長男)を養子に迎えることになり、藩祖秀康の血統は絶えました。享年35。
 正室は松平吉邦の娘 勝姫。
 
十一代 松平 重昌(しげまさ)【1743~1758】
 一橋宗尹の長男、母は一条兼香の娘。
 1747年(5)に宗矩の養子となりました。1749年にわずか7歳で福井藩を相続しました。幼少のため父 宗尹が後見役をつとめました。享年16。
 婚約者は尾張藩徳川宗勝の娘 品姫。
 
十二代 松平 重富(しげとみ)【1748~1809】
 一橋宗尹の三男、母は側室 細田氏。
 異母兄重昌の末期養子となり、1758年にわずか11歳で福井藩を相続しました。在任中は一揆や打ちこわしが続き、1768(21)には福井藩史上で最大の一揆が起こりました。1799年に52歳で隠居しました。享年62。
 正室紀州藩徳川宗将の娘 致姫。
 
十三代 松平 治好(はるよし)【1768~1825】
 松平重富の長男、母は徳川宗将の娘。
 1799年に32歳で福井藩を相続しました。財政逼迫の中でも奢侈を極めました。1809年(42)に城内に医学所済世館を設立しました。1818年(51)嫡男斉承に十一代将軍 徳川家の娘 浅姫と婚約したことにより二万石を加増され、三十二万石となりました。1819年(52)に城下桜馬場に学問所正義堂を創設しました。享年58。
 正室田安宗武の娘 定姫。
 
十四代 松平 斉承(なりつぐ)【1811~1835】
 松平治好の長男、母は側室 千種氏。
 1826年に16歳で福井藩を相続しました。相続直後に5カ年の倹約令を発し、1829年(19)に家中へ七ヵ年の給禄半減を命じましたが、斉承自身は奢侈を好み、江戸藩邸や福井城本丸御殿の増改築を行ったため、多額の費用がかかり、倹約政策はうまくいきませんでした。享年25。
 正室は将軍 徳川家斉の娘 浅姫。
 
十五代 松平 斉善(なりさわ)【1820~1838】
 将軍 徳川家斉の二十二男、母は側室 高木氏。
 幕命により斉承の養子となり、1835年に16歳で福井藩を相続しました。享年19。
 婚約者は閑院宮愛仁親王妹昌宮。
 
十六代 松平 慶永(よしなが)【1828~1890】
 田安斉匡の八男、母は側室 木村氏。
 幕命により斉善の養子となり、1838年にわずか11歳で福井藩を相続しました。襲封当時、藩財政は極度に窮乏していたため、中根雪江らを抜擢して藩政改革に着手しました。また、水戸藩徳川斉昭ら有力大名と交流を深めました。
 嘉永年間(1848~54)になると海防体制の強化や軍制改革などに力を注ぎました。1853年(26)にペリー来航時には幕府に建言書を提出し、強硬な開国拒絶論を唱えましたが、藩医 橋本左内ら改革派の意見を容れ、藩論を開国貿易論へ転換しました。1855年(28)に藩校明道館を創設しました。
 
 一方、薩摩藩主の島津斉彬らと幕政の大改革を目指し、一橋慶喜を将軍継嗣とすることを唱えて一橋派を主導して、南紀派と対抗しました。1858年(31)に日米修好通商条約を無断調印したことを糾弾するため不時登城したことにより隠居謹慎となり、このとき春嶽と号しました。
 1860年(33)に謹慎が解除され、政事総裁職に就任しました。将軍後見職一橋慶喜と協力し、幕政改革に着手しました。政事総裁職は9か月で辞任しましたが、1863年(36)に上洛して朝議に参与し、翌年  短期間京都守護職となりました。
 1867年(40)に十五代将軍 徳川慶喜大政奉還し、その後の王政復古に際しては、徳川一族として宗家救解にも精魂を尽くしました。新政府では、議定・民部卿・大蔵卿などを歴任しました。1870年(43)に一切の公職を辞し、読書や文筆に励み、維新史研究上で重要な著作を数多く残しました。享年63。
 正室は肥後熊本藩主 細川斉護の娘 勇姫。
 
十七代 松平 茂昭(もちあき)【1836~1890】
 越後糸魚川藩主 松平直春の長男、母は側室 田辺氏。はじめ直廉と名乗りました。
 1857年に22歳で越後糸魚川藩を相続しました。宗家の福井藩主 慶永が将軍継嗣問題で隠居謹慎となったため、1858年に23歳で福井藩を相続し、十四代将軍 徳川家茂の一字を賜り茂昭と改めました。
 1861年(26)に江戸内海の警備を命ぜられ、1864年(29)に朝命により御所内御門外の警衛に任ぜられ、禁門の変の際に応戦しました。第一次長州征伐の際には、副総督となって小倉に出陣しました。第二次長州征伐の際には病により参戦できませんでした。
 1867年(32)に十五代将軍 徳川慶喜大政奉還するといち早く新政府に恭順の意を示しましたが、翌年の戊辰戦争では再び病となったため出兵が遅滞したため、新政府軍から嫌疑を受けました。そのため、家老の本多副元を名代として出兵し、戦功を立てました。
 翌年版籍奉還して福井藩知事となり、1871年(36)に廃藩置県を迎えました。享年55。
 正室は公家 久我建通の娘幸子、継室は公家 広橋胤保の娘幾子。婚約者は阿波徳島藩主 蜂須賀斉裕の娘 賀代。
 

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福井城址のご案内

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福井城御廊下橋
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。