探検!日本の歴史

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最後の将軍 徳川慶喜とその兄弟~徳川斉昭の子たち~

こんにちは、勘矢です。
今回は最後の将軍 徳川慶喜とその兄弟について調べたことをまとめました。
 
 

1. 徳川慶喜とその兄弟

 水戸藩九代藩主 徳川斉昭【1800~1860】には、22男15女の37人子がありました。徳川慶喜は斉昭の7男で14番目の子でした。
 
 慶喜には6人の兄と7人の姉があり、その内8人は早世しました。また、15人の弟と8人の妹があり、その内9人は早世しました。
 賢姫から祝姫の3人は斉昭が部屋住時代の子で、慶篤以降が藩主就任後に生まれた子たちです。1832年から1844年までほぼ毎年のように子が生まれていてます。この期間に生まれたのは20人で、その半数が側室の山野辺氏(7人)と松波氏(6人)から生まれています。慶喜が生まれた1837年は、4人生まれています。
 

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徳川慶喜の兄弟1
 
 昭訓以降の14人は、斉昭が隠居後に生まれた子たちで、慶喜が一橋家に養子入りした後となります。また、側室を新しく迎えて斉昭が亡くなる2年前までに9男5女をもうけました。その半数以上が公家出身の側室の万里小路建房の娘(6人)と高丘永季の娘(4人)から生まれています。
 

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徳川慶喜の兄弟2
 
 斉昭が藩主時代の子女たちは、外様もしくは親藩の大名家と縁組をしています。松姫(外様:盛岡藩南部利剛室)、池田慶徳(外様:因幡鳥取藩主)、松平直侯(親藩川越藩主)、池田茂政(外様:岡山藩主)、八代姫(外様:仙台藩伊達慶邦室)、松平武聡(親藩浜田藩主)、喜連川縄氏(外様:喜連川藩主)。
 斉昭が隠居後の子女たちは、茂姫(有栖川熾仁親王妃)と正姫(外様:鹿野藩主 池田徳澄室)を除いて、譜代もしくは親藩の大名家と縁組をしています。松平忠和(譜代:島原藩主)、土屋挙直(譜代:土浦藩主)、愛姫(譜代:高岡藩 井上正順室)、徳川昭武御三卿 清水家当主のち水戸藩主)、松平喜徳親藩会津藩主)、松平頼之(水戸家支藩守山藩主)。
 
 
徳川 慶喜(よしのぶ)【1837~1913】
 徳川斉昭の七男、母は正室 登美宮 吉子(有栖川宮 織仁親王の五女)。
 幼名七郎麿、初名昭致(あきむね)。1847年(11)に御三卿 一橋家の養子となり、慶喜と改名しました。1862年(26)に将軍後見職となって十四代将軍 徳川家茂を補佐しました。
 1866年(30)8月に徳川宗家を相続し、12月に将軍職に就きましたが、翌年に大政奉還して将軍職を辞任しました。1868年(32)鳥羽伏見の戦いで敗れると大坂から江戸に戻って寛永寺で謹慎し、その後、水戸ついで駿府に移されて謹慎を続けました。翌年に謹慎は解かれましたが、以後は表舞台に立たず、趣味に生きました。享年77。
 正室は公家 一条忠香の養女(公家 今出川公久の娘)美賀子。
 

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二条城
 
 

2. 斉昭の正室と側室

 登美宮 吉子【1804~1893】
  有栖川織仁親王王女。享年90。
 
側室
 萩原氏【1804~1867】
  古輿。糸魚川藩家臣 萩原恊盛の娘。享年64。
 
 山野辺氏【?~?】
  直。家老 山野辺義質の娘。
 
 松波氏【1818~1844】
  貞子。仙洞御所侍 松波光寧の娘。享年27。
 
 柳原氏【?~?】
  登聞。公家 柳原中納言隆光の娘。
 
 立原氏【1817~1847】
  利子。水戸藩士 立原杏所の娘。享年31。
 
 万里小路氏【1834~1921】
  睦子。公家 万里小路大納言建房の娘。享年88。
 
 高丘氏【?~?】
  徳子。公家 高丘参議永季の娘。
 
 庵原氏【?~?】
  道子。旗本 高橋重賢の娘。
  ※「徳川慶喜華麗なる一族」では庵原氏、「徳川斉昭 不確実な時代に生きて」では高橋氏。
 
 高橋氏【?~1896】
  悦子。旗本 高橋高明の娘。
 
 

3. 徳川慶喜の兄と姉

(1)賢姫(佐加姫)【1822~1839】
 徳川斉昭の長女、母は側室 萩原氏。1822年生まれ。伊予宇和島藩伊達宗城との婚約中に没しました。享年18。
 
 宇和島藩の伊達家についてはこちらをご覧ください。
 
(2)色許姫【1825~1826】
 徳川斉昭の二女、母は側室 萩原氏。早世。
 
(3)祝姫(本岐姫、欽子)【1827~1853】
 徳川斉昭の三女、母は側室 萩原氏。水戸藩家臣 山野辺義正に嫁ぎました。享年27。
 
(4)徳川 慶篤(よしあつ)【1832~1868】
 徳川斉昭の長男、母は正室 登美宮 吉子。幼名鶴千代。
 1844年(13)に父斉昭の隠居に伴い相続しました。1858年(27)に父と無断登城して井伊大老を責問するも、登城停止の処分を下されました。同年、勅書問題が起こり返納をめぐって藩内が動揺し、1860年(29)に激派による桜田門外の変が起きました。
 1863年(32)に将軍徳川家茂に従って上洛し、その後、将軍の目代として江戸に戻りました。翌年、筑波山で挙兵(天狗党の乱)が起こると幕府による追討軍が派遣され、激戦が展開されました。また、分家の常陸宍戸藩主 松平頼徳を藩内鎮撫のために派遣しましたが、頼徳は鎮撫に失敗したため、責任を問われて自刃し、宍戸藩は取り潰しとなりました。1868年(37)に在京藩士が東下して藩政を回復しまし、慶篤も水戸に入りましたが、その直後に没しました。享年37。
 正室有栖川宮 幟仁親王王女 線宮幟子、継室は公家 広幡基豊の娘 経子。
 
 
(5)二郎麿【1833~1834】
 徳川斉昭の二男、母は正室 登美宮 吉子。早世。
 
(6)恕姫(比呂姫)【1834~1835】
 徳川斉昭の四女、母は側室 山野辺氏。早世。
 
(7)唯姫(以以姫)【1835】
 徳川斉昭の五女、母は正室 登美宮 吉子。早世。
 
(8)三郎麿【1835~1837】
 徳川斉昭の三男、母は側室 松波氏。早世。
 
(9)四郎麿【1835~1836】
 徳川斉昭の四男、母は側室 山野辺氏。早世。
 
(10)松姫(万津姫、明子)【1836~1903】
 徳川斉昭の六女、母は側室 松波氏。嘉永3年に陸奥盛岡藩南部利剛と婚約し、翌年に嫁ぎました。享年68。
 
(11)庸姫【1837~1843】
 徳川斉昭の七女、母は側室 山野辺氏。早世。享年7。
 
(12)池田 慶徳(よしのり)【1837~1877】
 徳川斉昭の五男、母は側室 松波氏。幼名 五郎麿、初名 昭徳。
 1850年(14)に因幡鳥取藩主 池田慶栄の養子となりました。1862年(26)頃はしばしば江戸と京都に赴き公武間の周旋に努めましたが、藩内の尊攘派守旧派との対立に苦慮しました。第一次長州征伐では山陰道討手一ノ先を命ぜられ、藩内急進派の反対を押えて出兵しましたが、戦うに至らず、長州のために弁護しました。
 第二次長州征伐から王政復古までは終始幕府に恭順で、軍備充実に努めました。1868年(32)の戊辰戦争では新政府軍に加わり、賞典禄三万石を賜りました。1869年(33)に議定に任ぜられ、版籍奉還により鳥取知藩事となりました。1871年(35)に廃藩置県を迎えました。享年41。
 正室鳥取西館新田藩主 池田清直の養女(池田定保の娘)寛子。
 
(13)六郎麿【1837~1838】
 徳川斉昭の六男、母は側室 柳原氏(公家 柳原隆光の娘)。早世。
 
 

4. 徳川慶喜の弟と妹(1)

(1)松平 直侯(なおよし)【1839~1861】
 徳川斉昭の八男、母は側室 山野辺氏。幼名 八郎麿、初名 昭融。
 1854年(16)に武蔵川越藩主 松平典則の養子となり、藩主となりました。1861年(23)に病のため隠居しました。享年23。
 正室肥前佐賀藩鍋島直正の娘 貢。
 
 川越藩松平家(松平大和守家)についてはこちらをご覧ください。
 
(2)池田 茂政(もちまさ)【1839~1899】
 徳川斉昭の九男、母は側室 松波氏。幼名 九郎麿、初名 昭休のちに忠矩。
 1848年(10)に武蔵忍藩主 松平忠国の養子となりましたが、のちに故あって縁組を解消し、実家に戻りました。
 1863年(25)に備前岡山藩主 池田慶政の養子となり、藩主となりました。将軍家茂の一字を賜り茂政を名乗りました。同年、実兄の鳥取藩主 池田慶徳らと連署して、長州藩の攘夷親征には自重すべき旨を建議しました。2度の長州征伐には消極的に出兵し、第二次のときは広島藩主 浅野長訓らと連署して休戦解兵を朝廷と幕府に建議しました。
 実兄の一橋慶喜が徳川宗家の相続・将軍就任すると、尊攘と翼覇の板挟みとなりました。1868年(30)に病気を理由に隠居と分家の鴨方藩主 政詮(章政)を養子に迎える届けを朝廷に提出し、家督を譲りました。享年61。
 正室備前岡山藩主 池田慶政の娘 萬寿子。
 
(3)一葉姫【1840~1843】
 徳川斉昭の八女、母は側室 山野辺氏。早世。
 
(4)八代姫(孝子)【1841~1869】
 徳川斉昭の九女、母は側室 松波氏。安政3年、陸奥仙台藩伊達慶邦に嫁ぎました。享年29。
 
 仙台藩の伊達家についてはこちらをご覧ください。
 
(5)松平 武聡(たけあきら)【1842~1882】
 徳川斉昭の十男、母は側室 山野辺氏。幼名 十郎麿、初名 昭音。
 1847年(6)に石見浜田藩主 松平(越智)武成の養子となり、藩主となりました。生来病弱であり、1866年(25)に第2次長州征伐が起きたときは病が重い状態でした。長州藩との戦いに退陣を重ねて、居城を自焼して松江藩を経て飛び地の美作鶴田に移りました。1869年(28)の版籍奉還で鶴田藩知事となり、1871年(30)に廃藩置県を迎えました。享年41。
 正室は下総佐倉藩堀田正睦の娘 寿子。
 
(6)静姫【1843~1844】
 徳川斉昭の十女、母は側室 立原氏。早世。
 
(7)喜連川 縄氏(つなうじ)【1844~1874】
 徳川斉昭の十一男、母は側室 立原氏。幼名 余一麿、初名 昭縄(あきつぐ)。
 喜連川宜氏の末期養子となり、1862年(19)に相続しました。1868年(25)に会津藩に内通したと新政府軍に讒訴した家老二階堂貞明らを断罪しました。同年、喜連川から本姓の「足利」に復しました。1869年(26)に隠居しました。享年31。
 正室蝦夷松前藩松前崇広の娘武子、1872年に離縁。
 
 喜連川藩喜連川家についてはこちらをご覧ください。
 
(8)余二麿【1844】
 徳川斉昭の十二男、母は側室 松波氏。早世。
 
(9)余三麿【1844】
 徳川斉昭の十三男、母は側室 山野辺氏。早世。
 
 

5. 徳川慶喜の弟と妹(2)~斉昭隠居後の子たち~

(1)松平 昭訓(あきくに)【1848~1863】
 徳川斉昭の十四男、母は側室 万里小路氏。幼名 余四麿。
 1863年(16)に兄慶篤に従って上洛し、慶篤が江戸に戻る際に京都守衛の任ぜられ、京都に残りました。石清水行幸に随従し、将軍徳川家茂の摂海巡検に従いました。享年16。
 
(2)余五麿【1849】
 徳川斉昭の十五男、母は側室 高丘氏。早世。
 
(3)茂姫(貞子)【1850~1872】
 徳川斉昭の十一女、母は側室 万里小路氏。有栖川宮 熾仁親王の妃となりました。享年23。
 
(4)松平 忠和(ただかず)【1851~1917】
 徳川斉昭の十六男、母は側室 高丘氏。幼名 余六麿、初名 昭嗣。
 1862年(12)に肥前島原藩主 松平(深溝)忠愛の急死により養子となり、藩主となりました。兄慶喜が幕末の政治の中心にいて、島原藩譜代大名であり、微妙な立場でした。島原藩でも尊攘の藩士を輩出しましたが、2度の長州征伐に出兵しました。しかし、戊辰戦争では新政府軍に従い、東北方面に出兵して慰労金五千両を下賜されました。
 1869年(19)に島原藩知事に任ぜられ、1871年(21)に廃藩置県を迎えました。1884年(34)に子爵を授けられました。享年67。
 正室は出羽庄内藩主 酒井忠発の娘 錦子、継室は公家 藪実方の娘 文子。
 
(5)土屋 挙直(しげなお)【1852~1892】
 徳川斉昭の十七男、母は側室 万里小路氏。幼名 余七麿、初名 昭邦。
 常陸土浦藩主 土屋寅直(父斉昭の従兄弟)の養子となり、1868年(17)に養父の隠居により藩主となりました。翌年の版籍奉還により土浦藩知事となり、1871年(20)に廃藩置県を迎えました。1884年(33)に子爵を授けられました。享年41。
 正室上野高崎藩主 松平(大河内)輝聴の娘 光子。
 
(6)愛姫(愛子)【1852~1914】
 徳川斉昭の十二女、母は側室 高丘氏。下総高岡藩主 井上正順に嫁ぎました。享年63。
 
(7)久姫【1853】
 徳川斉昭の十三女、母は側室 庵原氏。早世。
 
(8)徳川 昭武(あきたけ)【1853~1910】
 徳川斉昭の十八男、母は側室 万里小路氏。幼名 余八麿、初名 昭徳。十四代将軍の法号が昭徳院となったため、昭武と改名しました。
 兄昭訓が亡くなったことに伴い、1864年(12)に上洛して御所守衛に任ぜられました。同年の禁門の変で九門内を守衛し、天狗党が西上してくると兄一橋慶喜に従って藩兵を率いて追討軍の先頭となりました。
 1866年(14)に長い間明屋形の御三卿 清水家を相続し、翌年パリ万博に兄慶喜の名代として赴き、その後留学生として滞留しました。1868年(16)に長兄 慶篤が没すると帰国の命を受けて帰国し、水戸藩を相続しました。翌年、版籍奉還により水戸藩知事となり、1871年(19)に廃藩置県を迎えました。その後、甥の篤敬(慶篤の子)に水戸家をゆずり、松戸の戸定邸に閑居しました。享年58。
 正室は公家 中院通富の娘 盛子。
 
 御三卿 清水家についてはこちらをご覧ください。
 
(9)松平 喜徳(のぶのり)【1855~1891】
 徳川斉昭の十九男、母は側室 高橋氏。幼名 余九麿、初名 昭則。
 1866年(12)に幕命により、陸奥会津藩松平容保の養子となりました。1868年(14)に容保の隠居により会津藩主となりました。戊辰戦争の折り、養父容保と共に会津若松城を守って戦い、降伏後は久留米藩に永預となりました。1873年(19)に実家に戻り、分家の旧守山藩松平頼之実弟)の養子となって相続しました。享年37。
 
(10)廿麿(はたちまろ)【1856~1858】
 徳川斉昭の二十男、母は側室 万里小路氏。早世。
 
(11)廿一麿(はたひとまろ)【1856】
 徳川斉昭の二十一男、母は側室 高丘氏。早世。
 
(12)寧姫【1857~1859】
 徳川斉昭の十四女、母は側室 高橋氏。早世。
 
(13)松平 頼之(よりゆき)【1855~1873】
 徳川斉昭の二十二男、母は側室 万里小路氏。幼名 余廿麿(はたふたまろ)、初名 昭鄰。
 水戸藩支藩である陸奥守山藩松平頼升の養子となり、1869年(15)に養父の隠居により守山藩知事となり、翌年に藩庁を守山から常陸松川に移して松川藩知事となりました。享年19。
 
(14)正姫(正子)【1858~1873】
 徳川斉昭の十五女、母は側室 高橋氏。はじめ尼となって鎌倉英勝寺の住職となりました。のちに還俗して兄で鳥取藩主 池田慶徳の養女となって、鳥取藩の分家 鹿野藩主 池田徳澄に嫁ぎました。享年16。
 
 
参考文献:
 徳川慶喜華麗なる一族 祖田浩一 著(東京堂出版
 徳川一族大全(廣済堂出版
 徳川斉昭 不確実な時代に生きて 永井博 著(山川出版社
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 歴史読本 2004年10月号 特集300藩 大名夫人の幕末維新(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。