探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

水戸黄門~水戸藩主の官職~

こんにちは、勘矢です。
今回は水戸黄門水戸藩主の官職について調べたことをまとめました。
 
 

1. 水戸黄門とは

 水戸黄門といえば徳川光圀の通称としてよく知られています。「黄門」とは「中納言」という官職の唐名です。水戸藩主で(権)中納言であれば皆、水戸黄門と称されます。歴代の水戸藩主のうち、初代 頼房、二代 光圀、三代 綱条、六代 治保、八代 斉脩、九代 斉昭、十代 慶篤の7人がそれにあたります。
 
 水戸藩の初官は正四位下・少将で、家督相続時に従三位・中将、1~3年後に宰相(参議)、極官は中納言(昇進の規定はなし)とあります。権中納言の任官時期は時代によって傾向が異なるようです。
 初代 頼房は1626年(24歳)の後水尾天皇が二条城に行幸したときに権中納言となりました。左近衛権中将兼参議になってから6年でした。
 二代 光圀は在職29年で63歳で隠居するときに権中納言になりました。参議になってから28年経っていました。
 三代 綱条は在職15年の50歳のときに権中納言になりました。参議になってから13年経っていました。
 六代 治保は在職29年の45歳でときに権中納言になりました。参議になってから27年経っていました。
 八代 斉脩は在職9年の29歳のときに権中納言になりました。参議になってから9年経っていました。
 九代 斉昭は在職8年の38歳のときに権中納言になりました。参議になってか7年経っていました。
 十代 慶篤は在職6年の19歳のときに権中納言になりました。参議になってから4年経っていました。
 
 十代 慶篤が最も若く、わずか4年とはやく権中納言に昇進し、二代光圀は晩年に28年経って権中納言に昇進しました。
 光圀・綱条・治保の3人は45歳以降・在職15年以上で権中納言に昇進しましたが、江戸後期の斉脩・斉昭・慶篤の3人は、40歳未満・在職10年未満で権中納言に昇進しました。
 斉脩は十一代将軍 家斉の娘を正室に迎え、斉昭の正室は十二代将軍 家慶の正室と姉妹なので斉昭は家慶とは義兄弟、慶篤は家慶の養女(家慶の正室の甥の娘)を正室に迎えています。将軍に近しい関係になったことから昇進が早くなったのではないかと考えます。
 なお、権中納言になれなかった四代 宗尭は26歳で若く没し、五代 宗翰は在職36年と長いものの39歳で没し、七代 治紀は在職11年で44歳で没しました。
 

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有栖川宮家と徳川家の婚姻関係
 
 
 常磐神社 義烈館は、二代 光圀と九代 斉昭を祀る常盤神社の博物館です。両公にまつわる遺品などが展示されています。弘道館水戸藩の藩校で、九代 斉昭のときに開設されました。
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2. 水戸藩主の官職

初代 徳川 頼房(よりふさ)【1603~1661】
 徳川家康の十一男、母は側室 正木頼忠娘 お万の方
 1606年(4)常陸下妻を十万石を与えられる
 1609年(7)常陸下妻より水戸二十八万石に転封、正五位下・左衛門督
 1611年(9)従四位下・右近衛権少将
 1620年(18)正四位下・左近衛権中将兼参議
 1626年(24)従三位・権中納言
 1627年(25) 正三位
 1661年没、享年59
 
二代 徳川 光圀(みつくに)【1628~1700】
 徳川頼房の三男、母は側室 谷重則の娘 久子
 1633年(6)嫡子となる
 1634年(7)初御目見
 1636年(9) 元服従四位下・左衛門督
 1640年(13)従三位・右近衛権中将
 1661年(34)家督相続
 1662年(35)参議
 1690年(63)隠居、権中納言
 1700年没、享年73
 1834年 従二位・権大納言が追贈される(斉昭の時代)
 正室は公家 近衛信尋の娘 泰姫
 
三代 徳川 綱条(つなえだ)【1656~1718】
 讃岐高松藩松平頼重の二男、母は土井利勝
 1671年(16)光圀の養子となる。初御目見し、采女正。元服正四位下・左近衛少将
 1690年(35)養父光圀隠居により家督相続、右近衛権中将
 1693年(37)従三位・参議
 1701年(46)幕府より表高三十五万石と認められる
 1705年(50)権中納言
 1718年没、享年63
 正室は公家 今出川公規の娘 季君
 
四代 徳川 宗尭(むねたか)【1705~1730】
 讃岐高松藩主 松平頼豊の長男、母は側室 湯浅氏
 1711年(7)綱条の養子となる
 1714年(10)初御目見
 1716年(12)元服正四位下・左近衛権少将
 1718年(14)家督相続、 従三位・左近衛権中将
 1720年(16) 参議を兼ねた
 1730年没、享年26
 正室は徳川吉孚の娘 美代姫(先代綱条の孫娘)
 
五代 徳川 宗翰(むねもと)【1728~1766】
 徳川宗尭の長男、母は徳川吉孚の娘
 1730年(3)家督相続
 1736年(9)元服正四位下・左近衛少将
 1737年(10)従三位・左近衛権中将
 1740年(13)参議
 1766年没、享年39
 正室は公家 一条兼香の娘 絢君
 
六代 徳川 治保(はるもり)【1751~1805】
 徳川宗翰の長男、母は側室 榊原氏
 1762年(12)元服従五位上・左衛門督
 1763年(13)正四位下・左近衛権少将
 1766年(16)家督相続、従三位・左近衛権中将
 1768年(18)参議
 1795年(45)権中納言
 1805年没、享年55
 正室は公家 一条道香の娘  八代君
 
七代 徳川 治紀(はるとし)【1773~1816】
 徳川治保の長男、母は一条道香の娘
 1785年(13)元服従五位上・左衛門督
 1787年(15)正四位下・左近衛権少将
 1796年(24)従三位・左近衛権中将
 1805年(33)家督相続、参議を兼ねた
 1816年没、享年44
 正室紀州藩徳川治貞の養女 方子(先代徳川重倫の娘)
 
八代 徳川 斉脩(なりのぶ)【1797~1829】
 徳川治紀の長男、母は側室 松永氏
 1799年(3)世継ぎとなる
 1810年(14)元服従五位下・左衛門督
 1811年(15)正四位下・左近衛権少将
 1814年(18)従三位・左近衛権中将
 1816年(20)家督相続、 参議
 1825年(29) 権中納言
 1829年没、享年33
 正室は将軍 徳川家斉の娘 峰姫
 
九代 徳川 斉昭(なりあき)【1800~1860】
 徳川治紀の三男、母は側室 外山氏
 1829年(30)兄の養子となり家督相続、従三位・左近衛権中将
 1830年(31)参議
 1837年(38)権中納言
 1844年(45)隠居
 1860年没、享年61
 1862年 贈従二位・権大納言
 正室有栖川宮織仁親王の娘 登美宮吉子
 
十代 徳川 慶篤(よしあつ)【1832~1868】
 徳川斉昭の長男、母は有栖川宮織仁親王の娘
 1844年(13)家督相続、元服正四位下・左近衛権少将
 1845年(14)従三位・左近衛権中将
 1846年(15)参議
 1850年(19)権中納言
 1868年没、享年37
 正室徳川家慶の養女(有栖川宮幟仁親王の娘 幟子)、継室は公家 広幡基豊の娘 経子
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版
 徳川斉昭 不確実な時代に生きて 永井博 著(山川出版社
 徳川実紀 第壹編、第貳編、第参編、第四編、第五編、第六編、第七編(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。