こんにちは、勘矢です。
1. 水戸黄門とは
水戸黄門といえば徳川光圀の通称としてよく知られています。「黄門」とは「中納言」という官職の唐名です。水戸藩主で(権)中納言であれば皆、水戸黄門と称されます。歴代の水戸藩主のうち、初代 頼房、二代 光圀、三代 綱条、六代 治保、八代 斉脩、九代 斉昭、十代 慶篤の7人がそれにあたります。
二代 光圀は在職29年で63歳で隠居するときに権中納言になりました。参議になってから28年経っていました。
三代 綱条は在職15年の50歳のときに権中納言になりました。参議になってから13年経っていました。
六代 治保は在職29年の45歳でときに権中納言になりました。参議になってから27年経っていました。
八代 斉脩は在職9年の29歳のときに権中納言になりました。参議になってから9年経っていました。
九代 斉昭は在職8年の38歳のときに権中納言になりました。参議になってか7年経っていました。
十代 慶篤は在職6年の19歳のときに権中納言になりました。参議になってから4年経っていました。
斉脩は十一代将軍 家斉の娘を正室に迎え、斉昭の正室は十二代将軍 家慶の正室と姉妹なので斉昭は家慶とは義兄弟、慶篤は家慶の養女(家慶の正室の甥の娘)を正室に迎えています。将軍に近しい関係になったことから昇進が早くなったのではないかと考えます。
なお、権中納言になれなかった四代 宗尭は26歳で若く没し、五代 宗翰は在職36年と長いものの39歳で没し、七代 治紀は在職11年で44歳で没しました。
2. 水戸藩主の官職
初代 徳川 頼房(よりふさ)【1603~1661】
徳川家康の十一男、母は側室 正木頼忠娘 お万の方
1606年(4)常陸下妻を十万石を与えられる
1611年(9)従四位下・右近衛権少将
1620年(18)正四位下・左近衛権中将兼参議
1627年(25) 正三位
1661年没、享年59
二代 徳川 光圀(みつくに)【1628~1700】
徳川頼房の三男、母は側室 谷重則の娘 久子
1633年(6)嫡子となる
1634年(7)初御目見
1640年(13)従三位・右近衛権中将
1661年(34)家督相続
1662年(35)参議
1690年(63)隠居、権中納言
1700年没、享年73
三代 徳川 綱条(つなえだ)【1656~1718】
1690年(35)養父光圀隠居により家督相続、右近衛権中将
1693年(37)従三位・参議
1701年(46)幕府より表高三十五万石と認められる
1705年(50)権中納言
1718年没、享年63
四代 徳川 宗尭(むねたか)【1705~1730】
讃岐高松藩主 松平頼豊の長男、母は側室 湯浅氏
1711年(7)綱条の養子となる
1714年(10)初御目見
1720年(16) 参議を兼ねた
1730年没、享年26
正室は徳川吉孚の娘 美代姫(先代綱条の孫娘)
五代 徳川 宗翰(むねもと)【1728~1766】
徳川宗尭の長男、母は徳川吉孚の娘
1730年(3)家督相続
1737年(10)従三位・左近衛権中将
1740年(13)参議
1766年没、享年39
六代 徳川 治保(はるもり)【1751~1805】
徳川宗翰の長男、母は側室 榊原氏
1763年(13)正四位下・左近衛権少将
1768年(18)参議
1795年(45)権中納言
1805年没、享年55
七代 徳川 治紀(はるとし)【1773~1816】
1796年(24)従三位・左近衛権中将
1805年(33)家督相続、参議を兼ねた
1816年没、享年44
八代 徳川 斉脩(なりのぶ)【1797~1829】
徳川治紀の長男、母は側室 松永氏
1799年(3)世継ぎとなる
1811年(15)正四位下・左近衛権少将
1814年(18)従三位・左近衛権中将
1816年(20)家督相続、 参議
1825年(29) 権中納言
1829年没、享年33
九代 徳川 斉昭(なりあき)【1800~1860】
徳川治紀の三男、母は側室 外山氏
1830年(31)参議
1837年(38)権中納言
1844年(45)隠居
1860年没、享年61
十代 徳川 慶篤(よしあつ)【1832~1868】
1845年(14)従三位・左近衛権中将
1846年(15)参議
1868年没、享年37
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。