こんにちは、勘矢です。
1.喜連川氏
古河公方足利義氏は嗣子なく亡くなったので古河公方家は断絶しましたが、のちに豊臣秀吉によって義氏の娘氏姫と傍流の国朝を結婚させてその名跡を継がせました。しかし、国朝をはすぐに亡くなってしまったので、その弟の頼氏が氏姫と結婚することで存続を許されました。
喜連川氏は四千五百石(のちに五千石)でありましたが、清和源氏で足利将軍家に連なる一族ということから徳川氏より十万石の格式を与えられました。そして、幕臣ではなく客分として遇されたため、江戸城内に席次はなく、参勤交代の義務もありませんでした。しかし、徳川将軍に年始の挨拶に行くなどの用で江戸に来ることもありました。喜連川家の江戸屋敷は元禄年間頃にできたようで、上野の不忍池の西側あたりにありました。また市ヶ谷にある月桂寺は喜連川家ゆかりの寺院です。
明治維新後に「足利」に復しました。
初代 喜連川 頼氏(よりうじ)【1580~1630】
2代 喜連川 尊信(たかのぶ)【1619~1653】
3代 喜連川 昭氏(あきうじ)【1642~1713】
4代 喜連川 氏春(うじはる)【1670~1721】
5代 喜連川 茂氏(しげうじ)【1700~1767】
6代 喜連川 氏連(うじつら)【1739~1761】
喜連川茂氏の長男。1757年に19歳で相続。享年23。
7代 喜連川 恵氏(やすうじ)【1752~1829】
8代 喜連川 彭氏(ちかうじ)【1771~1833】
9代 喜連川 熙氏(ひろうじ)【1812~1861】
10代 喜連川 宜氏(よしうじ)【1834~1862】
11代 喜連川 縄氏(つなうじ)【1844~1874】
12代 足利 聡氏(さとうじ)【1857~?】
○喜連川家一門
喜連川 義親(よしちか)【1595~1627】
喜連川 氏信(うじのぶ)【1650~1670】
喜連川尊信の二男。兄昭氏の養子となる。享年21。
喜連川 紀氏(のりうじ)【1842~1906】
細川斉護の六男。喜連川熙氏の婿養子に入るも故あって実家に戻りました。のちに長岡護美と改名。
○加藤家からの養子縁組みについて
氏連が嗣子なくして亡くなると、ほかに兄弟もなく、親戚の宮原家にも適当な男子がいなかったため、先代茂氏の継室加藤家の縁から養子を迎えたと考えられます。
○細川家からの養子縁組みについて
加藤家から恵氏が迎えられたことによって、源氏の血筋が絶えました。源氏に連なる一族からの養子を望み、足利氏から別れた細川氏から養子を迎えました。煕氏の正室が豊後佐伯藩の毛利家(長州藩の毛利家とは別流)から正室を迎えその姉妹が細川家に嫁いでいる縁から細川家に養子の打診をしたものと考えられます。また、佐伯藩の毛利家には恵氏の娘が嫁いでいます。
○水戸徳川家からの養子縁組みについて
また、頼房の子で水戸黄門でおなじみの徳川光圀は、大日本史を編纂する上で南北朝時代について、当時は北朝が正統でしたが、南朝を正統としました。足利尊氏を批判していたことから、その子孫の喜連川氏に養子の成り手がいなかったら水戸家から出すようにといったとされます。そうしたことから縄氏が迎えられました。
2.宮原氏
宮原家は古河公方高基の長男晴直からはじまります。晴直は山内上杉憲房に養子入りして関東管領となり、のちに憲房の実子憲政に家督を奪われ、上総国宮原に移り住みました。その子義勝は下野国足利郡駒場村に移りました。義照のときに宮原を称し、下野内で1040石を賜りました。義久のときに高家となり、武田勝頼の娘を妻に迎え、それ以降の当主は勝頼の血筋も受け継ぎました。
初代 宮原 義照(よしてる)【1576~1602】
2代 宮原 義久(よしひさ)【1577~1630】
3代 宮原 晴克(はるかつ)【1607~1642】
宮原義久の長男、母は武田勝頼の娘。1631年に25歳で相続。享年36。
4代 宮原 義辰(よしとき)【1626~1669】
宮原晴克の長男。1642年に17歳で相続。享年44。妻は旗本 織田信当の娘。信当は信包の四男で信長の甥にあたります。
5代 宮原 義真(よしざね)【1648~1690】
宮原義辰の長男、母は織田信当の娘。1669年に22歳で相続。享年43。
6代 宮原 氏義(うじよし)【1679~1715】
杉浦政令の五男、母は宮原義辰の娘。1690年に12歳で相続。享年37。妻は旗本 水谷勝阜の娘。
7代 宮原 義汨(よしいづ)【1708~1769】
宮原氏義の長男、母は水谷勝阜の娘。1715年に8歳で相続。1764年に隠居。享年62。妻は杉浦正奉の娘、離婚。正奉は政令の六男。
8代 宮原 義潔(よしきよ)【1745~?】
宮原義汨の子。1764年に20歳で相続。妻は旗本 戸川逵索の娘、後妻は筑後三池藩主 立花長煕の娘。
9代 宮原 義周【?~1858】
宮原義利の子。1809年に相続。1855年に隠居。
10代 宮原 義直【?~?】
宮原義周の子。1855年に相続。
○宮原家一門
宮原義利(よしとし)【1760~1805】
宮原義潔の三男。1785年(26歳)に嗣子となりました。1788年(29歳)に将軍家に拝謁しました。1801年(42歳)に病のため嫡子を辞退しました。享年46。妻は榊原長良の娘。
宮原義敬【?~1854】
宮原義以【?~1859】
宮原義路【?~?】
旗本 岡部長常の子。1859年に初御目見。
○宮原義直の養子について
最初の養子義敬は佐土原藩の島津氏から養子に入りました。宮原家との縁を調べると、義直の祖父義潔の妻が筑後三池藩の立花家から嫁入りしていて、その祖母が佐土原藩の島津家出身となります。この縁から宮原家から島津家に対し養子の話がされたのではないかと考えます。
次の養子義以は肥後熊本新田藩の細川氏から養子に入りました。宮原家との縁を調べると、義直から5代さかのぼった義辰の子氏春が喜連川家に養子入りし、喜連川家と婚姻関係のある豊後佐伯藩の毛利家を介して肥後宇土藩の細川家とつながります。宇土細川家は熊本藩の細川家の分家で、ほかの分家に熊本新田藩の細川家があります。こちらの庶子利和の子が義以となります。また、同じ時期に喜連川家も細川家から養子(紀氏、宜氏)を迎えています。
最後の養子義路は旗本岡部家から養子に入りました。宮原家との縁を調べると、こちらも宇土藩の細川家からの縁での養子のようです。宇土藩主細川興文の妻が公家の八条家の娘で、その兄弟隆輔の妻が徳山藩の毛利家の娘で、その姉妹が旗本岡部家に嫁いでいます。
養子縁組は、相手の家の格式や当主との年齢差などを考慮して決めて、幕府の承認を得る必要がありました。幕末の宮原家はせっかく迎えた養子が次々と早世してしまい、かなり遠縁関係から養子を探し、養子探しは大変な問題だと思いました。
3.平島公方
室町将軍家は義稙以降、【義稙】→義澄→【義稙】→義晴→義輝→【義栄】→義昭と義稙系と義澄系が交互に将軍になっていました。義栄を将軍にすることはできましたが、義昭を擁立した織田信長の勢いには敵わず、京都に入れない唯一の将軍となりました。その後は勢力を回復できず没落していきました。
阿波が蜂須賀氏に与えられると、貴種として尊重されつつも、蜂須賀家の支配に組み込まれていきました。義次の代に居住地の名をとって平島を称するようになりました。
初代 足利 義維(義冬)【1509~1573】
2代 足利 義助【1541~1592】
3代 足利 義種【1574~1630】
足利義助の子、母は大内氏家臣柳沢主膳正の娘。享年57。妻は水無瀬氏成の娘。
4代 平島 義次【1596~1680】
足利義種の子、母は水無瀬氏成の娘。平島と改めた。享年85。
5代 平島 義景【1613~1697】
平島義次の子。享年85。
6代 平島 義辰【1644~1728】
平島義景の子。享年85。
7代 平島 義武【1678~1761】
平島義辰の子。享年84。
8代 平島 義宣【1709~1778】
平島義武の子。享年70。妻は持明院基輔の娘。
9代 平島 義根【1747~1826】
平島義宣の子、母は持明院基輔の娘。享年80。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧コンパクト版(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典(東洋書林)
日本一小さな大大名(グラフ社/山下昌也著)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
肥後讀史總覧 上巻
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。