探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

足利一族の江戸時代~喜連川氏・宮原氏・平島公方~

 こんにちは、勘矢です。
 前々回と前回で戦国時代までの足利氏について書きましたが、今回は江戸時代の足利氏について書こうと思います。古河公方の子孫が喜連川氏・宮原氏で、足利将軍家の子孫が平島公方になります。
 
 

1.喜連川

 古河公方足利義氏は嗣子なく亡くなったので古河公方家は断絶しましたが、のちに豊臣秀吉によって義氏の娘氏姫と傍流の国朝を結婚させてその名跡を継がせました。しかし、国朝をはすぐに亡くなってしまったので、その弟の頼氏が氏姫と結婚することで存続を許されました。
 喜連川氏は四千五百石(のちに五千石)でありましたが、清和源氏足利将軍家に連なる一族ということから徳川氏より十万石の格式を与えられました。そして、幕臣ではなく客分として遇されたため、江戸城内に席次はなく、参勤交代の義務もありませんでした。しかし、徳川将軍に年始の挨拶に行くなどの用で江戸に来ることもありました。喜連川家の江戸屋敷は元禄年間頃にできたようで、上野の不忍池の西側あたりにありました。また市ヶ谷にある月桂寺は喜連川家ゆかりの寺院です。
 明治維新後に「足利」に復しました。
 

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喜連川氏の略系図
初代 喜連川 頼氏(よりうじ)【1580~1630】
 足利頼純の二男、母は佐野晴綱の娘。享年51。正室足利義氏の娘 氏姫。
 
2代 喜連川 尊信(たかのぶ)【1619~1653】
 喜連川義親の長男、母は榊原康政の養女。1630年に12歳で祖父の遺領を相続。1648年に30歳で隠居。享年35。正室は下野福原藩主 那須資景の娘。
 
3代 喜連川 昭氏(あきうじ)【1642~1713】
 喜連川尊信の長男。1648年に7歳で相続。享年72。正室信濃飯山藩主 松平忠倶の養女(丹波柏原藩織田信勝の娘)。
 
4代 喜連川 氏春(うじはる)【1670~1721】
 宮原義辰の二男。1714年に45歳で相続。享年52。正室喜連川昭氏の娘。
 
5代 喜連川 茂氏(しげうじ)【1700~1767】
 喜連川氏春の長男。1721年に22歳で相続。1757年に58歳で隠居。享年68。正室は摂津尼崎藩主 松平忠喬の娘。継室は伊予大洲藩主 加藤泰恒の娘。
 
6代 喜連川 氏連(うじつら)【1739~1761】
 喜連川茂氏の長男。1757年に19歳で相続。享年23。
 
7代 喜連川 恵氏(やすうじ)【1752~1829】
 伊予大洲藩主加藤泰衑の三男。1762に11歳で相続。1789年に38歳で隠居。享年78。正室は加賀大聖寺藩主 前田利道の娘。
 
8代 喜連川 彭氏(ちかうじ)【1771~1833】
 喜連川恵氏の長男。1789年に19歳で相続。1830年に60歳で隠居。享年63。正室は越後高田藩主 榊原政永の娘。
 
9代 喜連川 熙氏(ひろうじ)【1812~1861】
 喜連川彭氏の三男、母は榊原政永の娘。1830年に19歳で相続。享年50。正室は豊後佐伯藩主 毛利高翰の娘 泉。
 
10代 喜連川 宜氏(よしうじ)【1834~1862
 肥後宇土藩の一門、細川孝応の孫(定良の子)で熊本藩主細川斉護の又従弟。1861年に28歳で相続。享年29。正室喜連川熙氏の娘 英子。
 
11代 喜連川 縄氏(つなうじ)【1844~1874】
 徳川斉昭の十一男。最後の将軍徳川慶喜の弟。1862年に19歳で相続。1869年に26歳で隠居。享年31。正室蝦夷松前藩松前崇広の娘武子、明治5年離縁。
 
12代 足利 聡氏(さとうじ)【1857~?】
 宮原義直の子。1869年に13歳で相続し、喜連川知藩事に任ぜられた。1870年に封土奉還。その後、縄氏の子於兎丸に家督を譲り、実家の宮原家に戻った。
 
 

喜連川家一門

喜連川 義親(よしちか)【1595~1627】
 喜連川頼氏の子、母は足利義氏の娘。享年33。正室榊原康政養女。継室は養儼院(元徳川家康の側室お六の方)。
 
喜連川 氏信(うじのぶ)【1650~1670】
 喜連川尊信の二男。兄昭氏の養子となる。享年21。
 
喜連川 紀氏(のりうじ)【1842~1906】
 細川斉護の六男。喜連川熙氏の婿養子に入るも故あって実家に戻りました。のちに長岡護美と改名。
 
 

○加藤家からの養子縁組みについて

 氏連が嗣子なくして亡くなると、ほかに兄弟もなく、親戚の宮原家にも適当な男子がいなかったため、先代茂氏の継室加藤家の縁から養子を迎えたと考えられます。
 

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喜連川家と加藤家の略系図
 

○細川家からの養子縁組みについて

 加藤家から恵氏が迎えられたことによって、源氏の血筋が絶えました。源氏に連なる一族からの養子を望み、足利氏から別れた細川氏から養子を迎えました。煕氏の正室が豊後佐伯藩の毛利家(長州藩の毛利家とは別流)から正室を迎えその姉妹が細川家に嫁いでいる縁から細川家に養子の打診をしたものと考えられます。また、佐伯藩の毛利家には恵氏の娘が嫁いでいます。
 

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喜連川家と細川家の関係図
 

水戸徳川家からの養子縁組みについて

 喜連川家と水戸徳川家の縁は江戸初期までさかのぼります。徳川頼房の養母が家康の側室お梶の方で、その部屋子でのちに家康の側室になったお六の方が、家康の没後に喜連川義親の継室となったことです。
 また、頼房の子で水戸黄門でおなじみの徳川光圀は、大日本史を編纂する上で南北朝時代について、当時は北朝が正統でしたが、南朝を正統としました。足利尊氏を批判していたことから、その子孫の喜連川氏に養子の成り手がいなかったら水戸家から出すようにといったとされます。そうしたことから縄氏が迎えられました。
 

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喜連川陣屋跡 模擬大手門
 

2.宮原氏

 宮原家は古河公方高基の長男晴直からはじまります。晴直は山内上杉憲房に養子入りして関東管領となり、のちに憲房の実子憲政に家督を奪われ、上総国宮原に移り住みました。その子義勝は下野国足利郡駒場村に移りました。義照のときに宮原を称し、下野内で1040石を賜りました。義久のときに高家となり、武田勝頼の娘を妻に迎え、それ以降の当主は勝頼の血筋も受け継ぎました。
 

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宮原氏の略系図
 
初代 宮原 義照(よしてる)【1576~1602】
 足利義勝の長男、母は真里谷信政の娘。1590年(15歳)に徳川家康に召し出された。享年27。
 
2代 宮原 義久(よしひさ)【1577~1630】
 足利義勝の二男、母は真里谷信政の娘。1602年に26歳で相続。享年54。妻は武田勝頼の娘。
 
3代 宮原 晴克(はるかつ)【1607~1642】
 宮原義久の長男、母は武田勝頼の娘。1631年に25歳で相続。享年36。
 
4代 宮原 義辰(よしとき)【1626~1669】
 宮原晴克の長男。1642年に17歳で相続。享年44。妻は旗本 織田信当の娘。信当は信包の四男で信長の甥にあたります。
 
5代 宮原 義真(よしざね)【1648~1690】
 宮原義辰の長男、母は織田信当の娘。1669年に22歳で相続。享年43。
 
6代 宮原 氏義(うじよし)【1679~1715】
 杉浦政令の五男、母は宮原義辰の娘。1690年に12歳で相続。享年37。妻は旗本 水谷勝阜の娘。
 
7代 宮原 義汨(よしいづ)【1708~1769】
 宮原氏義の長男、母は水谷勝阜の娘。1715年に8歳で相続。1764年に隠居。享年62。妻は杉浦正奉の娘、離婚。正奉は政令の六男。
 
8代 宮原 義潔(よしきよ)【1745~?】
 宮原義汨の子。1764年に20歳で相続。妻は旗本 戸川逵索の娘、後妻は筑後三池藩主 立花長煕の娘。
 
9代 宮原 義周【?~1858】
 宮原義利の子。1809年に相続。1855年に隠居。
 
10代 宮原 義直【?~?】
 宮原義周の子。1855年に相続。
 

○宮原家一門

宮原義利(よしとし)【1760~1805】
 宮原義潔の三男。1785年(26歳)に嗣子となりました。1788年(29歳)に将軍家に拝謁しました。1801年(42歳)に病のため嫡子を辞退しました。享年46。妻は榊原長良の娘。
 
宮原義敬【?~1854】
 日向佐土原藩主 島津忠徹の子。1853年に初御目見
 
宮原義以【?~1859】
 肥後熊本新田藩一門 細川利和の子。1855年に初御目見
 
宮原義路【?~?】
 旗本 岡部長常の子。1859年に初御目見
 
 

○宮原義直の養子について

 宮原義直は幕末の高家旗本です。寛政譜以降 旗本百科事典によると義敬、義以、義路の3人の養子がいたようです。この3人がどのように選ばれたのか、系図から考えてみようと思います。
 

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高家宮原家の縁戚関係図
 
 最初の養子義敬は佐土原藩の島津氏から養子に入りました。宮原家との縁を調べると、義直の祖父義潔の妻が筑後三池藩の立花家から嫁入りしていて、その祖母が佐土原藩の島津家出身となります。この縁から宮原家から島津家に対し養子の話がされたのではないかと考えます。
 次の養子義以は肥後熊本新田藩の細川氏から養子に入りました。宮原家との縁を調べると、義直から5代さかのぼった義辰の子氏春が喜連川家に養子入りし、喜連川家と婚姻関係のある豊後佐伯藩の毛利家を介して肥後宇土藩の細川家とつながります。宇土細川家は熊本藩の細川家の分家で、ほかの分家に熊本新田藩の細川家があります。こちらの庶子利和の子が義以となります。また、同じ時期に喜連川家も細川家から養子(紀氏、宜氏)を迎えています。
 最後の養子義路は旗本岡部家から養子に入りました。宮原家との縁を調べると、こちらも宇土藩の細川家からの縁での養子のようです。宇土藩主細川興文の妻が公家の八条家の娘で、その兄弟隆輔の妻が徳山藩の毛利家の娘で、その姉妹が旗本岡部家に嫁いでいます。
 養子縁組は、相手の家の格式や当主との年齢差などを考慮して決めて、幕府の承認を得る必要がありました。幕末の宮原家はせっかく迎えた養子が次々と早世してしまい、かなり遠縁関係から養子を探し、養子探しは大変な問題だと思いました。
 
 

3.平島公方

 平島公方の祖は、流れ公方こと10代将軍足利義稙の養子義維からはじまります。
 室町将軍家は義稙以降、【義稙】→義澄→【義稙】→義晴→義輝→【義栄】→義昭と義稙系と義澄系が交互に将軍になっていました。義栄を将軍にすることはできましたが、義昭を擁立した織田信長の勢いには敵わず、京都に入れない唯一の将軍となりました。その後は勢力を回復できず没落していきました。
 阿波が蜂須賀氏に与えられると、貴種として尊重されつつも、蜂須賀家の支配に組み込まれていきました。義次の代に居住地の名をとって平島を称するようになりました。
 1805年に阿波を去り、京都に移住しました。このとき、紀州藩からの誘いがあったみたいですが実現しませんでした。しかし、紀州藩は資金援助を明治の頃までしていたと伝わります。
 
 
初代 足利 義維(義冬)【1509~1573】
 足利義澄の子、母は細川成元の娘。義稙の養子。享年65。妻は大内義興の娘。
 
2代 足利 義助【1541~1592】
 足利義維の子、母は内義興の娘。享年52。妻は大内氏家臣柳沢主膳正の娘。
 
3代 足利 義種【1574~1630】
 足利義助の子、母は大内氏家臣柳沢主膳正の娘。享年57。妻は水無瀬氏成の娘。
 
4代 平島 義次【1596~1680】
 足利義種の子、母は水無瀬氏成の娘。平島と改めた。享年85。
 
5代 平島 義景【1613~1697】
 平島義次の子。享年85。
 
6代 平島 義辰【1644~1728】
 平島義景の子。享年85。
 
7代 平島 義武【1678~1761】
 平島義辰の子。享年84。
 
8代 平島 義宣【1709~1778】
 平島義武の子。享年70。妻は持明院基輔の娘。
 
9代 平島 義根【1747~1826】
 平島義宣の子、母は持明院基輔の娘。享年80。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧コンパクト版(新人物往来社
 系図纂要 第10冊下 清和源氏(3) (名著出版
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 寛政譜以降 旗本百科事典(東洋書林
 徳川幕臣人名事典(東京堂出版
 日本一小さな大大名(グラフ社/山下昌也著)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 阿波の足利 平島公方物語(中島源 著/発行 徳島県那賀郡那珂川町役場)
 肥後讀史總覧 上巻
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。