こんにちは、勘矢です。
1. 細川家とは
清氏は二代将軍足利義詮によって幕府の執事に抜擢されましたが、のちに追放されて南朝に付きました。清氏の従兄弟頼之は清氏を追討し、新たに細川氏の惣領となりました。その後、管領となり三代将軍足利義満を補佐しました。
政元は十代将軍足利義材(のち義稙)を将軍の座から追い落とし、従弟の義澄を十一代将軍に就けて幕府の実権を握り、半将軍と呼ばれました。政元は妻を娶らなかったため、公家の九条家から澄之、阿波守護家から澄元、野州家から高国と3人の養子を取りました。しかし、家督をめぐる内紛が起こって衰退しました。
高国は政元が追い落とした義稙(義材)を再度将軍に就けて管領となりました。その後、義稙と対立すると、前将軍義澄の子義晴を十二代将軍に就けるものの、澄元の子晴元らに攻められ自刃しました。
2. 細川一族
(1) 管領家(京兆家)
細川 頼春(よりはる)【1299~1352】
細川 頼之(よりゆき)【1329~1392】
細川 頼元(よりもと)【1343~1397】
細川 満元(みつもと)【1378~1426】
細川 持之(もちゆき)【1400~1442】
細川 勝元(かつもと)【1430~1473】
細川 政元(まさもと)【1466~1507】
細川 澄之(すみゆき)【1489~1507】
細川 澄元(すみもと)【1489~1520】
細川 高国(たかくに)【1484~1531】
野州家の細川政春の子。細川政元の養子。同じ養子の澄之を滅ぼし、澄元を追放して、前将軍の足利義稙を将軍に復帰させて管領となりました。前将軍義澄の子義晴を新将軍にするも細川晴元らに攻められて自刃しました。享年48。
細川 晴元(はるもと)【1514~1563】
細川澄元の子。阿波の三好元長の支援のもと和泉国堺に上陸し、畿内の支配をすすめました。細川高国を滅ぼすと細川家の惣領となりました。その後、三好元長を滅ぼしますが、一向一揆によって堺を追われて淡路に逃れました。淡路から摂津に上陸し、芥川城を拠点にして畿内を支配し、その後管領となりました。しかし、元長の子長慶に敗れて、前将軍足利義晴、将軍足利義輝とともに近江国に逃れました。享年50。
細川 氏綱(うじつな)【?~1563】
細川 昭元(あきもと)【1548~1592】
(2) 阿波守護家
細川頼春の子詮春が祖。詮春の子義之が阿波守護になって以後、代々阿波守護を世襲し、下屋形家とも呼ばれました。持常は六代将軍足利義教の命で一色氏を討ち三河守護を兼ねました。養子の成之は阿波守護と三河守護を継ぎましたが、のちに三河守護から外れました。
(3) 和泉上守護家
細川頼春の子頼有が祖。頼有は備後守護をつとめました。頼長は土佐守護をつとめたのち、和泉守護となって以降代々和泉守護をつとめた。
持有・教春親子は、赤松満祐征伐のときに軍功がありました。常有は応仁の乱に東軍として戦いました。
藤孝は幕臣として足利義輝に仕え、義輝が三好三人衆に討たれると、その弟義昭を救出し、将軍とするために尽力しました。織田信長が義昭を奉じて上洛すると再度幕臣となりました。義昭が信長に追放されると信長の家臣となりました。
三淵氏についてはこちらをご覧ください。
(4) 野州家
政春の子高国は、京兆家の細川政元の養子となりました。
(5) 典厩家
晴賢の従兄弟藤賢が三好氏の推挙で典厩家を継ぎましたが、やがて改易されました。子孫は加賀金沢藩士となりました。
(6) 備中守護家
(7) 和泉下守護家
備中守護の細川満之の子基之が和泉半国守護となったのが祖。和泉半国守護は地域の分割はなく、一国を上守護家と共同統治しました。基之のあとは、持久、勝信、政久、九郎と守護をつとめました。しかし、九郎が摂津国で戦死し滅亡しました。
(8) 淡路守護家
細川師氏が淡路守護となったのが祖。師氏のあとは、氏春、満春、満俊、持親、成春、尚春と代々淡路守護をつとめました。氏春は南朝にくだった従兄弟の細川清氏とともに讃岐にわたり細川頼之と戦うが、その後幕府に帰順しました。成春は足利義政の御供衆をつとめました。尚春のときに阿波の三好之長に敗れて滅亡しました。
(9) 奥州家
細川藤孝の長男忠興は、義輝の命により輝経の養子となって奥州家を継ぎました。
参考文献:
日本名字家系事典(東京堂出版)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。