探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

美濃土岐一族

こんにちは、勘矢です。
今回は美濃守護の土岐一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 土岐氏とは

 土岐氏は、大江山の鬼退治で名高い源頼光の子孫で、頼光の玄孫光延が美濃土岐郡岐阜県瑞浪市土岐町)に居住し、土岐を称したことはじまります。孫の光衡は鎌倉幕府御家人となりました。
 南北朝時代の頼遠は北朝に属して美濃守護となり、頼康は美濃のほか尾張、伊勢の守護を兼任し、侍所として室町幕府の重責を担いました。康行が室町幕府と対立して敗れると美濃守護は頼康の弟頼忠が任じられ、この系統が世襲していきました。
 応仁の乱では、美濃守護代の斎藤氏とともに西軍に属し、隣接する尾張、伊勢、近江、飛騨にまで勢力を伸ばしました。
 政房の相続をめぐって頼武・頼芸兄弟に確執が生じると、頭角をあらわした斎藤道三に巧みにつけこまれ、守護職は名目上のものとなりました。そして、道三が擁立した頼芸と道三が不和になると、頼芸は追放されました。その後、諸国を流浪して諸大名を頼りました。その子頼次は徳川家康に服して家名を保ちました。
 

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土岐氏の略系図(戦国期まで)
 
 

2. 美濃守護

土岐 頼貞(よりさだ)【1271~1339】
 土岐光定の子、母は鎌倉幕府執権北条貞時の娘。足利尊氏にしたがって北朝側につき、美濃守護となりました。享年69。
 
土岐 頼遠(よりとお)【?~1342】
 土岐頼貞の子。美濃守護。足利尊氏にしたがい活躍しましたが、光厳上皇の牛車に矢を射かける乱暴を働き、京都で処刑されました。
 
土岐 頼康(よりやす)【1318~1387】
 土岐頼清の子。叔父頼遠のあとに美濃守護をつぎ、尾張・伊勢の守護を兼任しました。享年70。
 
土岐 康行(やすゆき)【?~1404】
 土岐頼雄の子。伯父頼康の養子となり、美濃・尾張・伊勢の3ヵ国の守護となりました。足利義満が康行の弟満貞を尾張守護に任じるとこれに不満を持ち、挙兵するも敗北しました。明徳の乱では幕府側に加わり、伊勢守護に復しました。
 
土岐 頼忠(よりただ)【?~1397】
 土岐頼清の子。甥土岐康行の乱ののち美濃守護となり、土岐家惣領となりました。
 
土岐 頼益(よります)【1351~1414】
 土岐頼忠の長男。美濃守護。従兄弟の土岐詮直が大内義弘が起こした応永の乱に呼応して挙兵すると、足利義満の命によりこれを滅ぼしました。その後、侍所頭人となりました。享年64。
 
土岐 持益(もちます)【1406~1474】
 土岐頼益の子。美濃守護をつとめ、侍所頭人もつとめました。享年69。
 
土岐 成頼(しげより)【1442~1497】
 一色義遠の子、一説に饗場元明の子ともいい、土岐持益の養子となり、美濃守護となりました。応仁の乱せは西軍に加わり、乱後は足利義視・義材(のち義稙)父子をともない美濃に戻りました。その後、長男政房を推す守護代斎藤利国に敗れて隠居しました。享年56。
 
土岐 政房(まさふさ)【1467~1519】
 土岐成頼の長男。守護代斎藤利国の支援によって美濃守護となりました。利国が近江の六角攻めで戦死したことや息子の頼武・頼芸兄弟の争いにより守護家の勢力は衰えました。享年53。
 
土岐 頼武(よりたけ)【?~?】
 土岐政房の長男。政頼・盛頼・頼純ともいう。美濃守護となるも、弟頼芸側に攻められて越前の朝倉氏を頼りました。のちに美濃に戻るも病没しました。正室は朝倉貞景の娘。
 
土岐 頼芸(よりなり)【1501~1582】
 土岐政房の二男。斎藤道三などの助力によって、兄頼武を打ち破りました。その後、道三に擁立されて美濃守護となりましたが、道三と不和になり追放されました。鷹の絵か得意であったといいます。享年82。
 
土岐 頼純(よりずみ)【?~1547】
 土岐頼武の嫡男、母は朝倉氏。叔父頼芸と敵対するも劣勢となり、越前の朝倉氏を頼りました。のち頼芸と和解して美濃に戻るも急死しました。斎藤道三による暗殺されたともいわれますが定かではありません。
 
 

3. 土岐明智氏

 土岐氏の支流で、土岐頼基の子頼重が土岐郡明智に住んだことから明智氏を称しました。明智光秀もこの一族と思われますが、光秀以前の系図については不明な点が多いです。
 頼重は足利尊氏に従って軍功がありました。頼重の跡は弟頼高が継ぎ、のちに甥の頼篤(頼重の子)に譲りました。頼秀は、嘉吉の乱で将軍足利義教が暗殺された後の赤松征伐に出陣しました。成頼は応仁の乱に出陣しました。
 頼尚は、長男頼典に不孝があることから義絶し、二男頼明に家督を譲りました。頼典は明智光秀の祖父光継と同一人物とされるようです。
 1552年、土岐頼芸斎藤道三との合戦で定明が討死にすると、幼少の定政は母方の叔父菅沼定仙の元で成長しました。明智光秀と同族であることをはばかって一時菅沼姓を名乗り、土岐に復して徳川家康に仕え、子孫は上野沼田藩主となりました。
 

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土岐明智氏系図
 
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
 NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代(NHK出版)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。