こんにちは、勘矢です。
今回は美濃守護の土岐一族について調べたことをまとめました。
1. 土岐氏とは
南北朝時代の頼遠は北朝に属して美濃守護となり、頼康は美濃のほか尾張、伊勢の守護を兼任し、侍所として室町幕府の重責を担いました。康行が室町幕府と対立して敗れると美濃守護は頼康の弟頼忠が任じられ、この系統が世襲していきました。
政房の相続をめぐって頼武・頼芸兄弟に確執が生じると、頭角をあらわした斎藤道三に巧みにつけこまれ、守護職は名目上のものとなりました。そして、道三が擁立した頼芸と道三が不和になると、頼芸は追放されました。その後、諸国を流浪して諸大名を頼りました。その子頼次は徳川家康に服して家名を保ちました。
2. 美濃守護
土岐 頼貞(よりさだ)【1271~1339】
土岐 頼遠(よりとお)【?~1342】
土岐 頼康(よりやす)【1318~1387】
土岐頼清の子。叔父頼遠のあとに美濃守護をつぎ、尾張・伊勢の守護を兼任しました。享年70。
土岐 康行(やすゆき)【?~1404】
土岐頼雄の子。伯父頼康の養子となり、美濃・尾張・伊勢の3ヵ国の守護となりました。足利義満が康行の弟満貞を尾張守護に任じるとこれに不満を持ち、挙兵するも敗北しました。明徳の乱では幕府側に加わり、伊勢守護に復しました。
土岐 頼忠(よりただ)【?~1397】
土岐頼清の子。甥土岐康行の乱ののち美濃守護となり、土岐家惣領となりました。
土岐 頼益(よります)【1351~1414】
土岐 持益(もちます)【1406~1474】
土岐頼益の子。美濃守護をつとめ、侍所頭人もつとめました。享年69。
土岐 成頼(しげより)【1442~1497】
一色義遠の子、一説に饗場元明の子ともいい、土岐持益の養子となり、美濃守護となりました。応仁の乱せは西軍に加わり、乱後は足利義視・義材(のち義稙)父子をともない美濃に戻りました。その後、長男政房を推す守護代斎藤利国に敗れて隠居しました。享年56。
土岐 政房(まさふさ)【1467~1519】
土岐 頼武(よりたけ)【?~?】
土岐 頼芸(よりなり)【1501~1582】
土岐 頼純(よりずみ)【?~1547】
土岐頼武の嫡男、母は朝倉氏。叔父頼芸と敵対するも劣勢となり、越前の朝倉氏を頼りました。のち頼芸と和解して美濃に戻るも急死しました。斎藤道三による暗殺されたともいわれますが定かではありません。
3. 土岐明智氏
頼重は足利尊氏に従って軍功がありました。頼重の跡は弟頼高が継ぎ、のちに甥の頼篤(頼重の子)に譲りました。頼秀は、嘉吉の乱で将軍足利義教が暗殺された後の赤松征伐に出陣しました。成頼は応仁の乱に出陣しました。
1552年、土岐頼芸と斎藤道三との合戦で定明が討死にすると、幼少の定政は母方の叔父菅沼定仙の元で成長しました。明智光秀と同族であることをはばかって一時菅沼姓を名乗り、土岐に復して徳川家康に仕え、子孫は上野沼田藩主となりました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。