探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

沼田藩分家の旗本土岐一族

こんにちは、勘矢です。
前々回(上野沼田藩主 土岐家 - 探検!日本の歴史)の沼田藩から分家した旗本家は前回(旗本 溜池土岐家(沼田藩分家) - 探検!日本の歴史)の溜池土岐家以外にもありました。今回はそれ以外の旗本土岐一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 沼田藩分家の旗本土岐一族とは

 初代土岐定義の三男 頼豊(土岐作右衛門家)は二千石、四男 頼親(土岐内記家)は五百石、五男 頼久(土岐市右衛門家)は七百石でそれぞれ旗本に取り立てられました。
 
 
 

2. 旗本土岐一族

(1) 旗本:土岐作右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 土岐 頼豊(よりとよ)【?~1691】
 土岐定義の三男、母は諏訪頼水の娘。
 1631年に御書院番をつとめ、のちに上総国内で二百石の知行地を賜りました。
 1650年に徳川家綱の附属とされ、西の丸につとめ、のちに本丸につとめました。1686年に隠居しました。
 
二代 土岐 頼以(よりのり)【1643~1718】
 諏訪因幡守の家臣 諏訪頼風の子、母は諏訪頼水の娘。
 母方の従兄 頼豊の養子となり、1686年に44歳で相続しました。翌年に御書院番に列し、1714年に72歳で隠居しました。享年76。
 
 土岐 頼誠(よりなり)
 土岐頼以の長男。1693年に小姓組の番士となり、のちに辞職。父に先立ち没しました。
 
三代 土岐 頼顕(よりあきら)【1675~1737】
 旗本 小栗久弘の二男、母は諏訪頼長の娘。
 母の従兄 頼以の養子となり、1714年に40歳で相続しました。1718年(44)に御書院番となりました。享年63。
 
四代 土岐 頼記(よりのり)【1716~1780】
 土岐頼顕の長男。
 1737年に22歳で相続しました。翌年、西ノ丸の御小姓組の番士となり、1768年に53歳で隠居しました。享年65。
 妻は旗本 座光寺昌貴の娘(離婚)、後妻は旗本 伊丹勝範の娘。
 
五代 土岐 頼多(よりひろ)【1743~?】
 土岐頼記の長男、母は座光寺昌貴の娘。
 1768年に26歳で相続しました。1774年(32)に御小姓組の番士となり、1791年(49)に辞職しました。1793年に51歳で隠居しました。
 妻は日向氏の娘。
 
六代 土岐 頼躬(よりみ)【1764~?】
 土岐頼多の長男、母は日向氏の娘。
 1793年に30歳で相続しました。
 
 

(2) 旗本:土岐内記家

(寛政年間までの当主)
 初代 土岐 頼親(よりちか)【?~1689】
 土岐定義の四男、母は諏訪頼水の娘。
 1635年に御小姓組の番士となり、のちに廩米三百俵を賜りました。1658年に御目付にすすみ、翌年に廩米三百俵を加えられました。
 1678年に御先鉄砲頭に移り、1682年に上野国内で五百石の知行地を加えられました。1687年御槍奉行に転じ、1689年に辞職して寄合に列しました。
 妻は旗本 根来盛正の娘。
 
二代 土岐 頼定(よりさだ)【1646~1695】
 土岐頼親の長男、母は根来盛正の娘。
 1667年(22)に御小姓組に列しました。1689年に44歳で相続しました。享年50。
 
三代 土岐 定武(さだたけ)【?~1731】
 土岐頼定の二男。
 1693年に御書院番となり、1695年に相続しました。1697年に廩米を改められ、下総・伊豆・武蔵国内において六百石の知行地を賜り、合わせて千百石となりました。翌年より進物役をつとめ、1703年に御徒頭に移りました。1712年に辞職して寄合となりました。
 妻は桑山貞稠の娘。寛政譜の土岐定武の項は貞稠の娘となっているが、桑山氏の項では元稠(初名 貞代)。
 
四代 土岐 頼雄(よりお)【1715~1773】
 土岐定武の長男。
 1731年に17歳で相続し、小普請となりました。1737年(23)に西ノ丸の御書院番に列し、1745年(31)より進物役をつとめ、1764年(50)に西ノ丸の小十人頭に転じました。享年59。
 妻は旗本 岡部長臧の娘、後妻は旗本 天野康建の養女(旗本 天野康作の娘)。天野家は三河三奉行天野康景の子孫。
 
五代 土岐 頼久(よりひさ)【1746~?】
 旗本 石尾氏記の四男、母は佐野察行の娘。頼久の祖母の妹が先々代定武の妻。
 1773年に28歳で相続しました。翌年に御小姓組の番士となり、1776年(31)の十代将軍 徳川吉宗日光社参に供奉しました。
 妻は土岐頼雄の娘。

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土岐頼雄・頼久関係図
 

(3) 旗本:土岐市右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 土岐 頼久(よりひさ)【1616~1672】
 土岐定義の五男、母は諏訪頼水の娘。
 1631年(16)に召されて御小姓をつとめました。のち相模国内で四百石の知行地を賜りました。1636年(21)の三代将軍 徳川家光の日光社参に従い、のちに御書院番となりました。
 1643年(28)に世子徳川家綱の附属となり、1649年(34)の日光社参に従いました。翌年に西ノ丸の御小姓組に列し、のちに本丸につとめました。1663年(48)に組頭に転じ、廩米三百俵を加えられました。享年57。
 妻は某氏の娘、後妻は大奥老女某氏の養女。
 
二代 土岐 頼利(よりとし)【1653~1713】
 旗本 滝川利貞の四男。利貞は頼久の兄。
 叔父頼久の養子となり、1667年(15)に御書院番となり、1672年に20歳で相続しました。1688年(36)に桐間番に移り、その後御小納戸となるも、故あって務めをゆるされて小普請となりました。1694年(42)に御書院番となり、下総国内で三百石の知行地を賜り、合わせて七百石となりました。享年61。
 妻は旗本 稲葉通照の娘。稲葉家は西美濃三人衆稲葉良通の子孫。
 
三代 土岐 頼在(よりあきら)【1696~1752】
 土岐頼利の五男、母は稲葉通照の娘。
 1713年に18歳で相続しました。1718年(23)に御書院番の番士となり、1728年(33)の八代将軍 徳川吉宗の日光社参に供奉しました。1747年(52)に辞職しました。享年57。
 妻は松下氏の娘。
 
四代 土岐 頼門(よりかど)【1717~1766】
 土岐頼在の長男、母は松下氏の娘。
 1739年(23)に御小姓組に列しました。弓矢にすぐれ、鷹狩りで度々獲物を射止めて賞誉されました。1745年(29)に西ノ丸につとめ、1751年(35)に大御所 徳川吉宗薨去すると番をゆるされ、翌年に御書院番となりました。
 1752年に36歳で相続しました。享年50。
 妻は旗本 青山幸増の娘。
 
五代 土岐 頼看(よりみ)【1744~?】
 土岐頼在の六男、母は松下氏の娘。
 1766年に23で相続しました。1771年(28)に御書院番の番士となり、1776年(33)に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。
 妻は旗本 竹中定弘の娘。
 
土岐 頼族(よりつぐ)【1765~1791】
 土岐頼門の三男。義兄頼看の養子になるも先に没しました。享年27。
 妻は旗本 駒井昌臧の娘、後妻は駒井勝岑の三男岑有の娘。岑有の娘は頼族の没後、頼看の養女となり、旗本 斎藤幸道に嫁ぎました。
 
土岐 頼第(よりくに)【1773~?】
 旗本 村上義礼の二男。頼看の婿養子となるも、故あって実家に戻りました。その後、実家村上家を相続し義雄と名乗った。
 妻は土岐頼看の養女(土岐頼門の娘)。
 
土岐 頼有(よりずみ)
 旗本 竹中定弘の七男。頼看の妻の弟。頼看の養子となりました。
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。