こんにちは、勘矢です。
今回は前回(上野沼田藩主 土岐家 - 探検!日本の歴史)の続きで、沼田藩分家の旗本溜池土岐家について調べたことをまとめました。
1. 溜池土岐家とは
出羽上山藩主 土岐頼殷の子頼郷は三千五百石を分知されて旗本となりました。頼香は駿府町奉行、幕末の頼旨は勘定奉行、大目付をつとめ、老中堀田正睦の命を受けて川路聖謨らとともにアメリカ総領事ハリスと通商条約締結の交渉に当たりました。子の頼礼は神奈川奉行や海軍奉行並となりました。
2. 旗本:土岐帯刀家(溜池土岐家)
初代 土岐 頼郷(よりさと)【1701~1732】
土岐頼殷の二男。
1721年(21)に兄駿河田中藩主 土岐頼稔から三千俵を分け与えられ、寄合に列しました。1723年(23)に中奥の御小姓となりました。享年32。
品川東海寺の春雨庵(現春雨寺)に葬られました。祖父の頼行が創建。
二代 土岐 頼常(よりつね)【1721~1786】
土岐頼郷の長男。
1732年に12歳で相続しました。1753年(22)に中奥の御小姓となり、1771年(40)に新番頭となり、翌年に辞職しました。1784年に64歳で隠居しました。享年66。
妻は旗本 川口恒寿の妹。寛政譜の土岐頼常の項で妻は川口恒寿の娘となっているが、川口氏の項では恒寿の妹となっている。恒寿の父宗直は恒寿が3歳のときに亡くなっているので、恒寿の娘という形の嫁いだのではないかと考えられる。
三代 土岐 頼香(よりか)【1752~1794】
土岐頼常の長男。
1784年に33歳で相続しました。1786年(35)に御使番となり、1788年(37)より火事場見廻りを兼ねました。1792年(41)に御先弓頭に移り、さらに駿府町奉行となり、1794年(43)に辞職しました。享年43。
妻は越後黒川藩主 柳沢保卓の娘。
四代 土岐 頼門(よりかど)【1780~1807】
土岐頼香の長男、母は柳沢保卓の娘。
1794年に15歳で相続しました。1803年(24)に火事場見廻りより中奥の小姓となりました。享年28。
妻は旗本 井上正乗の娘。
五代 土岐 靱負【?~1818】
上野沼田藩主 土岐定経の八男。久馬、定考。
頼門の婿養子となり、1807年に相続しました。寄合。
妻は土岐頼門の娘。
六代 土岐 頼旨【?~1884】
土岐靱負の養子となり、1818年に相続しました。1822年に火事場見廻りとなり、1827年に寄合肝煎となりました。
1829年に西ノ丸目付となり、翌年に本丸目付、1836年に普請奉行となりました。1838年に作事奉行となり、1840年に西ノ丸普請の事で賞されて五百石の加増となりました。家禄はのちに七千石となりました。
1852年に旗本では最高位の役職となる留守居となりました。1855年に老中阿部正弘に抜擢されて講武場総裁に任命され、その後、大目付兼海防掛となりました。1857年に老中堀田正睦の命を受けて川路聖謨らとともにアメリカ総領事ハリスと通商条約締結の交渉に当たりました。
将軍継嗣問題が起こると一橋派として運動したため、1858年に大番頭に左遷され、さらに翌年、御役御免とされ、隠居差控となりました。
妻は土岐靱負の娘。
土岐頼旨(P13~14)
七代 土岐 頼礼
1851年に中奥御小姓となり、1858年に講武所頭取となりました。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
沼田市史 通史編2 近世
取手市「広報とりで」2017年発行分のPDF版
2017年6月15日 ふるさと探訪88 旗本土岐頼旨の幕末維新(その1)
2017年7月15日 ふるさと探訪89 旗本土岐頼旨の幕末維新(その2)
2017年8月15日 ふるさと探訪90 旗本土岐頼旨の幕末維新(その3)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。