こんにちは、勘矢です。
1. 沼田藩主土岐家とは
成長した定政は菅沼姓を名乗ったのち、土岐に復姓して徳川家康に仕えました。家康の関東入国後に下総国守谷(茨城県守谷市)で一万石を賜りました。子孫は摂津高槻 二万石、出羽上山 二万五千石、駿河田中 三万五千石を経て上野沼田 三万五千石となりました。
また、頼之の実家 桑名藩主 松平定敬は京都所司代で、その実兄の会津藩主 松平容保は京都守護職と佐幕派の重鎮であったため、沼田藩の去就は注目されました。頼之の子 頼知は藩論を勤王に統一し、新政府側に付きました。
2. 沼田藩土岐家当主
初代 土岐定義(さだよし)【1580~1619】
兄頼顕が早世したため嫡子となり、1597年に18歳で下総守谷藩を相続しました。徳川秀忠に仕え、1600年(21)の関ヶ原の戦いでは、真田攻めに従いました。1609年(30)に伏見城警備、1612年(33)に大番頭となりました。
1614年(35)の大坂冬の陣では二代将軍徳川秀忠に従って出陣し、翌年の大坂夏の陣では江戸城を守備しました。1617年(38)に一万石の加増をされて二万石となり、摂津高槻に転封となりました。享年40。
二代 土岐 頼行(よりゆき)【1608~1684】
土岐定義の長男、母は諏訪頼水の娘。
1629年(22)から1632年まで紫衣事件で配流となった大徳寺の僧 沢庵を召し預けられました。1634年(27)に甲府勤番をつとめ、1660年(53)に大坂城番をつとめました。1678年に71歳で隠居しました。享年77。
正室は甲斐徳美藩主 伊丹康勝の娘。
土岐 頼長(よりなが)【1642~1694】
土岐頼行の長男。1678年(37)に多病のため嫡子を辞退しました。享年53。
土岐 頼賢(よりかた)【1659~1685】
土岐頼行の三男。享年27。
三代 土岐 頼殷(よりたか)【1641~1722】
土岐頼行の二男、母は側室 福山氏。
1663年(23)に御書院の番士となり、1665年(25)に廩米三百俵を賜りました。1667年(27)に中奥の御小姓となり二百俵を加えられ、1672年(32)に御小姓組の番頭となり千俵を加えられて千五百俵となりました。また、奥詰も兼ねました。
1690年(50)に奏者番、翌年に大坂城代となり一万石を加増され、三万五千石となりました。1692年(52)に出羽国内の領地を摂津などの3国内に替えられました。1701年(61)に京都所司代格となりました。1712年(72)に大坂城代を辞職し、駿河田中藩へ転封となりました。1713年に73歳で隠居しました。享年82。
四代 土岐 頼稔(よりとし)【1695~1744】
土岐頼殷の長男。早世した兄二人(寛政譜には記載がない)がいたので三男という説がある。
1730年(36)に大坂城代となり、駿河国内の領地を摂津などの4国内に替えられました。1734年(40)に京都所司代となりました。1742年(48)に老中となり、上野沼田藩へ転封となりました。享年50。
五代 土岐 頼熙(よりおき)【1719~1755】
土岐頼稔の長男。
正室は豊後府内藩主 松平(大給)近貞の娘、継室は越後椎谷藩主 堀直恒の娘。
土岐 定興(さだおき)【1721~1744】
土岐頼稔の二男。享年24。
土岐 定則(さだのり)【1727~1750】
土岐頼稔の四男。1737年(11)に徳川家治の山王社詣に騎馬にて供奉しました。享年24。
六代 土岐 定経(さだつね)【1728~1782】
土岐頼稔の五男。
七代 土岐 頼寛(よりひろ)【1764~1782】
土岐定経の二男。
1782年に19歳で上野沼田藩を相続しました。享年19。
八代 土岐 定吉(さだよ)【1766~1786】
土岐定経の三男。
九代 土岐 定富(さだとみ)【1774~1790】
土岐定経の五男。
兄の養嗣子となり、1786年に13歳で上野沼田藩を相続しました。享年17。
十代 土岐 頼布(よりのぶ)【1775~1837】
土岐定経の七男。はじめ定峯。
兄の養嗣子となり、1790年に16歳で上野沼田藩を相続しました。1813年に39歳で隠居しました。享年63。
正室は下野宇都宮藩主 松平(深溝)忠祇の娘 橘。
十一代 土岐 頼潤(よりみつ)【1788~1826】
備後福山藩主 阿部正倫の五男。
十二代 土岐 頼功(よりかず)【1803~1843】
信濃飯田藩主 堀親長の九男。
正室は土岐頼潤女の娘 鍼。
十三代 土岐 頼寧(よりやす)【1827~1847】
土岐頼潤の五男。
十四代 土岐 頼之(よりゆき)【1826~1873】
伊勢桑名藩主 松平定永の十男。
正室は土岐頼寧の養女(土岐頼功の娘)益子。
十五代 土岐 頼知(よりおき)【1849~1911】
土岐頼之の子。
1867年に19歳で上野沼田藩を相続しました。翌年に上洛して朝廷に誓約書を提出しました。頼知の上洛中は父頼之が留守を預かり、東山道総督府に恭順しました。三国戦争・戸倉戦争と新政府軍に従って勝利しました。
3. 江戸中・後期の沼田藩主土岐家の婚姻関係
(1)土岐家と深溝松平家
十代頼布の正室は松平忠雄の3代後の下野宇都宮藩主 松平忠祇の娘 橘です。橘ははじめ、下野壬生藩主 鳥居忠意の嫡孫 忠貴と婚約しましたが、1791年に忠貴が病により廃嫡されたので、土岐頼布の正室となりました。
(2)土岐家と大給松平家と阿部家
(3)土岐家と阿部家と堀家
(4)土岐家と久松松平家
十三代頼寧は先代頼功の娘益子を養女にして伊勢桑名藩主 松平定永の十男頼之を婿養子に迎えました。この久松松平家は、十一代頼潤の実家阿部家とつながりがありました。阿部重次の正室が松平定行の姉妹です。また、頼之の祖父は寛政の改革を行った松平定信で、定信の祖父は八代将軍吉宗なので、土岐頼之は徳川家の血を継いでいます。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。