探検!日本の歴史

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紀州の麒麟 徳川治貞とその家族

こんにちは、勘矢です。

今回は徳川治貞とその家族について調べたことをまとめました。

 

 

1. 治貞以前の紀州徳川家

 紀州徳川家の藩祖頼宣は徳川家康の十男で、はじめ駿府を治めていたが、のちに紀州へ転封された。以降、光貞・綱教・頼職・吉宗と相続してきた。吉宗が将軍家相続すると分家西条藩松平頼致紀州藩を相続した。

 頼致は宗直と改名し、藩札発行や銅銭の鋳造を行うなど藩の財政立て直しを行った。その子宗将は、日蓮宗に対して厳しい排撃を行ない、また、贅沢な生活を送ったため藩内は疲弊した。

 宗将の跡を相続した重倫は性質暴虐であったといわれ、近臣や側妾にしばしば刀を振るったという。そのため、1775年に病気を理由に蟄居を命ぜられた。隠居後はおだやかで信仰心篤く、のちに太真と号し、54年の隠居生活を送った。

 

徳川 宗直(むねなお)【1682~1757】

 伊予西条藩主 松平頼純の四男、母は太田氏。初名頼致(よりよし)。享年76。

 六代紀州藩主・在職期間:1716年(35)~1757年(76)

 

徳川 重倫(しげのり)【1746~1829】

 紀州藩徳川宗将の二男、母は吉田氏。享年84。

 八代紀州藩主・在職期間:1765年(20)~1775年(30)隠居

 正室有栖川宮職仁親王の娘 於佐宮(婚姻前に絶縁)。

 

紀州徳川家系図(江戸中期まで)

 

2. 治貞の兄弟

 紀州藩徳川宗直には六男十女の子女がいたが、幼少期に亡くなった者も少なくなかった。無事に成長した兄弟たちの多くは、他家への養子や縁組を通じて、紀州徳川家のネットワークを盤石なものにしていった。

 

(1)治貞の姉と兄

利根姫【1717~1745】

 徳川宗直の二女、母は斎藤氏。享年29。

 1735年に八代将軍徳川吉宗の養女となり、陸奥仙台藩主 伊達宗村【1718~1756】に嫁いだ。

 

徳川 宗将(むねのぶ)【1720~1765】

 徳川宗直の長男、母は服部氏。享年46。

 七代紀州藩主・在職期間:1757年(38)~1765年(46)

 正室伏見宮貞建親王の養女(公家 今出川公詮の娘)富宮徳子。

 継室は公家 一条兼香の娘 愛君。

 

友姫【1720~1780】

 徳川宗直の四女、母は斎藤氏。享年61。

 肥後熊本藩細川宗孝【1716~1747】に嫁いだ。

 

久姫【1726~1800】

 徳川宗直の五女、母は山本氏。享年75。

 因幡鳥取藩主 池田宗泰【1717~1747】に嫁いだ。

 

(2)治貞の弟と妹

松平 頼央【1729~1757】

 徳川宗直の三男、母は神谷氏。享年29。

 正室伊予西条藩主 松平頼渡の娘。

 

松平 信有(のぶあり)【1731~1793】

 紀州藩徳川宗直の四男、母は側室 入江氏。享年63。

 1760年に上野吉井藩主松平信友の養子となった。この松平家は三代将軍家光の正室の弟信平からはじまる。信平の正室が頼宣の娘 松姫であり、信友はこの夫婦の曾孫にあたる。

 吉井藩主在職期間:1760年(30)~1771年(41)隠居。

 正室は美作津山藩主 松平(越前)長孝の娘。

 

賢姫【1736~1781】

 徳川宗直の六女、母は外山氏。享年46。

 水戸藩支藩常陸府中藩主 松平頼済【1720~1784】に嫁いだ。

 

達姫【1739~1759】

 徳川宗直の八女、母は久能氏。享年21。

 陸奥二本松藩主 丹羽高庸【1730~1765】に嫁いだ。

 

載姫【1743~1789】

 徳川宗直の九女、母は落合氏。相君。

 京極宮公仁親王【1733~1770】の継室として嫁いだ。公仁親王と載姫の間に子女はいなかったが、先妻の室子女王には一女・在子がおり、一橋治済の正室となった。享年47。

 

薫姫【1744~1785】

 徳川宗直の十女、母は久能氏。享年42。

 水戸藩支藩の讃岐高松藩主 松平頼真【1743~1780】に嫁いだ。

 

内藤貞幹【1746~1778】

 徳川宗直の六男、母は村井氏。初名頼章。享年33。

 陸奥湯長谷藩主 内藤政業の養子となった。政業の父は、映画「超高速参勤交代」の主人公内藤政醇

 湯長谷藩主在職期間:1761年(16)~1778年(33)

 

徳川治貞の関係図

 

3. 西条藩主時代(松平頼淳時代)

 徳川吉宗が将軍家を相続した際、西条藩主であった松平頼致(後の宗直)が紀州藩主となった。頼致の跡を、宗直の弟である松平頼渡が継ぎ、さらにその跡を頼渡の子頼邑が継いだ。紀州藩からの合力米が減らされたため、藩財政再建を行うも、1753年に病弱により隠居した。

 

 家督は、紀州藩主 宗直の二男頼淳が頼邑の養子となって相続した。この年は豊作であったため、税率の一割引き上げを行ったが、三万石騒動と呼ばれる農民一揆が起き、税率を元に戻した。

 1755年に今出川家から千穂君を正室に迎えた。頼淳には嗣子がなく、1772年に甥の頼謙を養子に迎えた。1775年に紀州藩主 重倫が隠居を命ぜられ、世子が幼少であったため頼淳が相続することなり、治貞と改名した。

 

松平 頼致(よりよし)【1682~1757】

 伊予西条藩主 松平頼純の四男、母は太田氏。初名頼致(よりよし)。享年76。

 二代西条藩主・在職期間:1711年(30)~1716年(35)

 

松平 頼渡(よりただ)【1706~1738】

 松平頼純の六男、母は側室 佐藤氏。享年33。

 三代西条藩主・在職期間:1716年(11)~1738年(33)

 正室は伊勢桑名藩主 松平(奥平)忠雅の娘。

 

松平 頼邑(よりさと)【1732~1781】

 西条藩主 松平頼渡長男、母は松平忠雅の娘。享年50。

 四代西条藩主・在職期間:1738年(7)~1753年(22)隠居

 

松平 頼淳(よりあつ)【1728~1789】

 紀州藩徳川宗直の二男、母は側室 外山氏。享年62。

 五代西条藩主・在職期間:1753年(26)~1775年(48)紀州藩相続。

 正室は公家 今出川誠季の娘 千穂君。

 

松平 頼謙(よりかた)【1755~1806】

 紀州藩徳川宗将の六男、母は側室 前田氏。享年52。

 六代西条藩主・在職期間:1775年(21)~1795年(41)隠居

 

 

4. 紀州藩相続(徳川治貞時代)

 紀州藩主となった治貞は、殖産興業による収益増加と、徹底した支出削減(倹約・家臣の給料削減)によって、藩の財政立て直しを図った。

 1777年に重倫の二男 岩千代(のち治宝)を養子とし、1787年に治宝は家治の養女種姫を正室に迎えた。1789年に養女方姫が水戸藩の世子治紀に嫁いだ。

 

徳川 治貞(はるさだ)【1728~1789】

 紀州藩徳川宗直の二男、母は外山氏。初名頼淳。享年62。

 九代紀州藩主・在職期間:1775年(48)~1789年(62)

 正室は公家 今出川誠季の娘 千穂君。

 

徳川 治宝(はるとみ)【1771~1852】

 紀州藩徳川重倫の二男、母は佐々木氏。享年82。

 十代紀州藩主・在職期間:1789年(19)~1824年(54)隠居

 正室は将軍 徳川家治の養女 種姫(田安宗武の娘)

 

方姫【1774~1794】

 徳川重倫の娘、母は伊藤氏。享年21。

 徳川治貞の養女となり、水戸藩徳川治紀に嫁いだ。

 

迎賓館東門



迎賓館は元紀州藩中屋敷跡に建てられた。

 

参考文献:

 徳川諸家系譜 第二 第三(続群書類従完成会

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社

 続徳川実紀 第1篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。