探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

安芸毛利氏~季光から輝元~

こんにちは、勘矢です。
今回は戦国時代までの毛利氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 家祖毛利季光

 大江氏は古代の豪族土師氏の後裔で、一族は文才により文章博士を歴任した。広元は鎌倉幕府の政所別当となり、二男時広は長井氏の祖、四男季光は毛利氏の祖となる。
 季光は父より相模国毛利荘(神奈川県厚木市)の地頭職を譲渡され、土着して毛利を称した。季光は武士としての性格を強め、1221年の承久の乱で活躍した。その後、評定衆に加えられ、幕府内での地位は高まっていった。季光の娘は執権北条泰時の孫時頼に嫁して北条得宗家の外戚となった。
 
 執権泰時が没すると嫡孫の経時、ついで時頼と引き継がれ、また将軍職も九条頼経から頼嗣へと交代が行われた。こうした中、頼経の側近グループの名越光時らが頼経を擁して時頼を排除する陰謀が露見し、頼経は京都へ強制送還された。その側近グループの一人である三浦光村は頼経をもういちど鎌倉に入れると広言し、北条氏と三浦氏の関係が悪化していった。1247年に三浦の乱が起きると、季光は妻の実家である三浦氏につき、季光とその長男広光、二男親光、三男泰光は共に討ち死した。
 
 
大江 広元(おおえの・ひろもと)【1148~1225】
 広元の父には諸説あり、大江維光藤原光能中原広季。享年78。
 
初代 毛利 季光(すえみつ)【1202~1247】
 大江広元の四男。享年46。妻は三浦義村の娘。
 
 

2. 越後毛利氏

 大江広元の四男経光は、三浦の乱が起きたとき越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)の所領に出向いていたため生き残った。本貫の毛利荘は没収されたが、佐橋荘と安芸国吉田荘(広島県安芸高田市)の地頭職の所有は安堵され、本拠を佐橋荘に移した。
 経光は1270年に佐橋荘の地頭職を長男基親と四男時親に分割譲渡し、基親に同荘北条と惣領職を与え、時親には同荘南条と安芸吉田荘を与えた。
 
 基親からはじまる北条毛利氏は、南北朝時代になると南条毛利氏が安芸へ移ると佐橋荘全域を支配下に入れ、さらに西隣の鵜川荘安田条をの地頭職を得て、ここに安田毛利氏を分立させた。その後、越後中部の有力な国人領主として成長する。
 戦国時代の北条高広は上杉謙信に属し、上野厩橋城(群馬県前橋市)の城代に任命された。謙信没後は厩橋に土着し、武田勝頼滝川一益北条氏直と主をかえた。
 
 
二代 毛利 経光(つねみつ)【?~?】
 毛利季光の四男。
 
 
北条 高広(きたじょう・たかひろ)【?~?】
 越後国刈羽郡北条の領主。
 
北条 景広(きたじょう・かげひろ)【?~1579】
 北条高広の長男。御館の乱景虎方につき、景勝方に討たれた。
 

毛利氏略系図(戦国時代まで)
 
 

3. 越後から安芸へ

 毛利経光の子 時親は京都に出て六波羅探題評定衆をつとめ、在京料として河内国で所領を与えられた。1331年、後醍醐天皇笠置山に拠って討幕に立ち上がったが捕らわれて隠岐に流された。のちに脱出して伯耆国船上山に拠って軍勢を募り、時親の孫親衡はこれに応じて馳せ参じた。建武の新政府が立ち上がったとき時親は京都にいたが、新政府からは疎外されていて、安芸国吉田荘の地頭職は取り上げられた。そのため、時親は足利尊氏にに接触して、曾孫元春を足利尊氏の家臣高師泰の麾下に入れてもらった。足利尊氏が新政府に反旗を翻すとその混乱に乗じて元春は吉田荘をの地頭職を奪回した。
 尊氏が湊川の戦い楠木正成を破って京都に入ると、時親は尊氏のもとに出向いて忠節を尽くすことを再三申し入れた。その後、時親は隠居して曾孫元春に家督を譲って、一族郎党の指揮権を与えた。また、新政府方にいた貞親、親衡はそれぞれ足利方に降り、安芸国へやってきた。
 
 時親が没すると親衡・元春父子が毛利家を率いたが、対立と融和を繰り返した。はじめは高師泰の麾下いた元春が優位であったが、観応の擾乱が起こると、親衡は山陰で勢力をつけてきた足利直冬に近づき、親衡が毛利勢力を代表するようになった。直冬の勢力が失墜すると、元春は二代将軍足利義詮に味方に付くよう招かれ、本領安堵の約束を取り付けて幕府に積極的に接近していった。幕府は九州探題を強化するため今川了俊を起用し、了俊は安芸・備後の守護も兼任したため、両国の国人たちを九州に動員し、その中でも元春は終始先頭をきって奮戦を続けた。
 その後、元春は一族の抗争を収めていき、一族庶家にひろく心得させる事項も盛り込んだ置文を残した。この頃までに成立した主な庶家は坂氏、麻原氏、福原氏など。
 
 
三代 毛利 時親(ときちか)【?~1341】
 毛利経光の二男。妻は亀谷局(長崎泰綱の娘)
 
毛利 貞親(さだちか)【?~1351】
 毛利時親の長男、母は長崎泰綱の娘。
 
毛利 親衡(ちかひら)【?~1375】
 毛利貞親の長男。妻は長井三田入道の娘。
 
四代 毛利 元春(もとはる)【1323~?】
 毛利親衡の長男。母は長井三田入道の娘。
 
 

4. 安芸の国人領主

 1381年に元春の跡を継いだ広房は、わずか4年後に戦死した。嫡男となる光房はこのとき母の胎内いて、翌年に誕生して当主となった。光房の叔父福原広世は一族の長老で幕府に密着な立場であった。広世は一時毛利一族から離脱していたこともあったが、晩年は戻って光房・凞元父子を支えた。
 凞元は再三上洛して幕府に忠勤を励み、将軍の権威を後ろ盾に一族を統制しようとしていったが、庶家の一部はこれに従わない状態だった。特に麻原氏は惣領家と肩を並べるほどとなった。凞元は惣領権を発動して実力行使をしたが、麻原氏は幕府の要路者に取り入って事実を曲げて訴えた。その結果、惣領家の一部所領は闕所地となった。
 豊元の代になると庶家の福原広俊と坂広秋は惣領家の味方となり、敵対する庶家は麻原是広となった。豊元は庶家でありながら幕府に挙用されてる麻原氏を放つことと闕所地の返還を幕府に訴え出た。応仁の乱が起こると豊元は縁のある山名是豊が東軍細川方についたので、豊元も東軍についた。しかし、西軍からの誘いなどがあり、幕府を見限って西軍に反転した。その後、闕所地を取り戻して、さらに備後国内にも所領を与えられた。
 
 弘元時代になると、安芸国に勢力を伸ばしていた周防大内氏の傘下に入った。また、備後国内では山名政豊・俊豊父子が分裂して争い、弘元は俊豊に味方して転戦し、俊豊より賞として敷名郷などを与えられた。毛利氏は芸備の国人では目立った存在となった。
 1493年に細川政元がクーデターを起こして将軍足利義稙を幽閉したが、のちに義稙は越中に逃れ、さらに大内氏を頼って周防に下向した。義稙が周防に下向した頃、弘元は幼い嫡男興元に家督を譲り、二男元就を連れて猿掛城に隠退した。しかし、外部勢力はあくまで毛利の当主は弘元とみており、細川・大内両氏から誘われて去就に悩まされた。その後、細川氏に内訌が起きたためその勢力は衰えていき、そのさなかに弘元は没し、毛利氏は大内氏の麾下に完全に入った。
 
 興元が相続した翌年、大内義興足利義稙を奉じて上洛し、興元はほかの安芸国人領主とともに三年余り在京した。その間、安芸国の政情は不安定になり、急激に勢力を伸ばした山陰の尼子氏が南下をはじめた。興元は帰国して地域の安定につとめるが、そのさなかに興元は没し、幼い幸松丸が継いだ。幸松丸は尼子氏の麾下で鏡山城攻撃に出陣し、その戦い後に早世した。
 
 
五代 毛利 広房(ひろふさ)【?~1385】
 毛利元春の長男。
 
六代 毛利 光房(みつふさ)【1386~1436】
 毛利広房の長男。享年51。
 
七代 毛利 凞元(ひろもと)【?~1464】
 毛利光房の長男。
 
八代 毛利 豊元(とよもと)【1444~1476】
 毛利凞元の長男。享年33。
 
九代 毛利 弘元(ひろもと)【1468~1506】
 毛利豊元の長男。享年39。妻は福原広俊の娘。
 
十代 毛利 興元(おきもと)【1493~1516】
 毛利弘元の長男、母は福原広俊の娘。妻は高橋氏。
 
十一代 毛利 幸松丸(こうまつまる)【1515~1523】
 毛利興元の長男、母は高橋氏。享年9。
 
 

5. 中国地方の覇者へ

 毛利元就は弘元の二男として生まれ、父の没後その隠居領の多治比を譲られたが、後見人であった井上中務丞に横領された。元就は弘元の側室大方殿の屋敷に身を寄せ、井上中務丞が急死すると多治比に呼びもどされた。1517年に初陣し、有田城下の戦いで安芸国守護家の武田元繁を討ち取った。その後、出雲の尼子氏が南下してくると、大内方から尼子方に引き入れられた。
 鏡山城の戦い後に幸松丸が早世すると、尼子氏の子息を当主に据えるという意見もあったが、毛利家の執権志道広良らが主導して元就に家督相続の承認を取り付け、家中一致で元就を当主とする旨を特使を送り、尼子経久から承認の返事を与えられた。その後、坂広秀・渡辺勝一派が元就の異母弟相合元網を擁立する陰謀が露見し、討ち果たされた。
 大内氏が芸備両国奪還に本腰を入れると、元就は尼子方から大内方へ反転した。1540年の秋に元就の居城安芸郡山城は尼子晴久に攻められ、領民も併せて八千人が籠城したという。その後、大内義隆重臣陶隆房が援軍に安芸に出陣し、翌年1月に決戦で尼子方に大打撃を与え、晴久は出雲へ退却した。
 大内義隆は毛利氏や尼子方から転じた国人らを率いて出雲遠征を行ったが、堅固な月山富田城を落とすのは容易ではなく、尼子方への裏切りが相次ぎ総退却することになった。元就は追撃する尼子勢と戦いながら撤退し、家臣の渡辺通が元就の身代わりに立って討ち死にするなどの苦難があったが、なんとか安芸吉田へ帰還することができた。
 
 その後、尼子勢は備後に南下を繰り返し、元就は大内氏の意を受けて備後へ出陣した。また、大内氏の意向で三男隆景を竹原小早川家に養子に入れた。その数年後、隆景は本家にあたる沼田小早川家も継いだ。1546年に元就は隠居して長男隆元に家督を譲った。この頃、元就の妻の実家吉川氏の家中が二分し、当主興経を幽閉する形で隠居させて、元就の二男元春を養子に入れることになった。また、驕慢で主命に従わず横暴な家臣井上元兼らを誅殺して家中の引き締めを断行した。
 1551年に大内義隆は家臣陶隆房によって討たれ、義隆の姉の子大友晴英を新たな大内氏の当主とし、隆房は晴賢と改名した。また、晴英は義長と改名した。元就は備後を平定したが、備後の旗返城の守備をめぐって陶晴賢との溝ができた。その後、毛利氏は陶氏の態度に疑念を持つようになり、1555年に厳島の戦いで陶氏を撃破し、ついで大内義長を滅ぼして防長両国を制圧した。
 
 毛利氏は芸備防長の四ヶ国のほか石見・備中の大半を制圧するまでに拡大し、山陰の尼子氏、豊後の大友氏と対抗することになった。1563年尼子攻めの出陣の途中で隆元が急死し、その子 輝元が家督相続して、祖父元就が後見をつとめた。その後、白鹿城など尼子方の城を落としていき、尼子方は富田城に籠城した。1566年に富田城は開城し、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟は助命されて毛利氏の元で幽閉された。
 毛利氏は大友氏と北九州で対峙する一方で、出雲国に侵入した尼子再興を企てる山中鹿之助らとも戦うこととなった。毛利勢は九州から撤退し、出雲へ進軍して尼子再興軍を鎮定した。
 
 元就の死後、毛利氏最大の敵対勢力となる織田信長が十五代将軍足利義昭が追放した。毛利氏は義昭を領国内に迎え入れ、大坂の石山本願寺を援け、織田氏と争うことになった。鳥取城が羽柴秀吉に包囲されて陥落し、備中高松城も同じく秀吉によって水攻めされて落城寸前まで追い込まれ、毛利氏は秀吉と交渉して講和した。
 本能寺の変後、秀吉方と領国の境界が境目が決まり、中国地方九ヶ国を領した。その後、輝元は豊臣政権の五大老のひとりとなった。関ヶ原の戦いで西軍の総大将になり、敗戦後は周防・長門の2か国に減封された。
 
十二代 毛利 元就(もとなり)【1497~1571】
 毛利弘元の二男、母は福原広俊の娘。享年75。妻は吉川国経の娘 妙玖。
 
十三代 毛利 隆元(たかもと)【1523~1563】
 毛利元就の長男、母は吉川国経の娘。享年41。妻は大内義隆の養女(内藤興盛の娘)。
 
十四代 毛利 輝元(てるもと)【1553~1625】
 毛利隆元の長男、母は大内義隆の養女。享年73。妻は宍戸隆家の娘。
 
 
参考文献:
 近世防長諸家系図綜覧(防長新聞社 山口支社編)
 読み直す日本史 安芸毛利一族(河合正治著/吉川弘文館
 稿本もりのしげり(時山弥八 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 日本人名大辞典(講談社
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。