探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

出雲守護と尼子一族

こんにちは、勘矢です。
今回は出雲守護と尼子一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 出雲守護

(1)佐々木氏

 鎌倉時代出雲国の守護となったのは佐々木義清の子孫だった。政義は隠岐・出雲守護となったが、三浦泰村との席次のことで争って出家し、弟泰清に所領を譲った。泰清は隠岐・出雲守護となり、その後、隠岐守護は時清・清高がなり、出雲守護は、頼泰・貞清・塩冶高貞がなった。
 隠岐守護の佐々木清高は、後醍醐天皇隠岐に配流された際に御所を設営した。後醍醐天皇隠岐を脱出すると伯耆国船上山で名和長年と戦うも敗れ、その後、近江国番場で六波羅探題 北条仲時らと自害した。
 一方、出雲守護の塩冶高貞後醍醐天皇の呼びかけに応じて馳せ参じた。その後、足利尊氏建武政権に反旗を翻すと、新田義貞に従って箱根竹ノ下で戦って敗れて尊氏に降った。出雲・隠岐守護となったが、室町幕府からおわれて自害した。
 

佐々木(塩冶)氏略系図
 
佐々木 政義(ささき・まさよし)【1208~1290】
 佐々木義清の長男。隠岐・出雲守護。享年83。
 
佐々木 泰清(ささき・やすきよ)【?~1287】
 佐々木義清の二男。隠岐・出雲守護。
 
佐々木 時清
 佐々木泰清の子。隠岐守護。
 
佐々木 清高(ささき・きよたか)【1295~1333】
 佐々木時清の孫。隠岐守護。享年39。
 
 
佐々木 頼泰(ささき・よりやす)【?~?】
 佐々木泰清の子。塩谷氏の祖。出雲守護。
 
佐々木 貞清(ささき・さだきよ)【?~1326】
 佐々木頼泰の子。出雲守護。
 
塩冶 高貞(えんや・たかさだ)【?~1341】
 佐々木貞清の子。出雲・隠岐守護。
 
 

(2)京極氏と山名氏

 塩冶高貞亡き後、出雲守護には佐々木氏嫡流につらなる佐々木道誉が任じられ、佐々木義清の弟の子孫と思われる吉田厳覚を守護代とした。1352年に所領問題から道誉と山名時氏の仲が悪化すると、時氏は厳覚を追放して南朝に降った。その後、出雲守護は南朝方の山名時氏北朝方の佐々木道誉と両立したが、山名氏の勢力は強かった。
 のちに時氏は北朝に帰順し、管領細川頼之が失脚した康暦の政変後に山名一族の義幸・満幸が出雲守護を獲得した。この頃の山名一族は十一ヶ国の守護職を持っていたため、三代将軍 足利義満からにらまれて満幸は出雲守護を追放され、明徳の乱に発展した。その論功行賞で道誉の孫の京極高詮が出雲守護を獲得して以降、高光・持光(持高)・高数・持清・孫童子丸・政経と続いた。
 
 

2. 出雲尼子氏

(1)尼子氏の始まり

 近江国犬上郡甲良庄は足利尊氏から佐々木道誉に恩賞として与えられた所で、道誉の孫高久はその地に住んで「尼子」を名乗った。二男持久は出雲守護代となり、清定・経久と世襲した。
 清定は応仁の乱で東軍に属して畿内を転戦する京極持清に代わり、伯耆の山名氏侵攻を阻止し、出雲国内の反京極勢力の中心であった松田氏や三沢氏の勢力を駆逐した。
 

京極氏と尼子氏の関係図
 

(2)十一ヶ国の太守

 経久が家督相続した頃、出雲守護京極政経は在国するようになった。政経は1484年に寺社領などを横領し室町幕府の徴税に従わなかった経久から守護代の地位をはく奪して追放し、塩冶掃部介を守護代にした。1486年に経久は月山富田城を奪還し、ここを拠点に勢力を広げていった。京極政経の権威は地に落ちていき、1508年に孫の吉童子丸へ惣領職のことや出雲・隠岐・飛騨の守護ことなどをしたためた譲状を経久に託して没した。
 京極政経が没した年は、周防の大内義興足利義稙を奉じて上洛し、義稙が将軍に復帰した年である。経久がこの上洛に加わったかどうかは不詳であるが、「陰徳太平記」によれば1511年の船岡山の戦いに参戦したという。
 その後、経久は出雲から東・南・西へと進軍して勢力を拡大していき、その戦いの最中で嫡子政久を失った。1521年頃より安芸国において大内氏と戦いが続き、はじめは毛利氏など多くの国人が尼子方についた。のち毛利氏は大内方に属し、安芸や備後で戦いが続いた。
 1532年に三男塩冶興久が謀反を興したが、興久は敗れて舅の備後山内氏を頼ったが、のちに自害した。また、分国隠岐で騒動も起きた。
 尼子氏の勢力は大永年間頃(1520年代)が絶頂期で、出雲・隠岐・石見・伯耆・美作・備前・備中・備後・安芸・播磨と十一ヶ国におよんだ。その経久は1537年に80歳で第一線を引いた。
 
尼子 経久(あまご・つねひさ)【1458~1541】
 尼子清定の子、母は馬木上野介の娘。出雲尼子家三代。
 妻は吉川経基の娘。経久妻の姪(経基の子 国経の娘)は毛利元就の妻妙玖。
 
尼子 政久(あまご・まさひさ)
 尼子経久の長男、母は吉川経基の娘。没年は1518年或いは1513年。享年26。
 
塩冶 興久(えんや・おきひさ)【1497~1534】
 尼子経久の三男。享年38。
 

尼子氏略系図
 

(3)毛利氏との戦い

 経久の後を継いだ詮久は、1540年に毛利元就の居城安芸郡山城を攻めるが、なかなか攻め落とすことができなかった。大内氏は家臣の陶隆房を毛利氏の援軍に送り、翌年1月に毛利氏は尼子軍を強襲、さらに陶軍が尼子本営を急襲して詮久の大叔父久幸(経久の弟)が討ち死にし、詮久は出雲に退却した。同年、詮久は将軍足利義晴から一字を賜り「晴久」と改名した。
 1542年、周防の大内義隆が出雲遠征を行い富田城を包囲されるがこれを撃退した。1552年、晴久は出雲・隠岐に加え、因幡伯耆備前・美作・備後・備中の六ヶ国の守護職に補任された。1554年、かねてから晴久と対立していた叔父国久は新宮党内部の分裂などで孤立し、また毛利氏との内通を疑われ新宮党は粛清された。これ以降尼子氏は次第に衰退していった。
 晴久が没するとその子義久が継ぐが、毛利氏の勢いを止めることは難しく石見を失った。1563年、出雲白鹿城が落城し、富田城は毛利軍に包囲され籠城が続いた。1566年に富田城は開城し、義久・倫久・秀久兄弟は助命されて毛利氏の元で幽閉された。
 関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長に移されると、長門国阿武郡奈古・紫福邑で千二百九十二石余を給された。義久に嗣子がなく、甥元知(倫久の子)を養子にし、元知は久佐を称した。元知は宍道就兼の子就易(母は倫久の娘)を養子にし、佐々木を称して長州藩士として続いた。
 
尼子 晴久(あまご・はるひさ)【1514~?】
 尼子政久の子、母は山名兵庫頭の娘。没年は諸説あり、1560~63年の間とされる。
 出雲尼子家四代。妻は新宮党 尼子国久の娘。
 
尼子 義久(あまご・よしひさ)【1540~1610】
 尼子晴久の子。出雲尼子家五代。享年71。
 
尼子 久幸(あまご・ひさゆき)【?~1541】
 尼子清定の子。経久の弟。
 
 
尼子 国久(あまご・くにひさ)【1492~1554】
 尼子経久の子、母は吉川経基の娘。新宮党。享年63。
 
尼子 誠久(あまご・まさひさ)【?~1554】
 尼子国久の子。
 
尼子 豊久(あまご・とよひさ)【?~1546】
 尼子国久の子。伯耆真野山にて討死。
 
 

(4)尼子家再興の戦い

 尼子の遺臣山中幸盛や立原久綱らは、京都東福寺の僧になっていた新宮党尼子国久の孫を還俗させて尼子勝久と名乗らせ、1569年に出雲奪還の兵を挙げた。翌年、毛利輝元を総大将とする毛利軍が出雲に出兵し、尼子軍は敗北した。出雲での尼子再興の戦いは約2年で終わった。
 その後、因幡から出雲奪還を企図したがまたも毛利軍の進出により失敗に終わった。1577年、織田信長の家臣羽柴秀吉が毛利攻めの大将となり、上月城を落とすと尼子の遺臣らをこの城に入れた。毛利家は三万の大軍でこの城を囲み、秀吉は尼子主従を救おうとしたものの主君信長の戦略的見地から上月城は見捨てられ、勝久の自刃と引き換えに上月城は開城した。このとき幸盛は助かったが、護送中に毛利方に討たれた。
 
尼子 勝久(あまご・かつひさ)【1553~1578】
 尼子誠久の子。国久の孫。享年26。
 
山中 幸盛(やまなか・ゆきもり)【1545~1578】
 山中満幸の子。妻は亀井秀綱の長女。享年34。
 
参考文献:
 読み直す日本史 出雲尼子一族(米原正義 著 / 吉川弘文館
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 戦国大名家臣団大全(Standards)
 日本名字家系事典(東京堂出版
 日本人名大辞典(講談社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学芸出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。