探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

萩藩毛利家と分家徳山藩

こんにちは、勘矢です。
今回は萩藩毛利家と分家徳山藩について調べたことをまとめました。
 
 

1. 萩藩毛利家

(1)防長移封と藩政確立

 関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は、役後、周防長門三十六万九千石に減封された。また、隠居して家督を6歳の秀就に譲り、輝元は後見役として藩政を執り、長門国阿武郡萩(山口県萩市)の指月山に築城して移った。また、このとき輝元の養子となっていた従弟 秀元には三万六千石余を分与して長府藩を立藩させた。
 1601年に徳川家康の要求により証人として秀就は江戸へ下向し、のちに家康の孫娘喜佐姫(結城秀康の娘)と婚姻して松平姓を下賜された。一方輝元は検地や家臣団の再編などを行った。秀就は1611年に帰藩し、大坂の両陣に徳川方として従軍した。1625年に輝元が没すると秀就は実質的な藩主となり、翌年には大御所秀忠と将軍家光父子の上洛に供奉した。
 三代吉就は、藩財政の改革の為に貞享検地を行った。吉就は嗣子がなく、弟で右田毛利家に養子になっていた吉広が末期養子となって萩藩を相続した。三田尻海浜干拓を行って塩田を造成したり、城下町の整備や治水を行った。
 
 
初代 毛利 秀就(ひでなり)【1595~1651】
 毛利輝元の長男、母は側室 児玉元良の娘。享年57。
 在職期間:1600年(6)~1651年(57)
 正室徳川秀忠の養女(結城秀康の娘)喜佐姫。
 
二代 毛利 綱広(つなひろ)【1639~1689】
 毛利秀就の四男、母は結城秀康の娘喜佐姫。享年51。
 在職期間:1651年(13)~1682年(44)隠居。
 正室は越前福井藩松平忠昌の娘 千姫、継室は梨木永祐の娘 房姫。
 
三代 毛利 吉就(よしなり)【1668~1694】
 毛利綱広の長男、母は松平忠昌の娘 千姫。享年27。
 在職期間:1682年(15)~1694年(27)
 正室は若狭小浜藩主 酒井忠隆の娘 亀。
 
四代 毛利 吉広(よしひろ)【1673~1707】
 毛利綱広の二男、母は梨木永祐の娘。享年35。
 在職期間:1694年(22)~1707年(35)
 正室五摂家 鷹司兼熙の養女 小石姫。
 

萩藩毛利氏略系図
 
 

(2)長府藩からの養子

 四代吉広も嗣子がなく、長府藩より吉元が末期養子となって萩藩を相続した。以降幕末の敬親までは長府藩秀元の子孫が萩藩主となっていった。1715年に支藩徳山藩と万役山事件が起こり、同じく支藩清末藩主毛利元平が調停に入ったが不調に終わり、翌年に幕府の裁定により徳山藩は改易となり、所領は萩藩に返却となった。1719年に藩校明倫館を創設し、毛利氏の先祖の事跡などをまとめた「萩藩閥閲録」などを編集させた。
 六代宗広の代になった頃、未曾有の蝗害に襲われて農民は困窮し、さらに幕府より普請手伝いを命ぜられて藩財政は悪化をたどった。宗広も嗣子がなかったため、長府藩主匡敬を養子にして相続させた。匡敬は重就と改名した。はじめは「しげなり」と名乗ったが、十一代将軍に家斉が就任すると読みを「しげたか」と変えた。
 
 
五代 毛利 吉元(よしもと)【1677~1731】
 長門府中藩主毛利綱元の長男、母は池田光政の娘。享年55。
 在職期間:1707年(31)~1731年(55)
 正室備前岡山藩主 池田綱政の娘 品姫。
 
六代 毛利 宗広(むねひろ)【1717~1751】
 毛利吉元の六男、母は側室 森氏。享年35。
 在職期間:1731年(15)~1751年(35)
 正室は松平宗昌の娘 勝姫。
 
 

(3)撫育方創設

 重就は悪化する藩財政の対策のため、1761年に慶長検地以来の本格的な検地を実施し、四万石余の増徴となった。この増徴分は別途資金として撫育方の創設基金とした。撫育方は、有能な藩士を登用して新田・塩田開発などの増産対策などを建策した。この活動は一世紀以上にわたって続けられ、幕末に毛利家が国事に貢献するための費用にあてられた。重就は藩中興の名君と言われた。
 八代治親は父の後見を受けて撫育方資金を運用して「長州三白」といわれる紙・蠟・塩の産業振興に尽力した。九代斉房は異国船に備えての海岸線警備強化を行った。十代斉熙は財政家の村田清風らの人材を登用した。
 
 
七代 毛利 重就(しげなり/しげたか)【1725~1789】
 長門府中藩主毛利匡広の十男、母は側室 飯田氏。元長門府中藩主・匡敬。享年65。
 在職期間:1751年(27)~1782年(58)隠居
 正室筑後柳川藩主 立花貞俶の娘 登代姫。
 
八代 毛利 治親(はるちか)【1754~1791】
 毛利重就の四男、母は立花貞俶の娘。享年38。
 在職期間:1782年(29)~1791年(38)
 正室御三卿 田安宗武の娘 節姫。
 
九代 毛利 斉房(なりふさ)【1782~1809】
 毛利治親の長男、母は側室 小泉氏。享年28。
 在職期間:1791年(10)~1809年(28)
 正室有栖川宮織仁親王王の娘 栄宮幸子
 
十代 毛利 斉熙(なりひろ)【1783~1836】
 毛利治親の二男、母は側室 小泉氏。享年54。
 在職期間:1809年(27)~1824年(42)隠居
 正室因幡鳥取藩主 池田治道の娘 三津姫。
 
十一代 毛利 斉元(なりもと)【1794~1836】
 毛利治親の弟 毛利親著の長男。享年43。
 在職期間:1824年(31)~1836年(43)
 正室は毛利斉熙の娘 由美姫。
 
 

(4)山口へ本拠を移動

 十二代 斉広は在任わずか20日で急逝したため、喪を秘して敬親を養子として幕府に届け出て許可された。敬親は十二代将軍家慶の一字を賜って慶親と名乗り、村田清風を抜擢して藩政改革を行った。村田が辞職すると周布政之助が改革を継ぎ、軍制改革などを行った。1862年に藩論を尊王攘夷に統一し、翌年山口に本拠を移動した。同年5月、下関海峡を通過する外国船を砲撃して攘夷決行したが、翌月報復を受けて諸砲台を占領され、高杉晋作に新たな軍隊(奇兵隊)の創設を命じた。さらに8月八月十八日の政変により長州勢力は京都から追放され、尊攘派七公卿が長州に亡命した。
 1864年久坂玄瑞らが上洛して勢力を盛り返そうとするも禁門の変で敗れ、慶親は官位と松平の称号、慶の字を召し上げられ、名を敬親と改名した。また、世子定広も定の字を召し上げられ広封と改名し、明治維新後に元徳と改名した。そして、四国艦隊の来襲、追い打ちかけるように幕府は第一次征長を命じ、元尾張藩徳川慶勝を総督に大軍を派遣した。萩藩では攘夷派が凋落して俗論党が政権を握り、三家老の切腹させて恭順の態度を示した。その後、高杉率いる奇兵隊が俗論党の打倒を掲げて兵を挙げると、翌年に尊攘派が主導権を握った。
 1866年に坂本龍馬の斡旋により薩長同盟が結ばれ、6月に第二次征長が行われるも軍備を強化した萩藩は幕府軍を圧倒して敗走させた。1867年、敬親は王政復古の直前に赦されて旧官位を回復した。翌年の鳥羽伏見の戦いには薩摩藩と共同して旧幕府軍を破った。1869年に敬親は隠居して元徳家督相続し、版籍奉還して元徳は山口藩知事に任ぜられた。1871年廃藩置県を迎えた。
 
 
十二代 毛利 斉広(なりとお)【1814~1836】
 毛利斉熙の二男、母は側室 池上氏。享年23。
 在職期間:1836年(23)~1837年(24)
 正室は十一代将軍 徳川家斉の娘 和姫。
 
十三代 毛利 敬親(たかちか)【1819~1871】
 毛利斉元の長男、母は側室 原田東八の娘 歌岡。初名慶親。享年53。
 在職期間:1837年(19)~1869年(51)隠居
 正室は毛利斉広の娘 都美姫。
 
十四代 毛利 元徳(もとのり)【1839~1896】
 周防徳山藩毛利広鎮の十男、母は側室 三宅博賞の娘。初名広封(ひろあつ)、定広。享年58。
 在職期間:1869年(31)~1871年(33)※1869年より藩知事
 正室毛利敬親の養女(長門長府藩主 毛利元運の娘) 銀姫(安子)。
 

萩城跡
 
 

2. 徳山藩毛利家

(1)周防下松から徳山へ

 毛利輝元の二男就隆は、1617年に周防・長門両国内で三万石を分与された。1625年の寛永検地によって四万石余となり、1631年に下松に陣屋を構えた。1634年に四万五千石で正式に諸侯に列した。1650年に居所を徳山に移した。宗家萩藩とは幕府の手伝普請の協力を拒否したことから不和が起き、正室毛利秀元の娘と離縁したことから長府藩との関係もよくなかった。
 二代元賢は五男であるが長兄から三兄までが早世、四兄は側室の子であったため家督相続した。しかし、嗣子なく没したため、四兄元次が徳山藩を相続した。このとき元次は元賢の庶弟として幕府に届けられた。元次は藩政の確立につとめていたが、1715年に萩藩との境界にあった松の木1本の伐採を巡って萩藩と対立した万役山事件が起き、幕府の裁定により徳山藩は改易となり、元次は出羽新庄藩戸沢家に預けられた。
 
 
初代 毛利 就隆(なりたか)【1602~1679】
 毛利輝元の二男、母は児玉元良の娘。享年78。
 在職期間:1634年(33)~1679年(78)
 正室長門長府藩毛利秀元の娘(離縁)、継室は中川重政の娘。
 
二代 毛利 元賢(もとかた)【1670~1690】
 毛利就隆の五男、母は中川重政の娘。享年21。
 在職期間:1679年(10)~1690年(21)
 正室は若狭小浜藩主 酒井忠直の娘(離婚)。
 
三代 毛利 元次(もとつぐ)【1667~1719】
 毛利就隆の四男、母は側室 性霊院。享年53。
 在職期間:1690年(24)~1716年(50)
 正室は美作宮川藩主 関長政の養女(美作津山藩主 森長継の娘)、継室は常陸府中藩主 松平頼隆の娘(離縁)。
 

徳山藩毛利氏略系図
 
 

(2)藩再興運動

 徳山藩の旧臣が再興運動を起こした結果、改易から3年後の1719年に元次は隠居し、子の元堯が家督相続することで旧領の内三万石を与えられて再興を許された。元堯は藩政の復旧を図ったが間もなく没したため、弟の広豊が家督相続した。しかし当初は広豊が幼少のため、長府藩主毛利匡広が藩政を補佐し、1723年に「家中諸法度二十一カ条」を公布した。以後、藩財政の建て直しにつとめた。
 
 
四代 毛利 元堯(もとたか)【1702~1721】
 毛利元次の二男、母は側室 蓮性院。享年20。
 周防徳山藩1719年(18)~1721年(20)
 
五代 毛利 広豊(ひろとよ)【1709~1773】
 毛利元次の三男、母は側室 良寿院。享年65。
 在職期間:1721年(13)~1758年(50)隠居
 正室は摂津尼崎藩主 松平(桜井)忠喬の娘。
 
六代 毛利 広寛(ひろとも)【1733~1764】
 毛利広豊の二男、母は側室 清光院。享年32。
 在職期間:1758年(26)~1764年(32)
 正室は安芸広島新田藩主 浅野長賢の娘。
 
 

(3)城主格・四万石

 七代就馴は学問所鳴鳳館を創設した。八代広鎮は父就馴の隠居にともなって家督相続し、藩財政は逼迫していたが、御救恵料を設けて民政に留意した。また、医学館を創設するなどした。1836年に幕府から許可を得て城主格となり、石高は四万石となった。
 九代元蕃は兄が早世や他家に養子入りしたため、七男であるが家督相続した。兄の一人は宗家萩藩の家老福原越後元僩で、幕府による第一次長州征討の際に責任を取って自刃した。弟の志朝は元蕃と同母で、母の実家譜代大名の秋元家を継いだ。末弟には宗家萩藩を相続した元徳がいる。
 元蕃は宗家萩藩主 毛利敬親に協力して行動し、禁門の変によって謹慎蟄居となった。幕府による第二次長州征討では芸州口に出兵し、さらに小倉口にも出兵した。1867年に謹慎を解かれると上洛し、鳥羽伏見の戦いに戦功をたてた。その後奥羽方面に出兵し、翌年に賞典禄八千石を賜った。また、版籍奉還して徳山藩知事となり、1871年廃藩置県を迎える前に徳山藩を宗家萩藩へ返還して廃藩となった。
 
 
七代 毛利 就馴(なりよし)【1750~1828】
 毛利広豊の十一男。享年79。
 在職期間:1764年(15)~1797年(48)隠居
 正室は備中新見藩主 関政富の娘。
 
八代 毛利 広鎮(ひろしげ)【1777~1865】
 毛利就馴の二男、母は関政富の娘。享年89。
 在職期間:1797年(21)~1837年(61)隠居
 正室伊予吉田藩主 伊達村賢の娘、継室は出羽山形藩主 秋元永朝の娘。
 
九代 毛利 元蕃(もとみつ)【1816~1884】
 毛利広鎮の七男、母は秋元永朝の娘。享年69。
 在職期間:1837年(22)~1871年(56)※1869年より藩知事
 正室長門萩藩主 毛利斉熙の娘。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 稿本もりのしげり(時山弥八 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 幕末維新史年表(大石学 編/東京堂出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。