探検!日本の歴史

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肥後熊本藩 細川家

 
こんにちは、勘矢です。
今回は細川藤孝(幽斎)の子孫、肥後熊本藩 細川家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 熊本藩細川家とは

 三淵晴員の二男として生まれた藤孝は、十二代将軍 足利義晴の命により伯父 細川元常(上和泉守護家)の養子となりました。十三代将軍足利義輝が暗殺されるとその弟 覚慶(のち十五代将軍 足利義昭)を救出して近江や越前に逗留しました。その後、織田信長足利義昭を奉じて上洛するとこれに従いました。
 義昭が信長と不和になって京都を追放されると織田信長に仕えて、山城国長岡に三千石を与えられ、一時この地に因んで長岡を称しました。その後、嫡子忠興が丹後国内において十二万石余を与えられたので丹後国へ移り、宮津城を築城しました。本能寺の変後、縁戚の明智光秀の誘いを拒絶し、剃髪して幽斎玄旨と号し、家督を忠興に譲って田辺城に移りました。
 忠興は豊臣秀吉に仕えて小牧長久手の戦い、四国征伐名に従軍しました。その後、三男忠利を徳川家康に人質として差出し、関ヶ原の戦いのでは東軍に付いて奮戦し、戦後に豊前中津三十九万五千石を与えられました。その後、豊前小倉を経て肥後熊本五十四万石となりました。
 
藤孝以前の細川家に関してはこちらをご覧ください。
 

2. 肥後熊本藩主一覧

藩祖 細川 藤孝(ふじたか)【1534~1610】
 三淵晴員の二男、母は清原宣賢の娘。
 足利義昭の将軍擁立に力を尽くし、義昭が追放されると織田信長豊臣秀吉を経て、徳川家康に仕えました。
 歌道の三条西実枝から古今伝授を受けました。1600年(67)の関ヶ原の戦いの際には、徳川方に属して田辺城に籠城し、西軍一万五千余に包囲されました。このとき、幽斎の古今伝授の秘事が絶えることを憂慮して、後陽成天皇の勅命により開城して高野山に登りました。享年77。
 正室は沼田光兼の娘 マリア。
 
初代 細川 忠興(ただおき)【1563~1645】
 細川藤孝の長男、母は沼田光兼の娘 マリア。
 織田信長の嫡男信忠の一字を与えられて忠興と名乗り、明智光秀の娘 玉(ガラシャ)を正室に迎えました。その後、丹波・丹後方面を転戦して功を上げて、丹後国内に十二万石余を与えられました。本能寺の変後、岳父明智光秀からの誘いに応じず、妻 玉(ガラシャ)を離縁して、丹後国味土野に幽閉して羽柴秀吉に従いました。その後、秀吉に赦されて玉(ガラシャ)と復縁しました。
 1600年(38)の関ヶ原の戦い後に豊前中津三十九万五千石を与えられました。その後、居城を小倉に移して、中津は忠利に与えました。江戸城などの普請を命ぜられ、大坂の両陣にも参陣しました。
 1620年(58)に隠居して三斎宗立と号しました。忠利が肥後熊本を与えられると、八代城を隠居地としました。享年83。
 正室明智光秀の娘 玉(ガラシャ)。
 
 
二代 細川 忠利(ただとし)【1586~1641】
 1600年(15)に徳川家に人質として送られ、徳川秀忠に仕えて一字を与えられて忠利と名乗りました。会津上杉景勝征伐に秀忠に従って出陣し、その後、実兄忠隆、興秋を差し置いて世子となりました。大坂の陣に秀忠に従いました。
 1620年に35歳で豊前小倉藩を相続しました。1632年(47)肥後熊本に移りました。
 1637年(52)に天草・島原の乱が起こると、嫡男光尚、弟立孝と共に出陣し、翌年に原城を陥落させ、天草四郎を討ち取りました。
 1640年(55)に熊本に来た宮本武蔵と親交を結びました。享年56。
 正室は二代将軍 徳川秀忠の養女(信濃松本藩主 小笠原秀政の娘)千代姫。
 

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熊本城
 
三代 細川 光尚(みつなお)【1619~1649】
 細川忠利の長男、母は徳川秀忠の養女 千代姫。
 1637年(19)の島原の乱に出陣しました。
 1641に23歳で肥後熊本藩を相続しました。1643年(25)に阿部弥一右衛門の遺族による反乱が起きて、阿部一族を誅伐しました。
 1646(28)に祖父忠興の遺言により従弟行孝に三万石を分与して宇土藩を立藩させました。享年31。
 正室は公家 烏丸光賢の娘 ねね。
 
四代 細川 綱利(つなとし)【1643~1714】
 細川光尚の長男。
 1650年にわずか8歳で肥後熊本藩を相続しました。幼少により親戚の豊前小倉藩小笠原忠真が後見役をつとめました。
 1666年(24)に弟利重に蔵米三万五千石を分与し、熊本新田藩を立藩させました。1697年(55)に新田藩主 細川利昌の願いにより利昌の弟 利武に五千石を分与しました。
 1702年(60)に赤穂浅野家の遺臣 大石内蔵助らがお預けとなり、翌年白金藩邸において切腹しました。
 回遊式庭園水前寺成趣園を造営しました。1712年に70歳で隠居しました。享年72。
 正室は讃岐高松藩松平頼重の養女(常陸水戸藩徳川頼房の娘)久。
 
 
細川 吉利(よしとし)【1689~1706】
 細川綱利の二男、母は仁田氏。父に先立ちました。享年18。
 
五代 細川 宣紀(のぶのり)【1676~1732】
 肥後熊本新田藩主 細川利重の二男、母は側室 築山氏。初名利武。
 1697年(22)に伯父 細川綱利より五千石を分け与えられて寄合となりました。
 1708年(33)に綱利の嫡男吉利が早世したため養嗣子となりました。五千石は綱利に返されました。
 1712年に37歳で肥後熊本藩を相続しました。享年57。
 
六代 細川 宗孝(むねたか)【1716~1747】
 細川宣紀の四男、母は側室 鳥井氏。
 1732年に17歳で肥後熊本藩を相続しました。1747年(32)に江戸城内にて旗本板倉勝該に人違いで斬りつけられて亡くなりました。享年32。
 
七代 細川 重賢(しげかた)【1720~1785】
 細川宣紀の五男、母は側室 岩瀬氏。
 1747年(28)に兄宗孝が不慮の死を遂げたので、急養子となって肥後熊本藩を相続しました。
 襲封時には藩財政が窮乏していたので、藩政の改革に着手しました。また、藩校時習館を創設し、医師養成のための再春館、薬園蕃滋園を設置しました。20年あまりをかけた藩政の建て直しは成功し、宝暦の改革と呼ばれました。中興の名君といわれ、紀州藩主の徳川治貞米沢藩主の上杉鷹山と並び称されました。享年66。
 正室は公家 久我通兄の娘 由婦。
 
八代 細川 治年(はるとし)【1758~1787】
 細川重賢の長男、母は側室 杉田氏。
 1785年に28歳で肥後熊本藩を相続しました。享年30。
 正室は肥後宇土藩主 細川興文の娘 埴。
 
九代 細川 斉玆(なりたつ)【1755~1835】
 肥後宇土藩主 細川興文の子、母は側室 薗氏。
 初名は立札(たつひろ)で、はじめ肥後宇土藩主をつとめました。
 1787年(33)に熊本藩主 細川治年が病となり、実子が幼少のため立礼が養嗣子に迎えられ、同年に肥後熊本藩を相続しました。十一代将軍徳川家斉の一字を賜り、斉玆と改めました。1810年に56歳で隠居しました。享年81。
 正室は出羽亀田藩主 岩城隆恭の娘 八千。
 
十代 細川 斉樹(なりしげ)【1788~1826】
 細川斉玆の子、母は側室 芳沢氏。初名玆樹。
 1810年に23歳で肥後熊本藩を相続しました。享年39。
 正室御三卿 一橋治済の娘 紀。
 
十一代 細川 斉護(なりもり)【1804~1860】
 肥後宇土藩主 細川立之の長男、母は土井利厚の娘。
 初名は立政(たつまさ)ではじめ肥後宇土藩主をつとめました。
 1826年(23)に熊本藩主 細川斉樹に世継ぎがないために養嗣子となり、肥後熊本藩を相続しました。十一代将軍徳川家斉の一字を賜り、斉護と改めました。藩財政は極度に困窮していましたが、1847年(44)に異国船渡来のために天草警備、1853年(50)のペリー来航後に相模国沿岸警備を命ぜられました。享年57。
 正室は安芸広島藩主 浅野斉賢の娘 益。
 
十二代 細川 韶邦(よしくに)【1835~1876】
 細川斉護の二男、母は側室 比企伴作娘 美衛。
 1848年に兄 慶前(よしちか)が早世したため嫡子となり、十二代将軍 徳川家慶の一字を賜り、慶順(よしゆき)と名乗りました。
 1860年に26歳で肥後熊本藩を相続しました。1862年(28)に朝廷より公武周旋の内勅が下り、弟 護美を名代として上洛させました。第一次長州征伐では積極的に参戦しました。1866年(32)に長州側が小倉城を攻撃したとき、熊本藩はこれを援けて戦いましたが敗れました。翌年、在京の護美の提案を受けて洋兵制を採用し、軍制改革を断行しました。また、慶順から韶邦に改名しました。
 1869年(35)に版籍奉還し、熊本藩知事に任ぜられましたが、翌年に隠居しました。享年42。
 正室は公家 一条忠香の養女(公家 三条実万の娘)峯。
 
十三代 細川 護久(もりひさ)【1839~1893】
 細川斉護の三男、母は側室 加藤敬久の養女 田鶴。
 1867年(29)に兄 韶邦の名代として上洛して朝廷との関係を持ちました。翌年に朝廷に召されて議定職・刑法事務総督に任ぜられ、1869年(31)に弟 護美と共に新政府の参与職となりました。
 1870年(32)に家督相続して熊本藩知事となりました。弟 護美とともに藩政改革を推進しました。1871年(33)に廃藩置県を迎えました。享年55。
 正室肥前佐賀藩主 鍋島斉正の娘 宏子。
 
細川 護美(もりよし)【1842~1906】
 細川斉護の六男。はじめ喜連川熙氏の養子となり、後に離縁して実家に戻りました。1862年(21)に藩主の名代として上洛しました。1868年(27)に京都で参与となり、熊本藩に対して洋兵制、軍制改革を強調しました。1870年(29)に熊本藩大参事となりました。享年65。
 
 喜連川家についてはこちらをご覧ください。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 永青文庫 細川家の歴史と名宝(熊本県立美術館)
 寛政重修諸家譜(國民圖書  / 国立国会図書館デジタルコレクション
 続徳川実紀 第1篇、第2篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川実紀 第6編(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。