こんにちは、勘矢です。
今回は上野吉井藩 鷹司松平家について調べたことをまとめました。
1. 鷹司松平氏
紀州藩から養子に入った信有以降、信平系と紀州系が交互に藩主となりました。幕末の信発は美作津山藩の松平家(越前松平家の嫡流)からの養子で、徳川斉昭・島津斉彬・山内豊信らと親交がありました。最後の藩主信謹は上杉家からの養子で、吉井に改姓しました。
家祖の松平信平は、時代小説「公家武者 信平」シリーズの主人公となっています。
2. 鷹司松平家当主
旗本初代 松平 信平(のぶひら)【1636~1689】
関白鷹司信房の四男。
1650年(15)に江戸に下って三代将軍徳川家光にお目にかかり、その後、蔵米千俵月俸二百口を賜りました。1653年(18)に紀州藩主徳川頼宣の娘と結婚しました。翌年、四代将軍徳川家綱より松平の称号を賜り、蔵米四千俵を加増され、月俸は収められました。1674年(39)に二千石を加えられ、蔵米を改めて、上野・上総国内で七千石を賜りました。享年54。
二代 松平 信正(のぶまさ)【1661~1691】
1689年(29)に家督相続しました。享年31。
三代/大名初代 松平 信清(のぶきよ)【1689~1724】
松平信正の子、母は森長継娘 大姫。
二代 松平 信友(のぶとも)【1712~1760】
松平信清の長男。
1724年に13歳で上野矢田藩を相続しました。1753年(42)に陣屋を吉井に移しました。享年49。
三代 松平 信有(のぶあり)【1731~1793】
信友の二男信明が病弱のため廃嫡となったため、信友の養嗣子となり、1760年に30歳で上野吉井藩を相続しました。1771年に41歳で隠居しました。享年63。
四代 松平 信明(のぶあきら)【1745~1775】
松平信友の二男。
病弱のため廃嫡となりましたが、1763年(19)に義兄信有の養子となり、1771年に27歳で上野吉井藩を相続しました。享年31。
五代 松平 信成(のぶしげ)【1767~1800】
松平信有の二男。
六代 松平 信充(のぶみつ)【1775~1803】
松平信明の二男。
義兄信成の養嗣子となり、1800年に26歳で上野吉井藩を相続しました。享年29。
信充に男子なく、信平の血筋は信充で絶えました。
婚約者は公家 鷹司政熙の娘。
七代 松平 信敬(のぶよし)【1798~1841】
松平信成の四男、母は池田重寛の娘。
義兄信充の養嗣子となり、1803年にわずか6歳で上野吉井藩を相続しました。藩財政が困窮して、近江商人松居久左衛門から借財し、1821年(24)に厳しい倹約令を発令しました。また、財政改革を松井に依頼しました。享年44。
八代 松平 信任(のぶただ)【1826~1847】
松平信成の子 松平房府(ふさもと)の長男。
叔父信敬の養嗣子となり、1841年に16歳で上野吉井藩を相続しました。享年22。
婚約者は松平信敬の娘 鋭姫。
九代 松平 信発(のぶおき)【1824~1890】
美作津山藩一門 松平維賢の子、母は側室 神村氏。
信任の養嗣子となり、1847年に24歳で上野吉井藩を相続しました。初名は信和(のぶかず)でしたが、皇女和宮が降嫁する際に信発と改名しました。
正室は松平信任の養女(松平信敬の娘)鐸姫。
十代 松平 信謹(のぶのり)【1853~1908】
信発の養嗣子となり、1865年に13歳で上野吉井藩を相続しました。1868年(17)に吉井に改姓し、新政府軍に従って三国峠の戦いなどに出兵しました。1869年(18)に版籍奉還して吉井藩知事となりましたが、同年末に辞任し、廃藩置県前に所領を返上しました。享年56。
3. 鷹司松平家の婚姻関係
九代 信発は、先代信任の婿養子となりました。信発の高祖父長孝の娘が三代 信有の正室となっています。
十代 信謹は出羽米沢藩主 上杉斉憲の五男で、その先祖綱憲は吉良家からの養子なので、信謹は吉良上野介の子孫となります。綱憲の妻は紀州藩主 徳川光貞の娘です。光貞の甥徳川宗直の子が 、三代 信有となります。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川一族大全(廣済堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。