探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

藤井松平家~上山藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は藤井松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 藤井松平家

 松平長忠の五男利長が三河国碧海郡藤井(愛知県安城市)に住んだことからはじまる。利長は1540年の尾張織田信秀による安城城攻めで松平長家の援兵として城を守った。1560年の桶狭間の戦いのとき、丸根砦で戦死した。
 利長の子信一は徳川家康に従って合戦に従事し、1568年の織田信長の上洛では徳川の援軍の首将として近江箕作城の戦いで軍功を挙げた。このとき信一の戦功を賞して信長が着用していた革の羽織を脱いで信一に与えたという。1590年の徳川家の関東移封で下総国相馬郡布川で五千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは常陸国の大名佐竹氏の牽制にあたり、その功によって常陸土浦三万五千石を与えられた。1602年に佐竹氏が出羽久保田へ転封となると水戸城を守衛し、義宣の弟で江戸崎城の蘆名盛重も撤退したため、こちらは養子の信吉に守らせ、その功により五千石を与えられた。
 
 信吉は桜井松平家からの養子で徳川家康の甥にあたり、1613年に伏見城番をつとめ、大坂の両陣に従軍した。1617年に加増されて上野高崎五万石となり、2年後に丹波篠山五万石となるも翌年没した。三代忠国は1649年に加増されて播磨明石七万石となった。忠国の弟忠秋は徳川家光の近習をつとめ、1632年に下野国内で知行地を与えられたが、1634年病により兄のもとに蟄居し絶家となった。
 四代信之は相続時に弟信重に五千石を分与し、六万五千石を領した。1679年に加増されて大和郡山八万石となり、1685年に老中に就任して下総古河九万石となった。五代忠之は相続時に弟信通に一万石(大和興留)を分与したので八万石を領した。1693年に乱心によって所領没収されて弟信通に預けられた。
 
初代 松平 信一(のぶかず)【1539~1624】
 松平利長の長男。享年86。
 土浦藩主 在職期間:1601年(63)~1604年(66)隠居
 正室は松平(深溝)好景の娘。
 
二代 松平 信吉(のぶよし)【1575~1620】
 松平(桜井)忠吉の長男、母は久松俊勝の娘多劫君。享年46。
 土浦藩主 在職期間:1604年(30)~1617年(43)
 高崎藩主 在職期間:1617年(43)~1619年(45)
 篠山藩主 在職期間:1619年(45)~1620年(46)
 正室は松平信一の娘。継室は公家 四辻秀継の娘。
 
三代 松平 忠国(ただくに)【1597~1659】
 松平信吉の長男、母は松平信一の娘。享年63。
 篠山藩主 在職期間:1621年(25)~1649年(53)
 明石藩主 在職期間:1649年(53)~1659年(63)
 正室は美濃大垣藩主 戸田氏鉄の娘。
 
松平 忠秋(ただあき)【1607~1652】
 松平信吉の三男、母は松平信一の娘。享年46。
 
松平 信久(のぶひさ)【1629~1652】
 松平忠国の長男、母は戸田氏鉄の娘。父に先立ち没した。享年24。
 正室は摂津尼崎藩主 青山幸成の娘。
 
四代 松平 信之(のぶゆき)【1631~1686】
 松平忠国の二男、母は戸田氏鉄の娘。享年56。
 明石藩主 在職期間:1659年(29)~1679年(49)
 郡山藩主 在職期間:1679年(49)~1685年(55)
 古河藩主 在職期間:1685年(55)~1686年(56)
 正室は但馬出石藩主 小出吉英の娘。
 
五代 松平 忠之(ただゆき)【1674~1695】
 松平信之の長男、母は小出吉英の娘。享年22。
 古河藩主 在職期間:1686年(13)~1693年(20)除封
 正室は出羽鶴岡藩酒井忠義の娘(離婚)。
 

藤井松平氏上山藩系)略系図
 

2. 出羽上山藩松平家

(1)上山藩主(前期)

 1686年古河藩主松平信之より一万石を分与されて大和興留藩を立藩した信通は、1693年に兄信之が改易されると由緒ある家柄ということから二万石を加増されて備中庭瀬三万石となった。1697年に出羽上山に転封となった。1702年以降大坂加番を4回つとめ、1722年に4回目の在任中に没した。
 二代長恒は公的には1732年に隠居したことになっているが、すでに1728年に13歳で没していて、17歳になるまでその死を秘して身代わりを立てたという。長恒の跡を継いだ三代信将のときには農民一揆が起きたり、洪水による被害が起きたりした。藩財政は窮乏していたが、1740年から1762年の間に5回大坂加番をつとめた。
 
 四代信亨は1764年から1780年の間に5回大坂加番をつとめた。また、和歌俳諧や書画などに親しみ、藩政を疎かにしたため、1780年に信亨を隠居させようとする策謀が企てられ、1790年に幕府からの内々の沙汰により隠居となった。その跡を継いだ信古も藩財政が困窮を極めるなか放漫奢侈の生活をし、改革派が信将の実家上田藩松平家を頼ろうとしたが、改革派は排斥された。1792年と1794年の2回大坂加番をつとめた。藩内が動揺する中信古は没し、その弟の信愛が相続したが、改革派と反対派の対立は続いた。そんな中、1798年から1805年の間に大坂加番を3回つとめた。
 
初代 松平 信通(のぶみち)【1676~1722】
 松平信之の二男、母は小出吉英の娘。享年47。
 興留藩主 在職期間:1686年(11)~1693年(18)
 庭瀬藩主 在職期間:1693年(18)~1697年(22)
 上山藩主 在職期間:1697年(22)~1722年(47)
 正室伊勢亀山藩主 板倉重常の娘(離婚)。
 
二代 松平 長恒(ながつね)【1716~1779】
 松平信通の二男、母は側室 熊谷氏。享年64。
 在職期間:1722年(7)~1732年(17)隠居
 
三代 松平 信将(のぶまさ)【1717~1761】
 一族松平忠隆の子、母は側室 鈴木氏。享年45。
 在職期間:1732年(16)~1761年(45)
 正室は美濃大垣藩主 戸田氏長の娘(離縁)。継室は美作津山藩主 松平(越前)宣富の娘。
 
四代 松平 信亨(のぶつら)【1746~1796】
 松平信将の長男、母は側室 毛利氏。享年51。
 在職期間:1761年(16)~1790年(45)隠居
 正室長門長府藩主 毛利匡敬の娘。
 
五代 松平 信古(のぶふる)【1770~1796】
 松平信亨の長男、母は側室 鳥居氏。享年27。
 在職期間:1790年(21)~1796年(27)
 正室肥前島原藩主 松平(深溝)忠恕の娘(離縁)。
 
六代 松平 信愛(のぶざね)【1779~1805】
 松平信亨の四男、母は。享年27。
 在職期間:1796年(18)~1805年(27)
 正室は豊後杵築藩主 松平親明の妹。
 

(2)上山藩主(後期)

 七代信行は三代信将の継室の実家津山藩松平家から婿養子として迎えられた。藩法の改正を示し、藩士への手当を増額したため、改革派と反対派の対立も次第に収まった。1806年から1830年の間に6回大坂加番をつとめた。その子信宝は1833年から1861年の間に6回大坂加番をつとめた。また、藩校明新館を設けた。
 九代信庸は最後の大坂加番をつとめ、1867年には江戸市中取締を命ぜられた。その後、奥羽越列藩同盟に加盟して越後や新庄方面に出兵するも敗れて降伏した。謹慎を命ぜられて官位を剥奪され、三千石を召し上げられ隠居した。その弟の信安はわずか5歳で藩主となり、1869年に版籍奉還して上山藩知事に任ぜられたが、兄信庸が後見補佐を命ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。
 
七代 松平 信行(のぶゆき)【1790~1873】
 美作津山藩主 松平(越前)康哉の四男、母は。享年84。
 在職期間:1805年(16)~1831年(42)隠居
 正室は松平信愛の養女(松平信亨の娘)。継室は丹波篠山藩主 青山忠講の娘。
 

藤井松平家と津山松平家の関係図
 
八代 松平 信宝(のぶたか)【1817~1872】
 松平信行の子、母は側室 三橋氏。享年56。
 在職期間:1831年(15)~1862年(46)隠居
 正室は出羽新庄藩主 戸沢正胤の娘。継室は丹後宮津藩主 松平宗発の娘。
 
九代 松平 信庸(のぶつね)【1844~1918】
 松平信宝の子、母は側室 土屋氏。享年75。
 在職期間:1862年(19)~1868年(25)隠居
 正室肥前唐津藩主 小笠原長国の娘 直子。
 
十代 松平 信安(のぶやす)【1864~1918】
 松平信宝の五男、母は。享年55。
 在職期間:1868年(5)~1871年(8)<1869年から上山藩知事>

上山城

3. 旗本:松平勘介家

 丹波篠山藩主松平忠国の三男信重は、1641年に召し出されて将軍世子徳川家綱に附属され御小姓となった。1658年に蔵米五百俵を与えられ、翌年に父の遺領のうち播磨国内で五千石を分け与えられたため、蔵米は返還した。1679年に兄信之の大和郡山転封に伴い、大和国内に知行地を移された。
 二代信周ははじめ同族で丹波亀山藩主松平忠昭の五男忠隆を養子にしたが、のち病のため実家に帰った。そのため、陸奥磐城平藩主内藤義孝の兄義英の二男信政を養子にした。
 

旗本藤井松平氏上山藩系)略系図
 
初代 松平 信重(のぶしげ)【1632~1714】
 松平忠国の三男、母は戸田氏鉄の娘。1683年に52歳で隠居。享年83。
 妻は伊勢亀山藩板倉家家臣 渡邊十右衛門の娘。
 
二代 松平 信周(のぶちか)【1659~1717】
 松平信重の長男、母は渡邊十右衛門の娘。
 1683年に25歳で家督相続。御書院番頭、大番頭。享年59。
 妻は交代寄合 菅沼定実の娘。
 
三代 松平 信政(のぶまさ)【1698~1723】
 陸奥磐城平藩の一族内藤義英の二男。
 1717年に20歳で家督相続。御小姓。享年26。
 
四代 松平 信成(のぶなり)【1718~1737】
 松平信政の長男。1723年にわずか6歳で家督相続。享年20。
 
五代 松平 信敏(のぶとし)【1727~1757】
 信濃上田藩主 松平忠愛の三男。
 1737年に11歳で家督相続。御小姓。享年31。
 妻は伊勢神戸藩主 本多忠統の娘。
 
六代 松平 信交(のぶより)【1742~1779】
 信濃上田藩主 松平忠愛の四男、母は植村氏。
 1757年に16歳で家督相続。火事場見廻。享年38。
 妻は旗本 朽木紀綱の娘(離縁)。
 
七代 松平 信志(のぶむね)【1743~1793】
 旗本 水野忠穀の二男。初名忠福。
 信交の婿養子となり、1779年に37歳で家督相続。御持弓頭。享年51。
 妻は松平信交の娘。
 
八代 松平 信寅(のぶとき)【1774~1823】
 下総古河藩主 本多忠良の五男 忠寛の子。
 1793年に20歳で家督相続。大坂御船手、西ノ丸新番頭、甲府勤番支配。
 妻は松平信志の養女(信交の娘)、片桐佑賢の娘、堀田正邦の娘。
 
九代 松平 信意 【?~1843】
 松平信寅の子。通称勘介。1823年に家督相続。火事場見廻。
 
十代 松平 信幹 【?~?】
 松平信意の子。通称次郎。1843に家督相続。
 妻は出羽上山藩主 松平信行の娘。
 
十一代 松平 信順 【?~?】
 三枝藤四郎の子。通称篤三郎。1860年家督相続。御使番。
 妻は出羽上山藩主 松平信行の娘、はじめ肥前五島藩主 五島盛成室でのち離縁。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 続徳川実紀 第2篇、第3篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版
 日本人名大辞典(講談社
 家康と松平一族(安城市歴史博物館)
 松平氏史料集(上田市立博物館)
 旧上山藩松平家略伝( 鈴木光蔵編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。