こんにちは、勘矢です。
1. 青木家とは
摂津麻田藩主の青木家は、戦国時代の美濃守護の土岐頼芸に仕えた青木重直が祖で、重直はその後、斎藤道三、豊臣秀吉に仕えました。1593年に秀吉から摂津国内に千四百石の知行を与えられ、後に三百六十石余を加増されました。
秀吉没後はその子秀頼に仕え、大坂冬の陣後に和議の使者として駿府へ下り、その帰途中に京都で徳川方に拘留されました。豊臣家が滅ぶと出家しましたが、末弟可直が徳川家に仕えていたことから再び召し出されて、摂津麻田藩一万二千石となりました。その後、二千石を末弟の可直に与えたので、麻田藩は一万石となり廃藩置県まで続きました。
一重の末弟 可直は、1610年に美濃国で三千石を賜って旗本となりました。その後、兄一重から二千石を分与されて五千石となりました。
2. 摂津麻田藩主一覧
初代 青木 一重(かずしげ)【1551~1628】
青木重直の長男。
1614年(64)の大坂冬の陣後の和議の使者として駿府へ下り、その帰途中に京都で徳川方に拘留され、京都所司代 板倉勝重の監視下に置かれました。大坂落城後に出家しましたが、大御所 徳川家康に召されて再出仕し、父重直の知行を合わせ、摂津・備中・伊予国内で合せて一万二千石で摂津麻田藩を立藩しました。
その後、二千石は弟の可直に分与したので一万石となりました。1619年に69歳で隠居しました。享年78
青木 正重(まさしげ)【1581~1664】
斎藤義龍の家臣 小寺則頼の子、母は青木重直の娘。
伯父一重の養子となりました。1614年以降に病により家督を継ぎませんでした。享年84。
二代 青木 重兼(しげかね)【1606~1682】
青木可直の長男、母は関右京亮の娘
伯父一重の養嗣子となり、1619年に14歳で摂津麻田藩を相続しました。1627年(22)に伊予国内の領地を摂津国内に移されました。京都の仁和寺造営奉行などをつとめました。1672年に67歳で隠居し、端山と号して隠元禅師に師事しました。享年77。
東京白金の桑原坂の途中にある瑞聖寺は黄檗宗寺院で、重兼が開基となっています。大雄宝殿は江戸中期以降に再建されたものといわれます。
青木 可一(よしかず)【1627~1644】
叔母が嫁いだ青木重兼の養子となりました。家督相続前に没しました。享年18。
三代 青木 重成(しげなり)【1625~1693】
1631年(7)に祖父 宣正が改易となると、外祖父の酒井忠勝の元で養われました。
正室は青木重兼の娘。
四代 青木 重矩(しげのり)【1665~1729】
青木重成の二男、母は青木重兼の娘。
1693年に29歳で摂津麻田藩を相続しました。1713年に49歳で隠居しました。享年65。
五代 青木 一典(かずつね)【1697~1736】
青木重矩の長男。
1713年に17歳で摂津麻田藩を相続しました。享年40。
正室は公家 冷泉為経の娘。
六代 青木 一都(かずくに)【1721~1749】
青木一典の長男、母は冷泉為経の娘。
1736年に16歳で摂津麻田藩を相続しました。享年29。
七代 青木 見典(ちかつね)【1723~1754】
青木一典の二男。
兄の養嗣子となり、1750年に28歳で摂津麻田藩を相続しました。享年32。
八代 青木 一新(かずよし)【1728~1781】
青木一典の三男。
兄の養嗣子となり、1754年に27歳で摂津麻田藩を相続しました。1770年に43歳で隠居しました。享年54。
青木 一在(かずずみ)【1749~1766】
青木一新の長男。父に先立ち没しました。享年18。
九代 青木 一貫(かずつら)【1733~1786】
1769年(37)に一新の婿養子となり、1770年に38歳で摂津麻田藩を相続しました。1778年(46)に大番頭となり、1784年(52)に辞職しました。享年54。
正室は青木一新の娘。
十代 青木 一貞(かずさだ)【1776~1831】
青木一貫の四男、母は青木一新の娘。
1786年に11歳で摂津麻田藩を相続しました。藩校直方堂を創設しました。1821年に46歳で隠居しました。享年56。
十一代 青木 重竜(しげたつ)【1800~1858】
青木一貞の長男。
1821年に22歳で摂津麻田藩を相続しました。1847年に48歳で隠居しました。隠居後に実子重義が生まれ、一興・一咸が相次いで没しため、重義が幼年で相続すると藩政を後見しました。享年59。
十二代 青木 一興(かずおき)【1822~1849】
青木一貞の六男。
兄の養嗣子となり、1847年に26歳で摂津麻田藩を相続しました。享年28。
十三代 青木 一咸(かずひろ)【1828~1856】
豊前中津藩主 奥平昌高の八男。
1849年に22歳で摂津麻田藩を相続しました。享年29。
十四代 青木 重義(しげよし)【1853~1884】
青木重竜の子、母は森忠賛の娘。
3. 旗本:青木九十郎家
初代 青木 可直(よしなお)【1561~1622】
青木重直の四男。
1610 年(50)に召されて駿府にて大御所徳川家康に近侍し、美濃国内で三千石を賜りました。大坂の両陣では、永井直勝に属しました。大坂の陣後に兄一重から摂津国内で二千石を分与され、合わせて五千石となりました。享年62。
妻は関右京亮の娘。
二代 青木 直澄(なおずみ)【1616~1700】
青木可直の二男、母は関右京亮の娘。
1622年にわずか7歳で相続し、寄合となりました。1667年に52歳で隠居しました。享年85。
妻は伊勢松坂藩主 古田重治の娘。
青木 直影(なおかげ)【1619~1679】
青木可直の三男、母は関右京亮の娘。
1633年(15)に召されて御小姓組に列し、廩米三百俵を賜りました。1637年(19)に一時閉門となりました。1641年(23)に再度御小姓組に列し、1644年(26)に兄直澄の養子となりました。廩米は収められました。1667年(49)に病により廃嫡されました。享年61。
妻は旗本 酒井忠正の娘。
三代 青木 直正(なおまさ)【1647~1677】
宗家 青木重成の長男。
1667年に21歳で相続しました。享年31。
四代 青木 直宥(なおひろ)【1676~1752】
青木直正の長男。
1677年にわずか2歳で相続しました。1709年(34)に定火消となりました。1719年(44)に小普請組の支配に移り、1732年(57)に御小姓組の番頭になりました。1736年(61)に西ノ丸御書院番の番頭に転じ、1740年(65)に徳川家治の側役となりましたが、1747年(72)に老年により辞職しました。享年77。
妻は武蔵久喜藩主 米津政武の娘、後妻は旗本 松平(久松)定由の娘。
青木 直里(なおさと)【1701~1723】
青木直宥の長男。父に先立ち没しました。享年23。
青木 直旧(なおもと)【1706~1742】
青木直宥の三男。父に先立ち没しました。享年37。
妻は旗本 山内豊清の娘。この山内家は土佐藩の分家。
五代 青木 直暘(なおあき)【1724~1752】
青木直宥の五男。
1752年に29歳で相続しました。享年29。
妻は武蔵久喜藩主米津政容の娘。
六代 青木 直美(なおよし)【1747~?】
青木直暘の長男、母は米津政容の娘。
1752年にわずか6歳で相続しました。
七代 青木 直諒(なおあき)【1773~?】
青木直美の長男、母は久留島光通の娘。
1807年に35歳で相続しました。寄合。1829年に57歳で隠居しました。
妻は旗本 横田以松の娘、後妻は旗本 南部信喜の娘。
八代 青木 熊治【?~1839】
青木直諒の子。1829年に相続しました。寄合。
九代 青木 直興【?~1841】
青木直諒の子。伝三郎。兄青木熊次の養子となり、1839年に相続しました。寄合。
十代 青木 直規
青木主馬の子、直諒の孫になる。孫太郎。叔父 青木直興の養子となり、1841 年に相続しました。
3. 青木一興と一咸の関係
一興と一咸の関係を調べてみると、仙台藩の伊達家を介した遠縁でした。一興の祖父一貫の母は仙台藩主 伊達吉村の娘で、吉村の子 宗村は八代将軍徳川吉宗の養女利根姫を正室に迎えました。その姪 保(一橋宗尹の娘)は薩摩藩主 島津重豪の正室となり、その子が奥平昌高です。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
探訪・江戸大名旗本の墓 河原芳嗣著(毎日新聞社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。