探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

摂津麻田藩 青木家とその分家

こんにちは、勘矢です。
今回は、前々回(駿河大納言の家老 朝倉宣正と旗本 朝倉氏 - 探検!日本の歴史)書いた朝倉宣正の孫宣成が養子に入った摂津麻田藩 青木家とその分家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 青木家とは

 摂津麻田藩主の青木家は、戦国時代の美濃守護の土岐頼芸に仕えた青木重直が祖で、重直はその後、斎藤道三豊臣秀吉に仕えました。1593年に秀吉から摂津国内に千四百石の知行を与えられ、後に三百六十石余を加増されました。
 その子一重は、今川氏真に仕えました。今川家が没落すると徳川家康に召され、姉川の戦いで戦功をあげました。その後、織田信長の家臣丹羽長秀に属し、本能寺の変後に羽柴秀吉にに仕えました。
 秀吉没後はその子秀頼に仕え、大坂冬の陣後に和議の使者として駿府へ下り、その帰途中に京都で徳川方に拘留されました。豊臣家が滅ぶと出家しましたが、末弟可直が徳川家に仕えていたことから再び召し出されて、摂津麻田藩一万二千石となりました。その後、二千石を末弟の可直に与えたので、麻田藩は一万石となり廃藩置県まで続きました。
 三代藩主重成は駿河大納言の家老 朝倉家からの養子で、九代一貫は伊予宇和島藩の伊達家(宇和島藩 伊達家 - 探検!日本の歴史)からの養子でした。
 一重の末弟 可直は、1610年に美濃国で三千石を賜って旗本となりました。その後、兄一重から二千石を分与されて五千石となりました。
 

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青木氏略系図
 
 

2. 摂津麻田藩主一覧

初代 青木 一重(かずしげ)【1551~1628】
 青木重直の長男。
 1585年(35)に羽柴秀吉より摂津・備中・伊予国内で合せて一万石を与えられました。秀吉没後は秀頼に仕え、大坂七手組頭の一人となりました。
 1614年(64)の大坂冬の陣後の和議の使者として駿府へ下り、その帰途中に京都で徳川方に拘留され、京都所司代 板倉勝重の監視下に置かれました。大坂落城後に出家しましたが、大御所 徳川家康に召されて再出仕し、父重直の知行を合わせ、摂津・備中・伊予国内で合せて一万二千石で摂津麻田藩を立藩しました。
 その後、二千石は弟の可直に分与したので一万石となりました。1619年に69歳で隠居しました。享年78
 
青木 正重(まさしげ)【1581~1664】
 斎藤義龍の家臣 小寺則頼の子、母は青木重直の娘。
 伯父一重の養子となりました。1614年以降に病により家督を継ぎませんでした。享年84。
 
二代 青木 重兼(しげかね)【1606~1682】
 青木可直の長男、母は関右京亮の娘
 伯父一重の養嗣子となり、1619年に14歳で摂津麻田藩を相続しました。1627年(22)に伊予国内の領地を摂津国内に移されました。京都の仁和寺造営奉行などをつとめました。1672年に67歳で隠居し、端山と号して隠元禅師に師事しました。享年77。
 正室武蔵川越藩主 酒井忠利の養女(忠利の甥 酒井忠季の娘)
 
 東京白金の桑原坂の途中にある瑞聖寺は黄檗宗寺院で、重兼が開基となっています。大雄宝殿は江戸中期以降に再建されたものといわれます。
 
青木 可一(よしかず)【1627~1644】
 武蔵川越藩主 酒井忠勝(讃岐守)の三男、母は松平親能の娘。
 叔母が嫁いだ青木重兼の養子となりました。家督相続前に没しました。享年18。
 
三代 青木 重成(しげなり)【1625~1693】
 駿河大納言の家臣 朝倉宣親の長男。母は酒井忠勝(讃岐守)の娘。初名宣成。
 1631年(7)に祖父 宣正が改易となると、外祖父の酒井忠勝の元で養われました。
 1640年(16)に召されて徳川家光に仕えて御書院番に列し、1642年(18)に廩米三百俵を賜りました。1652年(28)に重兼の婿養子となって青木重成と名乗り、廩米は収められました。
 1672年に48歳で摂津麻田藩を相続しました。1690年(66)に大番頭となり、1692年(68)に御留守居、側衆となりました。享年69。
 正室は青木重兼の娘。
 
 重成の母について、江戸時代 全大名家事典では、同名の鶴岡藩酒井忠勝と誤記されています。こちらの忠勝は徳川四天王 酒井忠次の孫。
 
四代 青木 重矩(しげのり)【1665~1729】
 青木重成の二男、母は青木重兼の娘。
 1693年に29歳で摂津麻田藩を相続しました。1713年に49歳で隠居しました。享年65。
 正室は出羽新庄藩主 戸沢正誠の娘。
 
五代 青木 一典(かずつね)【1697~1736】
 青木重矩の長男。
 1713年に17歳で摂津麻田藩を相続しました。享年40。
 正室は公家 冷泉為経の娘。
 
六代 青木 一都(かずくに)【1721~1749】
 青木一典の長男、母は冷泉為経の娘。
 1736年に16歳で摂津麻田藩を相続しました。享年29。
 正室丹波山家藩主 谷衛衡の娘。
 
七代 青木 見典(ちかつね)【1723~1754】
 青木一典の二男。
 兄の養嗣子となり、1750年に28歳で摂津麻田藩を相続しました。享年32。
 
八代 青木 一新(かずよし)【1728~1781】
 青木一典の三男。
 兄の養嗣子となり、1754年に27歳で摂津麻田藩を相続しました。1770年に43歳で隠居しました。享年54。
 正室豊後森藩主 久留島光通の娘。
 
青木 一在(かずずみ)【1749~1766】
 青木一新の長男。父に先立ち没しました。享年18。
 
九代 青木 一貫(かずつら)【1733~1786】
 伊予宇和島藩主 伊達村年の三男、母は伊達吉村の娘。
 1769年(37)に一新の婿養子となり、1770年に38歳で摂津麻田藩を相続しました。1778年(46)に大番頭となり、1784年(52)に辞職しました。享年54。
 正室は青木一新の娘。
 
 青木一貫の養子入りについては、「お家相続 大名家の苦闘」大森映子著(角川選書)の第三章 養子をめぐる大名家の諸相に詳しくあります。
 
十代 青木 一貞(かずさだ)【1776~1831】
 青木一貫の四男、母は青木一新の娘。
 1786年に11歳で摂津麻田藩を相続しました。藩校直方堂を創設しました。1821年に46歳で隠居しました。享年56。
 正室は出羽久保田新田藩主 佐竹義忠の娘、継室は鳥取新田(西館)藩主 池田定常の娘。
 
十一代 青木 重竜(しげたつ)【1800~1858】
 青木一貞の長男。
 1821年に22歳で摂津麻田藩を相続しました。1847年に48歳で隠居しました。隠居後に実子重義が生まれ、一興・一咸が相次いで没しため、重義が幼年で相続すると藩政を後見しました。享年59。
 正室は播磨赤穂藩主 森忠賛の娘。
 
十二代 青木 一興(かずおき)【1822~1849】
 青木一貞の六男。
 兄の養嗣子となり、1847年に26歳で摂津麻田藩を相続しました。享年28。
 
十三代 青木 一咸(かずひろ)【1828~1856】
 豊前中津藩主 奥平昌高の八男。
 1849年に22歳で摂津麻田藩を相続しました。享年29。
 正室信濃松本藩主 松平(戸田)光庸の養女(戸田光行の娘・光庸の姉妹)
 
十四代 青木 重義(しげよし)【1853~1884】
 青木重竜の子、母は森忠賛の娘。
 1856年にわずか4歳で摂津麻田藩を相続しました。1869年(17)に版籍奉還して麻田藩知事に任ぜられ、1871年(19)に廃藩置県を迎えました。享年32。
 正室は出羽上山藩主 松平(藤井)信宝の娘、継室は塩田伝兵衛の娘。
 

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麻田陣屋跡
 
 

3. 旗本:青木九十郎家

初代 青木 可直(よしなお)【1561~1622】
 青木重直の四男。
 1610 年(50)に召されて駿府にて大御所徳川家康に近侍し、美濃国内で三千石を賜りました。大坂の両陣では、永井直勝に属しました。大坂の陣後に兄一重から摂津国内で二千石を分与され、合わせて五千石となりました。享年62。
 妻は関右京亮の娘。
 
二代 青木 直澄(なおずみ)【1616~1700】
 青木可直の二男、母は関右京亮の娘。
 1622年にわずか7歳で相続し、寄合となりました。1667年に52歳で隠居しました。享年85。
 妻は伊勢松坂藩主 古田重治の娘。
 
青木 直影(なおかげ)【1619~1679】
 青木可直の三男、母は関右京亮の娘。
 1633年(15)に召されて御小姓組に列し、廩米三百俵を賜りました。1637年(19)に一時閉門となりました。1641年(23)に再度御小姓組に列し、1644年(26)に兄直澄の養子となりました。廩米は収められました。1667年(49)に病により廃嫡されました。享年61。
 妻は旗本 酒井忠正の娘。
 
三代 青木 直正(なおまさ)【1647~1677】
 宗家 青木重成の長男。
 1667年に21歳で相続しました。享年31。
 妻は上野前橋藩 酒井雅楽頭家家臣 酒井忠助の娘。
 
四代 青木 直宥(なおひろ)【1676~1752】
 青木直正の長男。
 1677年にわずか2歳で相続しました。1709年(34)に定火消となりました。1719年(44)に小普請組の支配に移り、1732年(57)に御小姓組の番頭になりました。1736年(61)に西ノ丸御書院番の番頭に転じ、1740年(65)に徳川家治の側役となりましたが、1747年(72)に老年により辞職しました。享年77。
 妻は武蔵久喜藩主 米津政武の娘、後妻は旗本 松平(久松)定由の娘。
 
青木 直里(なおさと)【1701~1723】
 青木直宥の長男。父に先立ち没しました。享年23。
 
青木 直旧(なおもと)【1706~1742】
 青木直宥の三男。父に先立ち没しました。享年37。
 妻は旗本 山内豊清の娘。この山内家は土佐藩の分家。
 
五代 青木 直暘(なおあき)【1724~1752】
 青木直宥の五男。
 1752年に29歳で相続しました。享年29。
 妻は武蔵久喜藩主米津政容の娘。
 
六代 青木 直美(なおよし)【1747~?】
 青木直暘の長男、母は米津政容の娘。
 1752年にわずか6歳で相続しました。
 妻は豊後森藩主 久留島光通の娘。宗家の青木一新の正室の妹。
 
七代 青木 直諒(なおあき)【1773~?】
 青木直美の長男、母は久留島光通の娘。
 1807年に35歳で相続しました。寄合。1829年に57歳で隠居しました。
 妻は旗本 横田以松の娘、後妻は旗本 南部信喜の娘。
 
八代 青木 熊治【?~1839】
 青木直諒の子。1829年に相続しました。寄合。
 
九代 青木 直興【?~1841】
 青木直諒の子。伝三郎。兄青木熊次の養子となり、1839年に相続しました。寄合。
 
十代 青木 直規
 青木主馬の子、直諒の孫になる。孫太郎。叔父 青木直興の養子となり、1841 年に相続しました。
 
 

3. 青木一興と一咸の関係

 麻田藩主の青木一興は嗣子なく没したため、末期養子として豊前中津藩主 奥平昌高の子 一咸を養子に迎え、麻田藩を相続させました。
 一興と一咸の関係を調べてみると、仙台藩の伊達家を介した遠縁でした。一興の祖父一貫の母は仙台藩伊達吉村の娘で、吉村の子 宗村は八代将軍徳川吉宗の養女利根姫を正室に迎えました。その姪 保(一橋宗尹の娘)は薩摩藩島津重豪正室となり、その子が奥平昌高です。
 

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青木一興と一咸の関係図
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 探訪・江戸大名旗本の墓 河原芳嗣著(毎日新聞社
 続徳川実紀 第2篇、第3篇(国立国会図書館デジタルコレクション
 江戸幕臣人名事典(新人物往来社
 
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。