こんにちは、勘矢です。
今回は南部家の分家について調べたことをまとめました。
1. 陸奥八戸藩南部家
1664年、盛岡藩主南部重直が世継ぎを決めないまま没したので南部家は断絶になるところであったが、幕府は重直の弟重信に盛岡藩八万石、同じ弟直房に二万石を分与して八戸藩を立藩させた。直房は藩体制の確立のため、家臣団の編成や知行制度の確立、産業の振興などを行ったが、立藩からわずか3年余りで急死した。
初代 南部 直房(なおふさ)【1628~1668】
在職期間:1664年(37)~1668年(41)
二代 南部 直政(なおまさ)【1661~1699】
南部直房の長男、母は側室 川口氏。享年39。
在職期間:1668年(8)~1699年(39)
二代直政に嗣子がなかったため、盛岡藩主南部重信の四男通信が養子となり相続した。四代広信の頃は凶作が多く、大小33回にも及んだ。五代信興は1745年に駿府加番、1748年に勅使饗応役をつとめた。また自然災害も多発し、1763年には大地震が起きて大惨事となった。
三代 南部 通信(みちのぶ)【1673~1716】
在職期間:1699年(27)~1716年(44)
四代 南部 広信(ひろのぶ)【1706~1741】
南部通信の長男、母は側室 桂氏。享年36。
在職期間:1716年(11)~1741年(36)
五代 南部 信興(のぶおき)【1725~1773】
南部広信の長男、母は江戸商家の娘 藤枝。享年49。
在職期間:1741年(17)~1765年(41)隠居
六代信依は武道を好み、武芸練習場を創設した。七代信房は就任直後に天明の大飢饉が起こり、藩財政は壊滅的な打撃を受けた。藩財政の建て直しを図るも失敗し、農民一揆が起こった。八代信真は兄の養子となり家督相続した。藩政改革を断行して一時的に藩財政は好転したが、再び農民一揆が起こって改革は失敗した。
九代信順は薩摩藩島津家からの婿養子となって家督相続した。戊辰戦争では、実家の薩摩藩と宗家の盛岡藩との関係で苦しい立場であったが、奥羽越列藩同盟には消極的に参加し、寝返った弘前藩と野辺地で戦ったが、宗家とは異なり朝敵にはならなかった。1869年に版籍奉還し、1871年に廃藩置県を迎えた。
六代 南部 信依(のぶより)【1747~1781】
南部信興の長男、母は側室 織田氏。享年35。
在職期間:1765年(19)~1781年(35)隠居
七代 南部 信房(のぶふさ)【1765~1835】
南部信依の長男、母は側室 松本氏。享年71。
在職期間:1781年(17)~1796年(32)隠居
八代 南部 信真(のぶまさ)【1778~1846】
南部信依の四男、母は側室 鈴木氏。享年69。
在職期間:1796年(19)~1842年(65)隠居
九代 南部 信順(のぶゆき)【1813~1872】
正室は南部信真の娘 鶴子。
2. 陸奥七戸藩南部家
(1)旗本:南部肥前守家
盛岡藩主南部重信の二男政信は、1694年に兄行信から陸奥国和賀・二戸両郡において新墾田五千石を分け与えられて寄合旗本となった。1706年に蔵米三千俵に改められた。二代信弥は火事場見廻や定火消をつとめた。四代信喜は御小姓組の番頭をつとめ、その後、将軍若君(のちの十二代将軍 家慶)の附属させられて西ノ丸に勤仕した。五代信鄰は1819年に諸侯に列し、盛岡新田藩を立藩した。
初代 南部 政信(まさのぶ)【1668~1746】
1694年(27)に分知され寄合に列した。1732年に65歳で隠居した。享年79。
二代 南部 信弥(のぶみつ)【1710~1750】
丹後田辺藩主 牧野英成の五男。
1732年に23歳で家督相続した。享年41。
三代 南部 信伝(のぶつぐ)【1734~1756】
信弥の婿養子となり、1750年に17歳で家督相続した。享年23。
妻は南部信弥の養女(丹後田辺藩主 牧野英成の娘、信弥の妹)。
四代 南部 信喜(のぶよし)【1753~1800】
南部信伝の長男、母は信弥の養女(牧野英成の娘)。
1756年にわずか4歳で家督相続した。享年48。
妻は一族南部信起の娘。
五代 南部 信鄰(のぶちか)【1776~1821】
南部信喜の長男、母は南部信起の娘。
(2)陸奥盛岡新田藩(七戸藩)
世子のなかった信民は宗家より信方を養子に迎え、1869年2月に信方は家督相続した。5月に七戸地方で一万石を与えられて所領が確定し、翌月版籍奉還して七戸藩知事に任ぜられた。1870年に七戸藩領全三十八カ村がこぞって立ち上がった百姓一揆が起こった。翌年廃藩置県を迎えた。
初代 南部 信隣(のぶちか)【1776~1821】
南部信喜の長男、母は南部信起の娘。享年46。
在職期間:1819年(44)~1822年(47)隠居
正室は旗本 水野忠敞の娘、継室は旗本 近藤寿用の娘。
二代 南部 信誉(のぶのり)【1805~1862】
南部信誉の嫡男、母は近藤寿用の娘。享年58。
在職期間:1822年(18)~1862年(58)
三代 南部 信民(のぶたみ)【1833~1900】
在職期間:1862年(30)~1868年(36)隠居
参考:近世こもんじょ館 南部を名乗る諸家 28 家臣諸家 19 角屋敷家 『歴世系』を中心に
四代 南部 信方(のぶかた)【1858~1923】
参考:七戸町町史
3. 旗本:南部幸吉家
盛岡藩主南部重信の三男勝信は、1694年に兄行信から陸奥国和賀・二戸両郡において新墾田三千石を分け与えられ寄合旗本となった。1706年に蔵米三千俵に改められた。二代目以降養子による相続が続き、五代信由が宗家である盛岡藩主を相続することになり断絶した。
初代 南部 勝信(かつのぶ)【1669~1732】
南部重信の三男。
1694年(26)に分知され寄合に列した。享年64。
二代 南部 信尹(のぶただ)【1695~1750】
内山豊明の七男、母は某氏。
妻は南部勝信の娘。
三代 南部 信之(のぶゆき)【1719~1748】
豊後佐伯藩主 毛利高慶の三男。
信尹の婿養子となり、1747年に29歳で家督相続。享年30。
妻は南部信尹の娘。
四代 南部 信起(のぶおき)【1725~1778】
1748年に24歳で家督相続。1773年に49歳で隠居。享年54。
五代 南部 信由(のぶより)【1752~1784】
妻は南部信起の娘。
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。