こんにちは、勘矢です。
今回は大和櫛羅藩 永井家について調べたことをまとめました。
1. 櫛羅藩 永井家
1680年永井宗家の尚長は、鳥羽藩主内藤忠勝に殺害されて除封となった。翌年、弟の直円が名跡相続を許され、大和新庄(奈良県葛城市)一万石で再興した。1863年、直幹が大和国葛上郡櫛羅村(奈良県御所市)に移して櫛羅藩となり、廃藩置県を迎えた。
2. 大和新庄・櫛羅藩主一覧
初代 永井 直円(なおみつ)【1671~1736】
永井尚征の六男。
二代 永井 直亮(なおすけ)【1693~1737】
永井直円の二男、母は松平忠継の娘。
兄直達が分家の高槻藩へ養子に入ったため嫡子となり、1710年に18歳で大和新庄藩を相続しました。1712年(20)、1715年(23)、1721年(29)の3回大坂加番をつとめました。1718年(26)に大番頭となり、1728年(36)に辞職しました。1732年(40)から大坂定番をつとめ、1737年(45)に在番中に没しました。享年45。
正室は越前丸岡藩主 有馬清純の娘。
三代 永井 直国(なおくに)【1723~1765】
永井直亮の二男、母は有馬清純の娘。
1737年に15歳で大和新庄藩を相続しました。1745年(23)に大坂加番をつとめました。享年43。
四代 永井 直温(なおあつ)【1747~1795】
永井直国の二男、母は北条氏貞の娘。
1752年(6)に兄直孝が早世したため嫡子となり、1765年に19歳で大和新庄藩を相続しました。1773年(27)、1777年(31)に大坂加番をつとめ、1781年(35)に大番頭となりました。1788年(42)から大坂定番をつとめ、1795年(49)に在番中に没しました。享年49。
五代 永井 直方(なおかた)【1782~1825】
永井直温の長男、母は永井直期の娘。
1795年に14歳で大和新庄藩を相続しました。1799年(18)、1805年(24)、1820(39)に大坂加番をつとめ、1821年(40)に大番頭となり、1823年(42)に病のため辞職しました。1825年に44歳で隠居し、間もなく没しました。享年44。
六代 永井 直養(なおのぶ)【1803~1854】
永井直方の子、母は北条氏昉の娘。
七代 永井 直幹(なおもと)【1829~1882】
美濃加納藩主 永井尚佐の七男。
1850年に22歳で大和新庄藩を相続しました。1852年(24)に大坂加番をつとめ、1858年(30)に大番頭となりました。1863年(35)に陣屋を大和櫛羅に移しました。また、同年隠居しました。享年54。
八代 永井 直壮(なおたけ)【1847~1865】
旗本 永井左門家:永井直次の二男。
直幹の養子となり、1863年に17歳で大和櫛羅藩を相続しました。享年19。
九代 永井 直哉(なおちか)【1850~1912】
下総高岡藩主 井上正滝の五男。
直壮の養子となり、1865年に16歳で大和櫛羅藩を相続しました。1866年(17)に大坂加番をつとめました。1869年(20)に版籍奉還して櫛羅藩知事となり、1871年(22)に廃藩置県を迎えました。享年63。
正室は公家 飛鳥井雅典の娘 芳子。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。