こんにちは、勘矢です。
今回は永井直勝の弟白元の子孫の旗本家について調べたことをまとめました。
1. 旗本永井家(白元系)
永井直勝の弟白元は、井伊直政・加藤光泰に仕えたのち徳川家康に仕え、のちに秀忠に仕えて御使番や御目付をつとめ、加増を重ねて三千五百三十石となった。直元が隠居したときに五百石を弟直又に分け与え、茂虎は三千三十石余を相続した。(永井幸之助家)
永井直次郎家は永井直元の二男 直又からはじまり、上総国内で五百石を分け与えられて分家した。
2. 白元系永井一族
(1)旗本:永井幸之助家
初代 永井 白元(あきもと)【1572~1654】
長田重元の三男、母は鈴木弥右衛門の娘。
はじめ井伊直政の家臣辻盛昌の養子となって井伊家に仕え、小田原の陣で戦功をあげました。その後、故あって井伊家を離れて加藤光泰に仕え、文禄の役で朝鮮にて戦功をあげました。光泰の没後の1594年(23)に徳川家康に仕えました。
1596年(25)に相模国内で三百三十石を賜り、1602年(31)より徳川秀忠に仕えました。1604年(33)より本多光重とともに中山道に一里塚を築き、のち諸道の一里塚の検視を行いました。1607年(36)に御使番となり、1609年(38)とその翌年に加増されて合わせて八百三十石となりました。1611年(40)に御目付となりました。
1615年(44)の大坂夏の陣に供奉し、1616年(45)、1622年(51)、1623年(52)に加増され、1625年(54)に相模・下総・上総国内で二千五百三十石の御朱印を賜りました。1628年(57)に上総国内で千石を加増されて三千五百三十石となりました。
池田光仲の因幡鳥取への移封、松平(越前)直政の出雲松江への移封、松平信綱の武蔵川越への移封などに使者として赴きました。1643年(72)に猿楽上覧のとき、勤務態度を咎められて一時出仕停止となりました。1652年に81歳で隠居しました。享年83。
妻は近藤正忠の娘(離婚)。
二代 永井 直元(なおもと)【1601~1678】
永井白元の長男、母は近藤正忠の娘。
1617年(17)に御書院番に列し、1641年(41)に池田長常が改易されたときに上使として備中松山に赴きました。1644年(44)に松下長綱が改易されたとき、安藤重長、能勢頼重とともに陸奥三春へ赴きました。また、日光社参のときの宿割や石垣普請などをつとめました。
1652年に52歳で家督相続し、普請奉行となりました。1657年(57)の明暦の大火で井上正利らとともに昼夜府内を巡視しました。1661年(61)に辞職し、1669年に69歳で隠居しました。享年78。
妻は旗本 松前忠広の娘。
三代 永井 茂虎(しげとら)【1639~1699】
永井直元の長男、母は松前忠広の娘。
1663年(25)に御書院番に列し、1669年に31歳で家督相続しました。このとき、五百石を弟直又に分け与えたので三千三十石余となりました。1681年(43)に高厳院殿仏殿御造営奉行(高厳院は四代将軍徳川家綱の正室浅宮)をつとめたことにより褒美を賜りました。享年61。
妻は旗本 大草高盛の娘、後妻は交代寄合 溝口宣秋の娘。
四代 永井 白弘(あきひろ)【1669~1711】
永井茂虎の長男、母は溝口宣秋の娘。
妻は旗本 水谷勝阜の娘。
五代 永井 尚方(なおかた)【1703~1753】
永井白弘の長男、母は水谷勝阜の娘。
1711年にわずか9歳で家督相続し、小普請となりました。1719年(17)に御書院番となり、1732年(30)に御使番となりました。1735年(33)に火事場見廻を兼ね、1739年(37)に小普請支配となりました。1740年(38)に故あって一時出仕を止められました。
妻は旗本 永井直允の娘。
六代 永井 白衆(あきもち)【1725~1804】
永井尚方の長男、母は永井直允の娘。
1737年(13)に徳川家治が山王社に詣でるときに騎馬にて供奉しました。1753年に29歳で家督相続しました。1757年(33)より火事場見廻をつとめ、1761年(37)に大坂の御船手となりました。1775年(51)に小普請支配となり、1788年(64)に御旗奉行となり、1796年(72)に西ノ丸につとめました。
1773年(49)、1774年(50)、1783年(59)、1791年(67)とたびたび不祥事があり、そのたび拝謁を一時止められました。
妻は旗本 久貝正順の娘。
永井 白寿(あきひさ) 【1759~?】
永井白衆の長男、母は久貝正順の娘。妻は旗本 渋谷良紀の娘。
永井 弘道(ひろみち)
永井白寿の長男、母は渋谷良紀の娘。妻は旗本 水上正信の娘。
七代 永井 平八郎 【?~1810】
永井白衆の嫡孫。1804年に相続。寄合。
続徳川実記では白衆の嫡孫として平八郎が記載されているが、寛政重修諸家譜では白衆の孫に平八郎は確認できない。
八代 永井 平吉 【?~1819】
永井平八郎の子。1810年に相続、寄合。
九代 永井 直候 【?~1835】
永井平八郎の子。通称幸之助。兄平吉の養子となり、1810年に相続、寄合。
十代 永井 直賢 【?~?】
永井直候の子。通称監物。1836年に相続。
十一代 永井 直清 【?~?】
永井直候の子。通称房之助。兄直賢の養子となり、1847年に相続、寄合。1859年に使番となり、1863年に勤仕並寄合。
(2)旗本:永井直次郎家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 直又(なおまた)【1657~1705】
永井直元の二男、母は松前忠広の娘。
1669年(13)に父の領地から上総国内で五百石を分け与えられ、小普請となりました。1676年(20)に御小姓組に列しました。1698年(42)に中山時春とともに大坂に赴き、川々の普請を奉行しました。1699年(43)に御徒頭に移りました。享年49。
妻は旗本 永井尚春の娘。
二代 永井 直宇(なおいえ)【1690~1719】
永井直又の長男。
1705年に16歳で家督相続し、寄合に列しました。享年30。
妻は旗本 原田種定の娘。
三代 永井 直矩(なおのり)【1709~1731】
旗本 永井主水家:永井尚附の七男。
直宇の養子となり、1719年に11歳で家督相続しました。享年23。
四代 永井 直羽(なおのぶ)【1720~1785】
大和新庄藩主 永井尚尹の二男、母は米津田賢の娘。
直矩の養子となり、1731年に12歳で家督相続しました。1745年(26)に西ノ丸の御小姓組に列し、1752年(33)より進物役をつとめました。1761年(42)に本丸に移り、翌年西ノ丸に戻り、1770年(51)に辞職しました。1776年に57歳で隠居しました。享年66。
妻は旗本 稲垣正武の娘。
五代 永井 直道(なおみち)【1750~1803】
大和新庄藩主 永井直国の三男、母は北条氏貞の娘。
直羽の婿養子となり、1776年に27歳で家督相続しました。1783年(34)に御書院番に列しました。1788年(39)から進物役をつとめ、1796年(47)に組頭にすすみ、その後、西ノ丸の御目付に転じました。
1802年(53)に西ノ丸先手弓頭となりました。享年54。
妻は永井直羽の娘、後妻は旗本 小林行孝の娘。
六代 永井 直陟(なおたか)【1780~?】
永井直道の二男、母は小林行孝の娘。
1803年に家督相続しました。
妻は旗本 溝口勝興の娘。
(寛政以降の当主)
永井直方(ちょくほう)【?~1856】
永井理十郎の子。通称三左衛門。
永井直次郎(なおじろう)
1867年に奥詰銃隊より奥詰銃隊差図役となり、1868年に使番となりました。
(3)旗本:永井左兵衛家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 正元(まさもと)【1621~1676】
永井白元の二男、母は近藤正忠の娘。
1636年(16)に召されて御書院番に列し、1639年(19)に蔵米三百俵を賜りました。1641年(21)に故あって一時逼塞となりました。1648年(28)に御膳奉行となり、1651年(31)に三代将軍 徳川家光が没したため務めをゆるされましたが、1656年(36)に同役に復帰しました。1663年(43)に西ノ丸の御留守居に移りました。享年56。
妻は旗本 牧野儀成の娘。
二代 永井 貞清(さだきよ)【1660~1716】
永井正元の長男、母は牧野儀成の娘。
1676年に17歳で家督相続し、小普請となりました。1683年(24)に中奥番士に列し、1684年(25)に御小姓に移り、のちに元の役に復帰しました。1715年(56)に辞職しました。享年57。
妻は下総関宿藩主 牧野成貞の娘。成貞は儀成の子。
三代 永井 正盛(まさもり)【1697~1763】
旗本 永井直次郎家:永井直又の二男。
四代 永井 直生(なおなり)【1724~1776】
永井正盛の長男、母は戸田忠常の娘。
五代 永井 直応(なおまさ)【1738~?】
旗本 小栗又左衛門家:小栗信道の二男。
直生の婿養子となり、1776年に39歳で家督相続し、1782年に45歳で隠居しました。
妻は永井直生の娘。
六代 永井 直当(なおあつ)【1766~?】
永井直応の長男、母は永井直生の娘。
妻は旗本 加藤貞凞の娘。
(4)旗本:永井彦兵衛家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 元孝(もとたか)【1628~1703】
永井白元の三男、母は矢口氏。
1641年(14)に召されて御小姓組に列し、1643年(16)に蔵米三百俵を賜りました。1650年(23)に御書院番に移り、のちに本丸へ移りました。1663年(36)に御小納戸に転じ、二百俵を加増されました。1680年(53)に四代将軍 徳川家綱が没したため、寄合並となりました。1687年(60)に西ノ丸御裏門番頭となり、1694年(67)に辞職しました。
妻は旗本 玉虫重茂の娘。
永井 元長(もとなが)【1651~1710】
永井元孝の長男、母は玉虫重茂の娘。
永井 元儀(もとよし)【1656~1699】
永井元孝の長男、母は玉虫重茂の娘。
1678年(23)に召されて御小姓組に列し、1680年(25)に番料を賜りました。父に先立ち没しました。享年44。
妻は旗本 佐久間勝種の娘、後妻は玉虫藤助の養女。
二代 永井 寿昌(ながまさ)【1683~1714】
永井元儀の二男、母は佐久間勝種の娘。
妻は旗本 大橋親祥の娘。
三代 永井 元頼(もとより)【1698~1740】
永井元儀の三男、母は安食氏。
兄の養子となり、1714年に17歳で家督相続しました。1719年(22)に御小姓組に列し、1724年(27)より進物役をつとめました。1728年(31)の日光社参に供奉しました。1731年(34)より屋敷改をつとめ、1737年(40)に御徒頭に転じました。享年43。
妻は戸塚忠恒の養女(下総古河藩本多家家臣 梶氏の娘:離婚)、後妻は旗本 大岡清重の娘、後々妻は紀伊家家臣 神谷勝正の娘。
四代 永井 元般(もとしげ)【1740~1766】
永井元頼の二男、母は紀伊家家臣神谷勝正の娘。
1740年にわずか1歳で家督相続しました。享年27。
妻は旗本 松平(久松)定賢の娘。定賢の妹は永井直次郎家 三代直矩の妻。
五代 永井 尚庸(なおつね)【1750~?】
旗本 永井尚尹の四男、母は米津田賢の娘。
尚庸ははじめ義弟 元善を養子にすることを願い出ていましたが、その最中に元善が没したため、尚昉を養子に迎えて1783年に34歳で隠居しました。1797年(48)に逐電しました。
妻は永井元般の娘。
六代 永井 尚昉(なおあきら)【1757~?】
旗本 清水義永の二男。
尚庸の養子となり、1783年に27歳で家督相続しました。1786年(30)に西ノ丸の御書院番に列し、1790年(34)に本丸に移りました。1796年(40)に西ノ丸に移りました。1797年(41)義父尚庸が逐電したことにより一時出仕を止められました。
妻は旗本 和田勝忠の娘。
(5)旗本:永井多宮家
(寛政年間までの当主)
永井 元勝(もとかつ)【1623~1664】
妻は旗本 皆川宗富の娘。
初代 永井 元明(もとあきら)【1658~1717】
旗本 永井彦兵衛家:永井元孝の三男、母は玉虫重茂の娘。
叔父元勝の養子となり、はじめ館林藩で小姓組をつとめ、1680年(23)に綱吉の嫡子徳松に従いました。蔵米四百七十俵余を賜り西ノ丸につとめ、1683年(26)に小普請となりました。1702年に45歳で隠居しました。享年60。
二代 永井 元直(もとなお)【?~1737】
旗本 永井彦兵衛家:永井元孝の五男、母は玉虫重茂の娘。
妻は旗本 伊丹雅平の娘。
永井 元治(もとはる)【?~?】
永井元直の長男、母は 伊丹雅平の娘。
1709年に大番に列し、1724年に甲府勤番となりました。1735年に博奕を行ったことにより追放された。
三代 永井 元智(もとちか)【1726~1743】
永井元治の長男。
1737年に12歳で祖父の家督を相続しました。享年18。
四代 永井 元平(もとひら)【1729~1788】
旗本 永井大之丞家:永井直丘の五男。
妻は永井元智の養女(永井元治の娘)、後妻は市岡正峯の娘。
五代 永井 元武(もとたけ)【1761~?】
旗本 菅沼定堅の三男。
妻は旗本 永井直道の娘。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。