こんにちは、勘矢です。
今回も前回(淀藩 稲葉家の分家2~旗本 稲葉家1~ - 探検!日本の歴史)に引き続き、旗本 稲葉家について調べたことをまとめました。
1. 淀藩 稲葉家の一族
稲葉正成の二男 正次は美濃青野にて五千石を与えられました。正次が没したとき、嫡子の正能はわずか3歳であったため、祖父正成の願いによって青野の知行は正成の十男正吉が賜ることになりました。正能兄弟は祖父の家で養育されました。1635年に下野国内で三千石を分知されました。正能の没後二千五百石を嫡男正篤が継ぎ(稲葉亀吉家)、残り五百石を三男 正之に分知しました(稲葉主税家)。
ほかに旗本家として、稲葉正次の二男 正定からはじまる二千石の稲葉茂桶家がありました。
2. 旗本 稲葉家
(1)旗本:稲葉亀吉家
(寛政年間までの当主)
稲葉 正次(まさつぐ)【1591~1628】
稲葉正成の二男、母は稲葉重通の娘。
1618年(28)に召されて二代将軍 徳川秀忠に仕えて、美濃青野で五千石の知行を賜りました。享年38。
初代 稲葉 正能(まさよし)【1626~1685】
稲葉正次の長男。
妻は相模甘縄藩主 松平(大河内)正綱の娘。
二代 稲葉 正篤(まさあつ)【1646~1700】
稲葉正能の長男、母は松平(大河内)正綱の娘。
妻は旗本 高木定清の娘、後妻は旗本 三好長富の娘。
伊奈 忠順(ただのぶ)【?~1712】
伊奈忠常の二男、母は松平(大河内)正信の養女。
母方の従兄弟稲葉正篤の養子となり、1693年に御書院番に列しました。1697年に実兄伊奈忠篤の病が重く、その子が幼少のため実家に戻り、伊奈家を相続しました。
三代 稲葉 正喜(まさよし)【1695~1717】
稲葉正篤の二男、母は三好長富の娘。
1700年にわずか6歳で家督相続しました。享年23。
妻は旗本 渡邊輝の娘(離婚)。
四代 稲葉 正純(まさずみ)【1706~1735】
旗本 三上季明の四男、母は諏訪部定直の娘。
妻は旗本 伊奈忠逵の養女(忠逵の義父 伊奈忠順の娘、忠順は二代正篤の養子でした)。
五代 稲葉 正存(まさよし)【1729~1789】
稲葉正純の長男、母は伊奈忠逵の養女。
1735年にわずか7歳で家督相続しました。1756年(28)に御書院番に列し、翌年に御小納戸に転じました。1760年(32)より二ノ丸に勤士し、翌年寄合となりました。同年、御小納戸に復帰し、1773年(45)に頭取格になりました。
妻は旗本 林信充の娘(離婚。この林家は幕府の儒家である林大学頭家)、後妻は旗本 伊奈忠辰の娘(忠辰は正存の生母の弟)。
六代 稲葉 正順(まさよし)【1772~1825】
稲葉正存の三男、母は伊奈忠辰の娘。通称大膳。
1789年に18歳で家督相続しました。
1815年に書院番から使番となり、1825年に西ノ丸目付となりました。
妻は旗本 黒川盛胤の娘、後妻は旗本 渡邊寛綱の娘。
○寛政以降の人物
稲葉 亀吉【?~?】
稲葉大膳の子。1826年に家督相続しました。
稲葉 栄之助【?~?】
稲葉 万次郎【?~?】
(2)旗本:稲葉主税家
初代 稲葉 正之(まさゆき)【?~1697】
稲葉正能の三男、母は松平正綱の娘。
1672年に御書院番に列し、1674年に蔵米三百俵を賜りました。1685年に父の遺領の内五百石を分け与えられ、蔵米は収められました。
妻は旗本 浅野氏吉の娘。
二代 稲葉 正房(まさふさ)【1675~1741】
松平越前守家臣 稲葉正信の子、母は同家家臣 本多民部養女。
1693年(19)に御小姓組に列し、1697年に23歳で家督相続しました。1704年(30)より進物役をつとめ、1708年(34)に桐間番、御小納戸にうつり、翌年御小姓組に戻りました。1712年(38) に御目付、1727年(53) に御普請奉行となりました。1735年(61)に辞職し、寄合に列しました。享年67。
妻は旗本 浅井元忠の娘、後妻は浅野(隼人)長矩の娘、後々妻は旗本 竹本長鮮の養女(山越氏の娘)。
稲葉 正寿(まさとし)【?~?】
稲葉正篤の三男。1715年に七代将軍 徳川家継に初お目見えし、1719年に父に先立ち没しました。
稲葉 正勝(まさかつ)【1696~1734】
旗本 早川重好の三男、母は日光門主の家士 岡田昌成の娘。
妻は稲葉正房の娘。
三代 稲葉 正武(まさたけ)【1721~1762】
稲葉正勝の長男、母は稲葉正房の娘。
1741年に21歳で祖父の跡を継ぎました。1745年(25)に西ノ丸の御小姓組に列し、1748年(28)西ノ丸の御小納戸にすすみました。翌年、西ノ丸の御小姓となり、1751年(31)に寄合に列しました。享年42。
妻は旗本 杉浦勝照の娘。
四代 稲葉 正朝(まさとも)【1746~1806】
稲葉正武の長男、母は杉浦勝照の娘。
1762年に17歳で家督相続しました。1768年(23)に御小姓組に列し、翌年御小納戸にうつりました。1773年(28)に西ノ丸に勤士し、1779年(34)に寄合となり、1781年(36)に御小納戸に復帰しました。1786年(41)に本丸にうつり、1796年(51)に御徒頭になりました。 享年61。
妻は旗本 佐々政晴の養女(御家人 岩波延幸の娘)。
五代 稲葉 正方(まさみち)【1768~?】
稲葉正朝の長男、母は佐々政晴の養女。
六代 稲葉 正申(まさのぶ)【1794~1848】
旗本 飯室昌親の二男。出羽守。
正方の養子となり、家督相続しました。
七代 稲葉 清次郎【?~?】
稲葉正申の子。直次郎、吉次郎。
(3)旗本:稲葉茂橘家
(寛政年間までの当主)
初代 稲葉 正定(まささだ)【1626~1679】
稲葉正次の二男。
幼少期に父を亡くし、兄正能とともに祖父正成のもとで養育されました。1635年(10)に下野国内で新墾田二千石分知され、1643年(18)に御小姓組に列し、1657年(32)に豊後府内に赴き御目付の事をつとめました。1664年(39)に領地を常陸国内に移されました。1666年(41)に御使番となり、翌年に山陽道、石見、出雲、隠岐、伯耆、因幡などの国々を巡見しました。1669年(44)に常陸国土浦城を土屋数直が賜るとき、仰せを承って現地に赴き、城引渡し役をつとめました。1671年(46)に仰せをうけて仙台に赴き国政を監しました(伊達騒動)。享年54。
妻は春日局の養女。
二代 稲葉 正忠(まさただ)【1647~1680】
稲葉正定の長男、母は春日局の養女。
1679年に33歳で家督相続しました。享年34。
三代 稲葉 正羽(まさのぶ)【1669~1742】
稲葉正定の二男、母は春日局の養女。
兄の養子となり、1680年に12歳で家督相続し、小普請となりました。1696年(28)に御書院番となり、1703年(35)に進物役をつとめました。1705年(37)に陸奥国棚倉城を太田資重が賜るとき、成瀬正起とともに現地に赴きました。1710年(42)に辞職し、寄合となりました。享年74。
妻は旗本 宮崎重清の娘。
四代 稲葉 正長(まさなが)【1706~1774】
旗本 滝川利元の二男。
正羽の婿養子となり、1742年に37歳で家督相続しました。1745年(40)に御小姓組に列し、1746年(41)に野国館林城を松平武元が賜るとき、翌年に仰せを承り川勝隆雄とともにに現地に赴きました。1752年(47)に組頭にすすみ、1757年(52)に辞職し、寄合となりました。1762年に57歳で隠居しました。享年69。
妻は稲葉正羽の娘。
五代 稲葉 通昆(みちやす)【1733~1798】
稲葉正長の長男、母は稲葉正羽の娘。
1762年に30歳で家督相続しました。1778年に46歳で隠居しました。享年66。
妻は旗本 川勝隆雄の娘。
六代 稲葉 正陽(まさあきら)【1754~?】
稲葉通昆の長男、母は川勝隆雄の娘。
妻は旗本 建部行昌の娘(離婚)。
稲葉 正明(まさあき)【?~?】
旗本 松下之郷の八男。正陽の婿養子となりました。1795年に逐電するものちに戻り閑居しましたが、1797年に再度逐電し、行方知れず。妻は稲葉正陽の娘。
稲葉 正衡(まさひろ)【?~?】
下総結城藩主 水野勝前の三男。はじめは井上正盈の養子となるも故あって実家に戻り、正陽の婿養子となりました。妻は稲葉正陽の娘で正明の元妻。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林)
切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩(人文社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。