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趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

淀藩 稲葉家の分家4~青野稲葉家・福井藩士稲葉家~

こんにちは、勘矢です。
今回は山城淀藩 稲葉家の分家あたる青野藩 稲葉家、寛政年間以前に断絶した旗本家などついて調べたことをまとめました。
 
 

1. 正成系稲葉家の分家

 稲葉正成の十男 正吉は旗本として取り立てられ、その子正休のときに美濃青野藩を立藩しましたが、江戸城中で刃傷事件を起こして絶家となりました。
 稲葉正成の七男正房は越前松平家に仕え、子孫は幕末まで福井藩士として続き、家老になる人もいました。
 
 その他の分家の稲葉家はいくつかありましたが、宗家相続や無嗣により断絶しました。稲葉正則の二男正倚は七千石の旗本となりましたが、その子 正恒が宗家の淀藩主となったため断絶しました。
 稲葉正則の五男正直は二千石の旗本となりましたが、その養子 正親が宗家の淀藩主となったため断絶しました。
 稲葉正則の十一男正佐は三千石の旗本となりましたが、その子 正房が幼少で没したため無嗣断絶となりました。
 

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山城淀藩稲葉氏略系図
 

2. 青野稲葉家

初代 稲葉 正吉(まさよし)【1618~1656】
 稲葉正成の十男、母は山内康豊の娘。
 1628年(11)に兄稲葉正次が没したとき、その子正能が幼少のため、美濃青野五千石は正吉が賜り、寄合に列しました。1641年(24)に甲府城を守衛し、1645年(28)に浅草観音堂造立の奉行をつとめました。
 1650年(33)に御書院番頭となり、ました。1656年(39)に駿府城の番衛にあるとき、男色のもつれから家臣に殺害されました。享年39。
 妻は遠江浜松藩太田資宗の娘。
 
二代 稲葉 正休(まさやす)【1640~1684】
 稲葉正吉の長男、母は太田資宗の娘。
 1656年に17歳で家督相続しました。1674年(35)に御小姓組番頭となり、その後、書院番頭を経て近習となりました。
 1681年(42)に二千石を加増され、翌年に若年寄となり、五千石を加増されて合わせて一万二千石となり、美濃青野藩を立藩しました。1684年(45)に江戸城中において、従兄弟で大老堀田正俊を刺殺し、自身もその場に居合わせた老中大久保忠朝らによって斬られました。享年45。
 妻は常陸土浦藩主 土屋数直の娘。
 
 

3. 越前藩士稲葉家

稲葉 正房(まさふさ)
 稲葉正成の七男。通称采女、出雲。越前福井藩松平忠昌に仕えました。
 「福井藩士について調べる」というサイトの給帳データセットの三代 松平 忠昌のデータによると「二千石 内五百石与力 稲葉出雲」となっているのが正房と思われます。
 
同サイトの「福井藩士履歴 い」によると稲葉采女家は幕末まで福井藩士として続いたようです。同書に記載の人物は下記のとおり。
 
稲葉 采女:1689年に父の跡を相続。1707年に御家老職。
 名は正純、【1667~1741】、享年72。稲葉正成の曾孫にあたる。(日本人名大辞典)
 父の名は正信で弟 正房【1675~1741】は旗本稲葉家(五百石)に養子入り。(寛政重修諸家譜
 
稲葉 采女斎宮):1738年に父隠居により相続。1748年没。
 
稲葉 采女(多宮):1748年に父の跡を相続。
 
稲葉 采女:1759年に養父隠居により相続。1764年に御家老職。
 
稲葉 采女(図書):1793年に養父隠居により相続。1794年に御家老職。
 
稲葉 采女(図書):1815年に養父隠居により相続。1824年没。
 
稲葉 采女(斧次郎):1824年に養父の跡を相続。1841年に御家老職、同年没。
 
稲葉 愛之助:1842年に父の跡を相続。翌年没。
 
稲葉 務:1844年に兄愛之助の養子となり家督相続。1854年没。
 名は正博、【1833~1854】、享年22。(日本人名大辞典)
 
稲葉 采女(哉五郎):実は酒井十之丞弟。1854年に養子となり家督相続。1863に御家老職。1864年病死。
 
稲葉 俊之助:1864年に兄采女の跡を相続。相続時は15歳未満。
 

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福井藩士稲葉家略系図

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福井城
 
 

4. 正成系稲葉一族

(1)旗本:稲葉玄蕃家

(寛政年間までの当主)
初代 稲葉 正倚(まさより)【1647~1714】
 稲葉正則の二男、母は毛利秀元の娘。
 1661年(15)に中奥に仕え、1668年(22)に蔵米二千俵を賜りました。1676年(30)に御書院番頭にすすみ、1679年(33)に千俵を加増されました。1682年(36)に千石の加増があり、また蔵米を知行地に改められて上野国内で四千石を知行しました。
 1683年(37)に兄より常陸下野国内で七千石を分け与えられ、これまでの四千石は収められました。1697年(51)に大番頭に転じ、1714年(68)に二条城の守衛となり、現地にて没しました。享年68。
 妻は長門長府藩主 毛利光広の娘。
 
二代 稲葉 正恒(まさつね)【1706~1730】
 稲葉正倚の三男。
 1714年にわずか9歳で家督相続し、寄合に列しました。翌年、旗本 依田守次を召し預けられました。
 1730年(25)に宗家正任が世子なく没すると養嗣子となり、山城淀藩を相続するもわずか二ヶ月で没しました。享年25。
 正室は周防徳山藩主 毛利元次の娘。
 

(2)旗本:稲葉越中守家

(寛政年間までの当主)
初代 稲葉 正直(まさなお)【1654~1725】
 稲葉正則の五男、母は毛利秀元の娘。
 1683年(30)に兄より新墾田二千石を分け与えられ、寄合に列しました。1697年(44)に御使番となり、三河国吉田城を久世重之が賜るときに現地に赴きました。1700年(47)に日光奉行となり、1713年(60)に御小姓組番頭にすすみ、1718年(65)に安藤信友が大坂城代になるときに仰せを承って現地に赴きました。翌年御書院番頭に転じ、1723年(70)に辞職し、その後隠居しました。享年72。
 妻は公家 五条為庸の娘。
 
稲葉 正博(まさひろ)
 土井利益の三男。正直の養子となるも養父より先に没しました。
 正直の弟は土井利長の養子となった利意で、利意の妻は土井利隆の娘。利隆の娘の兄が利益となります。
 
二代 稲葉 正親(まさちか)【1692~1734】
 下野大田原藩主 大田原政清の六男 晴川の子。
 稲葉正直の養子となり、1723年に32歳で家督相続しました。翌年、御使番。火事場見廻りをつとめました。
 1728年(37)に八代将軍 徳川吉宗の日光社参に供奉しました。また、御小姓組番頭にすすみました。 
 1730年(39)に宗家正恒の養嗣子となり、山城淀藩を相続しました。そのため、これまでの知行は収められました。
翌年、奏者番となりました。1734年(43)に大坂城代になって間もなく没しました。享年43。
 正室は旗本 稲葉正直養女(柴田某の娘)。
 

(3)旗本:稲葉主膳家

稲葉 正佐(まさすけ)【1692~1717】
 稲葉正則の十一男。兄正往に養われました。
 1707年(16)に兄より新墾田三千石を分け与えられ、寄合に列しました。
 1716年(25)に中奥の御小姓となりました。享年26。
 妻は旗本 米津田賢の娘。
 
稲葉 正房(まさふさ)【1715~1721】
 稲葉正往の四男。
 正佐の養子となり、1717年にわずか3歳で家督相続しました。享年7。無嗣断絶となりました。
 

(4)稲葉正成の子

稲葉 政貞(まささだ)
 林政行の子、母は稲葉重通の娘。
 父政行が戦死後、母が稲葉正成に配されるとその養子となりました。徳川家康に仕えて御小姓となり、美濃国十七条で千石を賜りました。その後、尾張藩徳川義直の附属となりました。
 
稲葉 正定(まささだ)
 稲葉正成の四男、母は稲葉重通養女 お福(春日局)。
 尾張藩徳川義直に仕え、美濃十七条で千石を賜りました。
 
稲葉 正利(まさとし)【1603~1676】
 稲葉正成の六男、母は稲葉重通養女 お福(春日局)。
 駿河大納言 徳川忠長に仕えました。忠長が除封されると細川忠利に預けられました。
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 日本人名大辞典(講談社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。