こんにちは、勘矢です。
1. 宇和島藩系伊達氏
1657年に秀宗の五男宗純に三万石を分知したので、七万二千石余となりました。三代 宗贇のときに新田分を加えて十万石となりました。
五代 村候は藩政改革を行い、藩校内徳館を創設しました。
幕末の八代 宗城は旗本山口家から養子入りし、四賢候の一人として新政府の樹立に活躍しました。
2. 宇和島藩主一覧
初代 伊達 秀宗(ひでむね)【1591~1658】
伊達政宗の長男、母は側室 飯坂宗康の娘。
1594年(4)に豊臣秀吉の猶子となり、1596年(6)聚楽第で元服し、秀吉の一字を下賜されて秀宗と名乗りました。1600年(10)の関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の人質となりました。1609年(19)に井伊直政の娘 亀姫を正室に迎えました。
1614年(24)の大坂冬の陣に父政宗とともに出陣し、戦後、伊予国宇和郡において十万に千五百石余を賜りました。翌年、宇和島に入りました。就封の際に莫大な費用がかかり、父政宗から六万両を借用しました。1618年(28)から1635年(45)まで返済が行われ、藩の財政に大きくのしかかりました。
1620年(30)に大坂城石垣修築助役を命じられたので、さらに出費がかさみました。政宗が付けた山家公頼(やんべ きんより)は財政責任者として緊縮政策を強行し、藩士の一部で反感が高まっていき、翌年に上意討ちとなって、一族とともに暗殺されました。この件で政宗の怒りを買った秀宗は勘当となり、政宗は宇和島藩を返上しようとしましたが、改易とはなりませんでした。その後、事件の関係者といわれる人々が亡くなることが続き、1653年(63)に半は山家の冤罪を認め、山頼和霊神社が創建されました。
1626年(36)に三代将軍 徳川家光の上洛に供奉しました。1657年に67歳で隠居しました。享年68。
伊達 宗実(むねざね)【1612~1644】
伊達 宗時(むねとき)【1615~1653】
二代 伊達 宗利(むねとし)【1634~1708】
伊達秀宗の三男、母は側室 浅井氏。
三代 伊達 宗贇(むねよし)【1665~1711】
1684年(20)に宗利の婿養子となりました。1693年に29歳で伊予宇和島藩を相続しました。1696年(32)に新田分を加えて十万石の高直しを幕府に認められました。享年47
伊達 宗相(むねすけ)【1697~1709】
四代 伊達 村年(むらとし)【1705~1735】
伊達宗贇の三男、母は側室 中里氏。
五代 伊達 村候(むらとき)【1725~1794】
伊達村年の長男、母は伊達吉村娘。
1735年に11歳で伊予宇和島藩を相続しました。藩政改革を実施し、藩政の再建にある程度成功しました。享年70。
六代 伊達 村寿(むらなが)【1763~1836】
伊達村候の四男、母は鍋島宗茂娘。
七代 伊達 宗紀(むねただ)【1790~1889】
伊達村寿の子、母は側室 田中氏。
1824年に35歳で伊予宇和島藩を相続しました。藩政改革を行い、棄捐令を出すなどして藩債の整理を行いました。1844年に55際で隠居しました。隠居時には六万両の蓄積ができ、これが幕末に雄藩として活躍する基盤となりました。1853年(64)にペリーが来航すると、隠居ながら開国の献策をしました。享年100。
八代 伊達 宗城(むねなり)【1818~1892】
旗本 山口直勝の二男、母は旗本 蒔田広朝娘。
1848年(31)に蛮社の獄で入牢中に脱獄した高野長英を密かに宇和島城下で保護し、蘭学の指導などにあたらせました。さらに適塾出身の蘭方医 村田蔵六(大村益次郎)を招聘して洋楽・兵学を藩士に講義させました。
1853年(36)にペリーが来航すると開国反対と海防強化の外交意見書を幕府に提出しました。老中の阿部正弘、薩摩藩主 島津斉彬、土佐藩主 山内容堂、越前藩主 松平春嶽、佐賀藩主 鍋島閑叟らと親しく、条約締結や将軍継嗣問題が政局の争点になると、これら諸侯とともに開国通商の態度を表明し、将軍継嗣として一橋慶喜を擁立しました。しかし、彦根藩主の井伊直弼が大老となると安政の大獄により、1858年(41)に隠居・謹慎を命じられました。
謹慎が解かれると中央政界に関わりました。1863年(46)の八月十八日の政変後に参与会議の一員となり、1867年(50)の王政復古の大号令後、新政府の議定職、翌年には軍事参謀、外国事務総督を兼任し、ついで外国官知事となり、参議に任ぜられました。1869年(52)に民部卿兼大蔵卿となりました。1871年(54)に欽差全権大臣として清国に派遣されました。享年75。
九代 伊達 宗徳(むねえ)【1830~1905】
伊達宗紀の三男、母は側室 吉見氏。
1837年(8)に義兄宗城の養嗣子となりました。1858年に29歳で伊予宇和島藩を相続しました。殖産興業の推進や富国強兵策を打ち出して藩政改革を断行しました。1869年(40)に版籍奉還し、宇和島藩知事に任ぜられ、1871年(42)に廃藩置県を迎えました。享年76。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。