こんにちは、勘矢です。
1. 伊予吉田藩伊達家
1657年に秀宗の五男宗純が三万石を分知されて宇和郡吉田に陣屋を置いて立藩しました。三代 村豊は元禄赤穂事件の際に浅野内匠頭とともに勅使接待役をつとめました。幕末の宗孝は、伊予宇和島藩主 伊達宗城の実弟です。
2. 伊予吉田藩主一覧
初代 伊達 宗純(むねずみ)【1636~1708】
伊達秀宗の五男、母は側室 吉井氏。
1657年(22)に父の隠居に伴って宇和郡内において三万石を分与されて、吉田に陣屋を構えて伊予吉田藩を立藩しました。この分与には親戚の彦根藩主 井伊直孝・一関藩主 伊達宗勝らが画策したので、兄 宗利は納得せず不仲でした。1671年(36)の伊達騒動に関連した伊達宗勝の子 宗興らを預かりました。
1682年(47)に家臣間の権力争い(山田仲左衛門事件)が起き、その後、宗家宇和島藩が藩政に干渉するようになりました。1691年に56歳で隠居しました。享年73
二代 伊達 宗保(むねやす)【1673~1693】
伊達宗純の二男、母は側室 奥村氏。
1691年に19歳で伊予吉田藩を相続しました。翌年、公家饗応役をつとめました。享年21。
田村家については、こちらもご覧ください。
三代 伊達 村豊(むらとよ)【1682~1737】
伊達秀宗の七男 伊達宗職の二男、母は側室 里見氏。
伊達 村澄(むらずみ)【1717~1735】
伊達村豊の長男、母は赤坂氏。父に先立って没しました。享年19。
四代 伊達 村信(むらのぶ)【1720~1765】
伊達村豊の二男、母は側室 斎藤氏。
1737年に18歳で伊予吉田藩を相続しました。先代からの幕府からの借金や公家饗応役・江戸本所御蔵防火番などの公役負担があって藩の財政は困窮し、さらに虫害や風水害が重なり、財政の悪化が進みました。1763年に44歳で隠居しました。享年46。
五代 伊達 村賢(むらやす)【1745~1790】
伊達村信の二男、母は側室 丹波氏。
1763年に19歳で伊予吉田藩を相続しました。1786年(42)に関東川筋工事を命じられ、また天災により藩財政は困窮し、その負担を農民に転嫁されたため、翌年に強訴未遂が起きました。1790年に46歳で隠居しました。享年46。
伊達 村高(むらたか)【1772~?】
伊達村賢の長男、母は側室 村田氏。1778年(7)に嫡子となり、1789年(18)に病のため嫡子を辞退しました。
六代 伊達 村芳(むらよし)【1778~1820】
伊達村賢の二男、母は側室 村田氏。
1790年に13歳で伊予吉田藩を相続しました。1792年(15)に領内の山間部の農民の間で行われていた製紙を専売制として藩財政の打開のために行いました。しかし、農民側は借金が累積していき、ついに一揆を起こしました。宇和島藩が調停に入り、一揆勢の要求を認めたため、一揆勢の勝利となりました(武左衛門一揆)。
1794年(17)に藩校時観堂を創設しました。1816年に39歳で隠居しました。享年43。
日本古典作者事典
七代 伊達 宗翰(むねもと)【1796~1845】
宇和島藩主 伊達村寿の子、母は側室 田中氏。
1816年(21)に婿養子となって、伊予吉田藩を相続しました。1843年に48歳で隠居しました。享年50。
正室は伊達村芳の娘 敬。
八代 伊達 宗孝(むねみち)【1821~1899】
旗本 山口直勝の三男、母は旗本 蒔田広朝娘。
1839年(19)に宗翰の養嗣子となり、1843年に23歳で伊予吉田藩を相続しました。藩政を軽視し、派手な生活をしたため、大坂の豪商に借金をしました。佐幕派の立場を取っていたため、新政府が樹立すると、宇和島藩主の実兄 伊達宗城のとりなしで新政府に陳謝しました。1868年に48際で隠居しました。その後、明治天皇の侍従となりました。享年79。
九代 伊達 宗敬(むねよし)【1851~1876】
旗本 山口直信の二男。直信は先代宗孝の兄。
正室は伊達宗孝の娘 信。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。