探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

仙台藩伊達一門

こんにちは、勘矢です。
今回は仙台藩伊達一門について調べたことをまとめました。
 
 

1. 仙台藩 伊達一門

 仙台藩伊達家で一門と称される家は11家あります。岩出山伊達氏や川崎伊達氏など伊達家の血縁者もいますが、多くは伊達家にとって外様的な家で、その多くが伊達家から養子が送り込まれた家でした。その内、留守氏・白石氏・亘理氏・岩城氏は伊達姓を与えられました。
 

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仙台藩伊達氏一門略系図
 
 

(1)石川氏

 一門の筆頭に位置づけられる石川氏は、清和源氏の一族で陸奥国石川郡(福島県)発祥です。源義家に従っていた有光が石川荘に移り、石川を称したことからはじまります。南北朝時代北朝側に属し、その後は結城氏の影響下にありました。
 昭光のとき、小田原への不参陣を咎められて改易されました。その後、伊達政宗の家臣となりました。陸奥国伊具郡角田(宮城県角田市)で一万石となり、その後代々続き、幕末には二万千三百石余を領しました。
 
石川 昭光(いしかわ あきみつ)【1550~1622】
 伊達晴宗の四男。政宗の叔父。石川晴光の養子となりました。人取橋の戦いでは蘆名・佐竹氏側に付いて政宗と戦いました。摺上原の戦い後に政宗に降伏しました。その後、政宗の家臣となり、一門筆頭として兄の留守政景とともに政宗を支えました。1614年の大坂冬の陣には65歳と高齢にも関わらず参陣しました。享年73。
 

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石川氏略系図
 
 

(2)亘理伊達氏

 伊達稙宗の三男実元からはじまり、子の成実は、1591年に陸奥伊具郡を与えられて角田城に拠りました。その後、出奔するものちに許されました。1602年に亘理城で二万石を領しました。
 成実の跡は、伊達政宗の九男宗実が継ぎ、のちに加増があり二万四千三百五十石となりました。
 明治維新後、邦成は旧臣を率いて北海道有珠郡紋別村(紋別市)に移住しました。1892年に男爵となりました。
 
伊達 成実(だて しげざね)【1568~1646】
 伊達実元の嫡男。政宗の従兄弟にあたり、幼少時から片倉景綱とともに政宗を補佐しました。享年79。
 

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亘理伊達氏略系図
 
 

(3)水沢伊達氏(留守氏)

 留守氏は、源頼朝の奥州征伐後に陸奥国留守職にに任ぜられた伊沢家景が留守氏を称したことにはじまります。室町時代以降、伊達氏から度々養子を迎えています。
 伊達晴宗の三男政景が留守氏を継ぎ、江戸時代に陸奥磐井郡黄海岩手県一関市)で二万石を領して一門に列し、伊達姓を名乗りました。1629年に子の宗利が水沢に移りました。明治維新後、留守氏に復しました。
 
留守 政景(るす まさかげ)【1549~1607】
 伊達晴宗の三男。留守氏の養子となり、反伊達の叛乱を一掃しました。政宗の勢力拡大を支えていました。小田原征伐に遅参したため所領を没収されました。その後、伊達家から二万石を与えられて政宗の家臣となりました。1600年の慶長出羽合戦では最上氏救援に向かい、上杉軍を撤退させました。享年59。
 

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水沢伊達氏略系図
 
 

(4)涌谷伊達氏(亘理氏)

 亘理氏を継いだ伊達稙宗の十二男元宗の子孫が、1606年に伊達姓を賜って、一門に列せられ、涌谷で二万六千石を領したことにはじまります。
 伊達騒動で有名な伊達安芸宗重は涌谷伊達氏の当主で、幼君綱村派の頭目とみなされました。伊達宗勝らの非違を幕府に訴えて、藩政の正常化を図ろうとしました。大老酒井忠清邸での取調べの際に、伊達安芸は同席した原田甲斐によって突如斬りつけられて落命しました。
 伊達安芸の子 宗元は、日光廟修営の普請総奉行をつとめました。明治維新後、亘理氏に復しました。
 
亘理 元宗(わたり もとむね)【1530~1594】
 伊達稙宗の十二男。政宗の大叔父。亘理氏に養子入りし、一門の重鎮として、軍事・外交で重用されました。政宗の所領替えのため、陸奥国涌谷城に移されました。享年65。
 

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涌谷伊達氏系図
 
 

(5)登米伊達氏(白石氏)

 白石氏は奥州藤原氏の流れをくむ刈田氏の末裔で、白石宗綱が伊達晴宗に仕え、孫の宗実は輝宗・政宗父子に仕えました。宗実は胆沢郡水沢城に移され、一万五千石を領しました。
 宗実には男子がなかったため、娘婿の梁川宗直(梁川宗清の長男)が家督を継ぎました。宗直は慶長出羽合戦で武勲をあげました。そして、一門に列せられて伊達姓の名乗りを許されました。その後、登米郡に移されて、子孫は幕末に二万石を領しました。
 宗貞の長女は仙台藩伊達忠宗の子 五郎吉を婿に迎えましたが、五郎吉が早世すると一門石川宗敬の二男宗信の妻となり、宗信は白石姓を名乗りました。宗信には子がなかったため、弟の貞弘が継ぎましたが早くに没しました。
 登米伊達家は五郎吉の弟 宗倫が宗直の二女の婿となって相続しました。
 
白石 宗実(しろいし むねざね)【1553~1599】
 伊達輝宗政宗父子に仕えました。二本松氏との激しい抗争がされる中、相馬義胤の和睦勧告を政宗に取り次ぎ、和睦成立に貢献しました。これを評価され、加増されました。しかし、1590年の小田原征伐後に政宗岩出山に減移封されると宗実の所領も没収され、代わりに胆沢郡水沢城一万五千石を与えられました。享年47。
 

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登米伊達氏略系図
 
 

(6)岩谷堂伊達氏(岩城氏)

 1590年に岩城常隆が豊臣秀吉の麾下に属したものの相模で戦死し、岩城氏は断絶しました。その子政隆は1607年に仙台に来て伊達政宗に謁し、伊達氏を称することを許されて、子の国隆のときに一門に列しました。
 国隆の跡は仙台藩伊達忠宗の子宗規を養子に迎え、1659年に江刺郡岩谷堂に封ぜられて、子孫は幕末に五千石を領しました。明治維新後は岩城氏に復しました。
 

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岩谷堂伊達氏略系図
 
 

(7)宮床伊達氏

 伊達宗朝の六男実綱からはじまり、のちに田手氏を称して代々角田城に拠り、伊達本家の重臣でした。
 江戸時代に仙台藩二代藩主 伊達忠宗の八男宗房が継いで伊達姓に復して一門に列せられ、三千石を領しました。1722年に陸奥黒川郡宮床(宮城県大和町)に移りました。
 

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宮床伊達氏略系図
 
 

(8)岩出山伊達氏

 伊達政宗の四男宗泰が1603年に陸奥玉造郡岩出山宮城県大崎市)を与えられたのがはじまりで、子の宗敏は一門に列せられ、一万五千石余を領しました。
 明治維新後、邦直は北海道石狩郡当別当別町)に移住しました。1892年に正人が男爵となりました。
 

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岩出山伊達氏略系図
 
 

(9)川崎伊達氏

 仙台藩三代藩主伊達綱宗の二男村和が1695年に三万石を分知されて水沢藩を立藩したことからはじまります。水沢藩はわずか5年で廃藩となりました。子の村詮のときに柴田郡川崎(宮城県川崎町)に移り、一門として二千石を領しました。
 
伊達 村和(むらより)【1661~1722】
 伊達綱宗の二男、母は側室 三沢清長娘 初子。
 初め、一門の水沢伊達家の宗景の養子となり。1675年(15)に相続しました。1695年(35)に兄綱村から三万石を分与され、水沢伊達家から別家となり、水沢藩を立藩しました。1699年(39)に旗本 岡孝常と論争となり、喧嘩両成敗で除封となり、国許で蟄居となりました。享年62。
 

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川崎伊達氏略系図
 
 

(10)白河氏

 陸奥国白河郡(福島県)の発祥で、結城氏の分流。鎌倉時代末期に白河に移り、南北朝時代南朝側に属しました。その後、内紛によって勢力が衰え、1590年に豊臣秀吉によって取り潰されました。その後、伊達政宗に召されて客分となり、四代 綱村の代に一門に列せられました。
 

(11)三沢氏

 三沢氏は出雲国仁多郡三沢郷(島根県仁多郡奥出雲町)の発祥で、山陰の戦国大名尼子氏の家臣でした。
 江戸時代の三沢清長の娘初子は、三代仙台藩伊達綱宗の側室となって世子 綱村産み、初子の兄弟宗直が仙台藩に召し出されました。綱村の代に一門に列せられました。胆沢郡前沢(岩手県奥州市)で三千石を領しました。
 
仙台藩については、こちらもご覧ください。
 
参考文献:
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 宮城縣史2 近世史
 江刺市史 第二巻 通史篇 近世
 伊達市開拓記念館所蔵 亘理伊達家史料(伊達市開拓記念館)
 川崎町誌 通史編
 登米町誌 第一巻
 水沢市史3 近世(上)
 涌谷町誌 上
 玉造郡誌(国立国会図書館デジタルコレクション
 修訂版 石川氏一千年史(角田市史別館Ⅰ)
 戦国大名家臣団大全(Standards)
 読みなおす日本史 陸奥伊達一族(高橋富雄/吉川弘文館
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。