こんにちは、勘矢です。
1. 畠山氏とは
桓武平氏の秩父重綱の子重弘が、武蔵国男衾郡畠山荘(埼玉県深谷市)に住んで畠山を称したのがはじまりです。重弘の孫 重忠は当初平家側に属していましたが、のちに源頼朝に従いました。鎌倉幕府成立後は有力御家人となって武蔵国比企郡菅谷(埼玉県比企郡嵐山町)に住みました。しかし、1205年に執権北条氏によって謀反の疑いをかけられて滅亡しました。
室町時代に河内畠山氏能登畠山氏に分かれました。河内畠山氏の基国は1391年に明徳の乱で山名氏清を討ち、1398年に管領となりました。満家・持国は河内・紀伊・越中の守護を世襲しましたが、持国の養子となった政長と晩年の実子 義就との家督争いが起きて応仁の乱の一因となりました。それ以降、河内畠山氏は2つに分裂しました。
一方の義就は、政長派と緒戦に敗れて伊賀に逃れ、1455年に八代将軍 足利義政の仲介によって帰京し、政長と和睦しました。しかし、1460年に義政によって京を追われて河内に逃れました。1466年に幕府の有力者山名宗全が義就を支持したことにより、入京して政長討伐の兵をあげて、応仁の乱へと突入していきました。両陣営の総大将 細川勝元と山名宗全が相次いで世を去ったあとも戦いは続きました。
義就の子 義豊は政長系の畠山氏との戦いで戦死しました。その孫の義堯は三好氏と結んだものの、一向一揆に攻められて滅亡しました。
2. 畠山一族
(1)鎌倉時代~応仁の乱以前
畠山 義純(よしずみ)【1176~1210】
足利義兼の長男。はじめ新田義兼の娘と結婚しましたが、畠山重忠が討たれると重忠の妻と再婚しました。義兼の娘との子は時兼は岩松氏を称しました。享年35。
畠山 高国(たかくに)【1305~1351】
高国の子孫は、二本松に住んで二本松氏を称しました。戦国時代には、伊達氏と蘆名氏のはざまで苦しみ、義継は伊達輝宗を拉致しましたが、救出に向かった伊達勢の銃撃で最期をとげました。その子 義綱のときに滅亡しました。
畠山 国清(くにきよ)【?~1362】
畠山 義深(よしふか)【1331~1379】
畠山 基国(もとくに)【1352~1406】
畠山 満家(みついえ)【1372~1433】
畠山 持国(もちくに)【1398~1455】
(2)政長系畠山氏
畠山 政長(まさなが)【1442~1493】
畠山 尚順(ひさのぶ)【1475~1522】
畠山政長の子。十代将軍 足利義材(のち義稙)に呼応して、畠山義豊を討ちましたが、義豊の子 義英と細川政元に敗れました。義稙が将軍に復帰すると、河内・紀伊・越中守護となりました。1520年に家臣に移背かれて堺、淡路に逃れました。享年48。
畠山 稙長(たねなが)【1504~1545】
畠山尚順の子。河内高屋城主。1534年に弟 畠山長経を推す家臣らに城を追われました。1542年に長経の反乱を鎮圧して高屋城に入りました。享年42。
畠山 政国(まさくに)【?~1550】
畠山 高政(たかまさ)【1527~1576】
畠山 昭高(あきたか)【1545~1573】
畠山政国の子。兄高政が追われた後、遊佐信教らによって推され、高屋城主となりました。のちに信教と対立し討たれました。享年29。
畠山 貞政(さだまさ)【1557~1641】
子孫は高家として存続しました。
(3)義就系畠山氏
畠山 義就(よしなり)【1437~1490】
畠山 義豊(よしとよ)【?~1499】
畠山 義英(よしひで)【?~?】
畠山 義堯(よしたか)【?~?】
畠山義英の子。三好政長に味方しました。木沢長政に攻められて自害しました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
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