こんにちは、勘矢です。
今回は吉良上野介の一族について調べたことをまとめました。
1. 吉良氏とは
吉良氏は足利一門でも別格に位置付けられていました。それは、吉良氏が足利氏当主の兄の血筋であるからです。ほかにも石橋氏、渋川氏も同様に別格の扱いをされ足利御三家ともいわれたそうです。名門として厚遇はされるものの、大守護にはなれませんでした。
嫡流は西条吉良氏を称し、戦国時代に滅亡しました。
西条吉良氏から分かれたのが東条吉良氏で、戦国時代に西条吉良氏の義安が東条吉良氏の養子となり、西条吉良氏が滅亡後、徳川家康の命で両家を統合しました。
義弥は徳川秀忠に仕えて本領の三河吉良で三千石を与えられ、旗本となり、のちに高家となりました。義央(上野介)が元禄赤穂事件で浅野長矩に斬りつけられて隠居し、養子の義周が跡を継ぎました。しかし、赤穂浪士に討ち入られて義央は殺され、義周は信濃高島に流されて断絶しました。
義央の弟義叔は東条を称して旗本となり、義孚のときに吉良に復しました。
足利氏についてはこちらをご覧ください。
2. 高家吉良家
吉良 義定(よしさだ)【1564~1627】
吉良義安の長男、母は松平清康娘。
享年64。妻は今川氏真の娘。
初代 吉良 義弥(よしみつ)【1586~1643】
吉良義定の長男、母は今川氏真の娘。
1600年(15)の関ケ原の戦いに供奉し、その後本領の吉良において三千石を賜りました。1623年(38)に明正天皇が誕生したとき、御使をうけたまわり上洛しました。その後も何度か御使をうけたまわり上洛しました。享年58。
妻は高家 今川範以の娘(義定妻の姪)。
二代 吉良 義冬(よしふゆ)【1607~1668】
吉良義弥の長男、母は今川範以の娘。
1643年に37歳で相続しました。また、相続以前にたまわった千石を合わせて四千石を知行しました。義冬もまた度々命を受けて上洛しました。享年62。
妻は旗本 酒井忠吉の娘。
三代 吉良 義央(よしなか)【1641~1702】
吉良義冬の長男、母は酒井忠吉の娘。
妻は出羽米沢藩主 上杉定勝の娘。
四代 吉良義周(よしちか)【1686~1706】
3. 江戸時代の吉良一族
江戸時代以降、吉良家の分家は別の苗字に称しています。調べてみて、何か不祥事を起こしたりしている人が多いように感じました。また、駿府城の守衛に任命されたことが多いようです。
(1)吉良一門
岡山 弥清(みつきよ)【?~1670】
吉良義弥の二男、母は今川範以の娘。
1636年に御書院の番士に列し、1639年に廩米三百俵を賜りました。
岡山 弥信(みつのぶ)【?~?】
某氏の子。弥清の養子となり、1670年に相続しました。1676年に御書院番に列しました。1692年に「勤士の志なき」により廩米を公収され、従弟義央の元に居しました。
東条 義孝(よしたか)【?~1688】
吉良義冬の三男、母は酒井忠吉の娘。吉良義央の弟。
1678年に御書院の番士となり、1680年に廩米三百俵を賜りました。1685年、駿府城の守衛にあるときに言上すべきことを申さなかったため閉門となり、のちに赦されました。
東条 冬重(ふゆしげ)【?~?】
吉良義冬の五男、母は酒井忠吉の娘。吉良義央の弟。
兄義孝の養子となり、1688年に相続しました。1697年御書院番に列しました。1701年に小普請に貶され、某年に没し、嗣子なく絶えました。
妻は平岡某の娘。
(2)旗本:吉良左馬四郎家
(寛政年間までの当主)
初代 東条 義叔(よしすえ)【?~1709】
吉良義冬の二男、母は酒井忠吉の娘。吉良義央の弟。
1661年に中奥の御小姓となり、翌年、廩米五百俵を賜りました。1694年にその勤めがよろしくないため小普請に貶され、出仕をはばかり、のちに赦されました。1697年に廩米を改められ、武蔵国内で五百石を賜りました。
東条 冬貞(ふゆさだ)【?~1704】
吉良義冬の四男、母は酒井忠吉の娘。吉良義央の弟。
1693年に御小姓組の番士に列しました。父に先立ちました。
二代 東条 義武(よしたけ)【?~1722】
旗本 柘植兄正の三男、母は荒川定昭の娘。母は吉良一族の荒川氏の娘で先代義叔とは"はとこ"の関係となります。
1709年に相続しました。
妻は旗本 立花種澄の娘(筑後三池藩の分家)。
三代 吉良 義孚(よしざね)【?~1766】
旗本 柘植影正の二男、母は織田信相の娘。先代義武の甥にあたります。
1723年に相続しました。1732年に吉良姓に改めました。1748年に西の丸の御書院番となり、1760年に番を辞職しました。
妻は福富氏の娘。
四代 吉良 義勝(よしかつ)【1743~1777】
吉良義孚の長男、母は福富氏の娘。
1766年に24歳で相続しました。1771年(29)に御書院番に列しました。享年35。
妻は旗本 山本正識の娘。
五代 吉良 義渡(よしかず)【1761~?】
吉良義勝の長男、母は山本正識の娘。
妻は吉益忠徴の娘。
六代 吉良 義質(よしかた)【1765~?】
吉良義勝の二男、母は山本正識の娘。
1791年に27歳で相続しました。
妻は旗本 設楽能荷の娘。
(3)旗本:荒川三郎兵衛家
(寛政年間までの当主)
初代 荒川 定安(さだやす)【1599~1656】
吉良義定の二男、母は今川氏真の娘。
1623年(25)に御書院番に列し、三河国内で五百石の采地を賜りました。1633年(35)に武蔵国内で二百石を加えられ、1636年(38)に組頭となり、1650年(52)に御書院の番頭にすすみました。1651年(53)千石の加増があり合わせて千七百石を知行しました。享年58。
荒川 持暇(もちやす)【?~?】
荒川定安の長男。1636年に御手水番となり、1639年に御前番にうつり四百石を加えられこれまでの采地と合わせて七百石を知行しました。しかし、翌年不祥事を起こしたため、父定安に預けられました。
二代 荒川 定昭(さだあき)【1642~1714】
荒川定安の二男。
1654年(13)に御小姓組の番士となり、1656年に15歳で相続しました。1664年(23)に御書院番の組頭に転じました。1671年(30)に御小姓組の番頭にすすみ、千石を加えられました。1673年(32)廩米千俵を加増され、翌年御書院の番頭にうつりました。1682年(41)に千俵の加増がありました。1685年(44)駿府城の守衛にあったときに不祥事があり、陸奥二本松藩主 丹羽長次に召し預け召し預けられました。翌年赦免されのちに廩米千俵を賜り、1697年(56)に廩米を改め、武蔵・相模国内で采地を賜りました。1706年に65歳で隠居しました。享年73。
荒川 定恒(さだつね)【?~1689】
荒川定昭の長男。
三代 荒川 定由(さだよし)【1670~1721】
荒川定昭の二男。1685年に父が罪によって、兄とともに陸奥二本松藩主 丹羽長次に召し預けられ、翌年赦されました。1706年に37歳で相続しました。1709年(40)に御使番になりました。翌年、志摩鳥羽城を板倉重治が賜るにより、仰せをうけて城引渡しの役をつとめました。1716年(47)関東の国々などを巡視しました。翌年、不始末を起こしたため出仕をとどめられ、その後赦されました。享年52。
四代 荒川 定長(さだなが)【1705~1726】
荒川定由の長男、母は織田信門の娘。1721年に17歳で相続しました。1724年(20)に御小姓組に列しました。享年22。
五代 荒川 定親(さだちか)【1710~1777】
旗本 星合顕行の四男。1726に17歳で相続しました。1731年(22)に御小姓組の番士となり、1745年(36)に西の丸に勤士しました。将軍吉宗が亡くなると番をゆるされ、その後、御書院の番士となりました。1777年 (68)駿府城の守衛にあるときに亡くなりました。享年68。
妻は荒川定長の養女(荒川定由の娘)、後妻は旗本 島田良安の娘、後々妻は旗本 中野尹良の娘。
六代 荒川 定政(さだまさ)【1726~1779】
荒川定長の二男。
1743年(18)に西の丸の御書院番に列しました。1777年に52歳で相続しました。享年54。
妻は旗本 高木正秋の娘。
七代 荒川 定候(さだとき)【1758~?】
荒川定政の長男、母は高木正秋の娘。
1779年に22歳で相続しました。翌年、御書院の番士となりました。
妻は旗本 小川子雍の娘。
(4)旗本:一色靱負家
(寛政年間までの当主)
初代 一色 定堅(さだかた)【1612~1666】
吉良義定の三男、母は今川氏真の娘。
はじめ駿河大納言 徳川忠長に仕えました。のちに旗本となり、1642年 (31)に御書院の番士となり、翌年、廩米五百俵を賜りました。享年55。
妻は小野某の娘。
二代 一色 定尚(さだなお)【1654~1717】
一色定堅の二男、母は小野某の娘。
1666年に13歳で相続しました。1683年(18)に御書院番に列しました。1685年(20)に駿府城の守衛にあったときの不始末により閉門となり、のちに赦されました。1688年(23)に御書院番に復し、1690年(25)に辞職しました。1697年(32)に廩米を改められ、常陸国内において采地五百石を賜りました。1709年に56歳で隠居しました。享年64。
妻は旗本 品川高寛の娘(高家 品川家分家)。
三代 一色 定弘(さだひろ)【1689~1744】
旗本 柴崎正勝の二男。
妻は旗本 長谷川安定の娘。
四代 一色 定武(さだたけ)【1716~1772】
一色定弘の長男、母は長谷川安定の娘。
1744年に29歳で相続しました。翌年、西の丸の御書院番に列し、1766年(51)に番を辞職しました。1768年に53歳で隠居しました。享年57。
妻は旗本 佐久間信詮の娘。
五代 一色 定之(さだくに)【1742~?】
一色定武の男、母は佐久間信詮の娘。
1768年に27歳で相続しました。1771年(30)に御書院の番士となり、1775年(33)に進物役をつとめ、翌年これを辞職しました。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
歴史REAL 足利将軍15代(洋泉社MOOK)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。