こんにちは、勘矢です。
今回は安芸広島藩の浅野一族について調べたことをまとめました。
1. 浅野氏とは
長晟の庶子長治は備後三次 五万石を分知されましたが、五代藩主 長寔が幼少で亡くなったため断絶し、所領は宗家に戻されました。
広島藩五代藩主 綱長の子長賢は、兄吉長より蔵米三万石を分知され、江戸青山の屋敷に住んだため青山内証分家と呼ばれました。1869年に宗家に合併されました。
幕末、世子の長勲は国事に奔走し、維新後に家督を相続しました。その後、侯爵となり、外交官などを歴任し、昭和初期まで存命しました。
2. 広島藩主浅野家
初代 浅野幸長(よしなが)【1576~1613】
浅野長政の長男、母は浅野長勝の娘やや。
1590年(15)の小田原の陣で初陣しました。1592年(17)の文禄の役では肥前名護屋の本営に出陣しました。翌年父長政とともに甲斐一国二十二万五千石を賜り、その内十六万石を父から与えらえれました。同年、朝鮮に渡り翌年帰国しました。
二代 浅野 長晟(ながあきら)【1586~1632】
浅野長政の二男、母は浅野長勝の娘やや。
1610年(25)に北政所の守護を命ぜられて大坂から京に移り、備中足守二万四千石を与えられて諸侯に列しました。
1613年(28)に兄幸長が病没すると、家康の命により遺領の相続を命じられ、これまでの所領と合わせて四十万余石となりました。大坂の冬の陣、夏の陣に出兵してその軍功を賞されました。1616年(31)に徳川家康の三女振姫を正室に迎えました。1619年(34)に福島正則が改易されるとその領地安芸広島四十二万六千五百石となりました。享年47。正室は徳川家康の三女振姫。
三代 浅野 光晟(みつあきら)【1617~1693】
浅野長晟の二男、母は徳川家康の三女振姫。
1627年(11)に三代将軍徳川家光と従兄弟という関係もあり、家光の前で元服式を行い、松平姓を下賜されました。1632年に16歳で安芸広島藩を相続し、庶兄長治に五万石を分与(備後三次藩)しました。1672年に56歳で隠居しました。享年77。正室は三代将軍 徳川家光養女(加賀金沢藩主 前田利常の娘)満。
四代 浅野 綱晟(つなあきら)【1637~1673】
浅野光晟の嫡男、母は前田利常の娘。
五代 浅野 綱長(つななが)【1659~1708】
浅野綱晟の嫡男、母は九条道房の娘。
1673年に15歳で安芸広島藩を相続しました。祖父の光晟が後見しました。綱長在任中に分家播磨赤穂藩主 浅野長矩が江戸城で刃傷事件を起こしました。享年50。正室は尾張藩主 徳川綱誠の養女(徳川光友の娘)貴姫。
尾張藩主についてはこちらをご覧ください。
六代 浅野 吉長(よしなが)【1681~1752】
浅野綱長の長男、母は徳川綱誠の養女貴姫。
1708年に28歳で安芸広島藩を相続しました。藩政改革を実行しました。
1719年(39)に分家備後三次藩主 浅野長経が嗣子なく没すると一旦所領は広島藩に還付されましたが、長経の弟長寔に再び五万石を与えて三次藩の存続を図りましたが翌年に長寔も没したため三次藩は断絶しました。
七代 浅野 宗恒(むねつね)【1717~1787】
浅野吉長の長男、母は前田綱紀の娘。
八代 浅野 重晟(しげあきら)【1743~1813】
浅野宗恒の長男。
1763年に21歳で安芸広島藩を相続しました。危機的状態の藩財政の建て直しにつとめました。また、藩校修道館を創設しました。1799年に57歳で隠居しました。享年71。正室は尾張藩主 徳川宗勝の娘 邦姫、継室は徳川宗勝の娘 陽姫で先妻の妹。
九代 浅野 斉賢(なりかた)【1773~1830】
浅野重晟の二男、母は徳川宗勝の娘 陽姫。
十代 浅野 斉粛(なりたか)【1817~1868】
徳川将軍家の姫についてはこちらをご覧ください。
十一代 浅野 慶熾(よしてる)【1836~1858】
浅野斉粛の子、母は奥弥三兵衛の娘。
紀州藩主についてはこちらをご覧ください。
十二代 浅野 長訓(ながみち)【1812~1872】
浅野長懋の五男、母は久松能桂の娘。
父の浅野長懋は十代藩主斉粛の叔父にあたります。1818年(7)に父の従兄弟にあたる青山内証分家の浅野長容の養子となり、1824年に13歳で相続しました。
1858年(47)に急遽宗家の安芸広島藩を相続しました。広島藩主時代は茂長(もちなが)を名乗りました。洋式兵制による軍備の充実を中心とする藩政改革を推進しました。1862年(51)に近衛関白からの内勅を受けて中央政局にも参加するようになりました。長州征伐では征長軍の基地となりましたが、第一次のときは家臣の献策を容れて和議を斡旋し、第二次のときは征長の名分が明らかでないことを理由に出陣を断り、休戦による事態の収拾を図りました。
その後、薩長同盟が成立すると広島藩も倒幕の盟約を求められ、これに参加する一方、土佐藩と同調し幕府への政権奉還の建白書の提出をしました。大政奉還、王政復古、戊辰戦争と政局が変わるなかで広島藩は主流から離れました。明治維新後に長訓に名を戻しました。1869年に58歳で隠居しました。享年61。正室は青山内証分家 浅野長容の娘 峻姫。
十三代 浅野 長勲(ながこと)【1842~1937】
浅野懋昭の子、母は沢義質の娘。
父の浅野懋昭は十二代藩主 浅野長訓の弟になります。1856年(15)に伯父で青山内証分家の浅野長訓の養嗣子となり、1858年に17歳で相続しました。青山内証分家の当主時代は長興を名乗りました。
1862年(21)に宗家 長訓の養嗣子となり、十四代将軍家茂の一字を賜り茂勲と名乗りました。広島藩の世子として国事に奔走しました。大政奉還後の小御所会議に出席し、その後議定に任ぜられました。また、名を長勲と改めました。
1869年に28歳で安芸広島藩を相続しました。また、議政官が設置されると参与になりました。同年、版籍奉還して広島藩知事となり、1871年(30)に廃藩置県を迎えました。享年96。正室は土佐藩主 山内豊熙の娘 綱子。
3. 浅野一族
(1)三次藩浅野家
初代 浅野 長治(ながはる)【1614~1675】
浅野 長尚(ながなお)【1644~1666】
広島藩主 浅野光晟の二男、母は前田利常の娘。
1655年(12)に長治の養子となりました。享年23。
二代 浅野 長照(ながてる)【1652~1705】
広島藩主 浅野光晟の三男、母は前田利常の娘。
兄長尚が亡くなったあと、長治の養子となりました。1675年に24歳で備後三次藩を相続しました。1691年に40歳で隠居しました。1701年(50)に親族で赤穂藩主の浅野長矩の刃傷事件に連座して謹慎を命ぜられました。享年54。正室は尾張藩主 徳川光友の養女(公家 広幡忠幸の娘)園姫。
三代 浅野 長澄(ながずみ)【1671~1718】
四代 浅野 長経(ながつね)【1709~1719】
浅野長澄の三男、母は側室 秋月殿。
五代 浅野 長寔(ながざね)【1713~1720】
浅野長澄の子、母は側室 秋月殿。
(2)広島新田藩浅野家(青山内証分家)
初代 浅野 長賢(ながかた)【1693~1744】
広島藩主 浅野綱長の三男。
1710年(18)に六代将軍徳川家宣に拝謁したときに松平姓を下賜されました。1730年(38)に兄吉長から廩米三万石を分与され広島新田藩を立藩しました。新田藩とは特定の領地を所有せず、宗藩が収納した廩米を受け取る形でした。江戸に住む定府大名でした。享年52。
二代 浅野 長喬(ながたか)【1732~1769】
浅野長賢の子。
1744年に13歳で青山内証分家を相続しました。享年38。
三代 浅野 長員(ながかず)【1745~1808】
広島藩主 浅野宗恒の三男。
1770年に26歳で青山内証分家を相続しました。1800年に56歳で隠居しました。享年64。
四代 浅野 長容(ながかね)【1771~1824】
浅野長員の嫡男。
五代 浅野 長訓(ながみち)【1812~1872】
浅野長懋の五男、母は久松能桂の娘。
1818年(7)に父の従兄弟にあたる青山内証分家の浅野長容の養子となり、1824年に13歳で相続しました。1858年(47歳)に急遽宗家の安芸広島藩を相続しました。
広島藩主浅野家十二代 浅野 長訓の項をご覧ください。
六代 浅野 長興(ながおき)【1842~1937】
浅野懋昭の子、母は沢義質の娘。
1856年(15)に伯父で青山内証分家の浅野長訓の養嗣子となり、1858年に17歳で相続しました。1856年(15)に伯父で青山内証分家の浅野長訓の養嗣子となり、1858年に17歳で相続しました。1862年(21)に宗家 長訓の養嗣子となりました。
広島藩主浅野家十三代 浅野 長勲の項をご覧ください。
七代 浅野 長厚(ながあつ)【1843~1873】
浅野懋績の四男。
1862年に20歳で青山内証分家を相続しました。1865年に安芸吉田に陣屋を設け、萩藩に備えました。1869年(27)に版籍奉還して宗家と合併しました。享年31。正室は一族 浅野懋昭の娘(浅野長勲の姉妹)。
(3)播州赤穂浅野家
赤穂浅野家についてはこちらをご覧ください。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。