こんにちは、勘矢です。
今回は尾張藩分家について調べたことをまとめました。
1. 美濃高須松平家
高須三代藩主 義淳は、尾張七代藩主 宗春の養子となって宗勝と改名して八代藩主となりました。
また、藩主にはなりませんでしたが、尾張藩九代 宗睦の養子に高須藩 五代義柄が入り、治行と改名しました。宗睦には長男 治休、二男 治興がいましたが、相次いで亡くなったため、治行を養子に迎えました。しかし、治行も宗睦より先に亡くなり、嫡子五郎太も後を追うように早世し、宗睦の弟勝長の子 勇丸を養子に迎えるも先立たれました。
尾張藩主徳川宗勝には多くの男子がありましたが、尾張藩の付家老竹腰家や譜代大名の井上家や内藤家に養子に出されていました。ほかに適齢の男子がいなかったため、十一代将軍 徳川家斉の子 敬之助を養子に迎えましたがこれにも先立たれました。最後に養子に迎えた将軍 家斉の甥にあたる斉朝(一橋治国の長男) が跡を継ぎました。
2. 陸奥梁川松平家
義昌の六男 義武は、1711年に川田久保家の友著とともに譜代の列を仰せ付けられました。
初代 松平 義昌(よしまさ)【1651~1713】
徳川光友の長男、母は側室 勘解由小路(公家 樋口信孝の娘)。
二代 松平 義方(よしかた)【1686~1721】
松平義昌の五男、母は丹羽光重の娘。
三代 松平 義真(よしざね)【1714~1729】
松平義方の嫡男、母は浅野綱長の娘。
【再興】初代 松平 通春(みちはる)【1696~1764】
徳川綱誠の二十男、母は側室 湯本氏。
3. 川田久保家
尾張藩二代藩主 徳川光友の十一男 友著が1706年に川田窪(東京都新宿区市ヶ谷河田町)に屋敷を与えられて分家し、蔵米一万石を与えられたことからはじまります。1732年に子の友淳が美濃高須藩を相続したために川田久保家は二代で絶家となりました。
初代 松平 友著(ともあき)【1678~1728】
徳川光友の十一男、母は側室 梅の枝(鈴木氏)。
1706年(29)に分家し、1711年(34)に譜代大名に列しました。甥の宗春とともに、将軍吉宗に目をかけられ諸行事に参加したり、鷹狩りの獲物を下賜されたりしました。
二代 松平 友淳(ともあつ)【1705~1761】
松平友著の長男、母は側室 お繁(湯本氏)。
父が正室を迎える前に設けた子であったため、幕府への届け出は遅れされ、祖母の縁者鈴木氏の元で養育されました。1728年(24)に父が没すると川田久保家を相続しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
徳川一族大全(廣済堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。