探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

尾張藩分家~高須松平家・梁川松平家・川田久保家~

こんにちは、勘矢です。
今回は尾張藩分家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 美濃高須松平家

 前々回(美濃高須藩 松平家 - 探検!日本の歴史)に書きました高須松平家には、宗家に後継者がいない場合に相続人を出す役割もありました。高須松平家から尾張徳川家の当主になった人物は3名います。
 高須三代藩主 義淳は、尾張七代藩主 宗春の養子となって宗勝と改名して八代藩主となりました。
 高須十代藩主 義建の子 義恕は、尾張十三代藩主 慶藏の養子となって慶恕と改名し、十四代藩主となりました。また、諱は隠居謹慎を解かれたのち、慶勝に改名しました。
 高須十一代藩主 義比は、兄慶恕(のち慶勝)が江戸城不時登城したことにより隠居謹慎となったため、その養子となって茂徳と改名し、尾張十五代藩主となりました。
 
 また、藩主にはなりませんでしたが、尾張藩九代 宗睦の養子に高須藩 五代義柄が入り、治行と改名しました。宗睦には長男 治休、二男 治興がいましたが、相次いで亡くなったため、治行を養子に迎えました。しかし、治行も宗睦より先に亡くなり、嫡子五郎太も後を追うように早世し、宗睦の弟勝長の子 勇丸を養子に迎えるも先立たれました。
 尾張藩徳川宗勝には多くの男子がありましたが、尾張藩の付家老竹腰家や譜代大名の井上家や内藤家に養子に出されていました。ほかに適齢の男子がいなかったため、十一代将軍 徳川家斉の子 敬之助を養子に迎えましたがこれにも先立たれました。最後に養子に迎えた将軍 家斉の甥にあたる斉朝(一橋治国の長男) が跡を継ぎました。
 斉朝の母は二条治孝の娘で、治孝の祖母は尾張四代藩主 吉通の娘でしたので、斉朝は母方で尾張家の血筋が流れていました。
 

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徳川宗睦の後継者関係図
 
 

2. 陸奥梁川松平家

 尾張藩二代藩主 徳川光友の長男 義昌が三万石を与えられて尾張藩支藩として陸奥梁川藩を立藩しました。江戸大久保に屋敷があったので、大久保松平家といわれました。
 義昌は長男でしたが側室の子で、光友の正室 千代姫(三代将軍 徳川家光の娘)が男子2人(綱誠、義行)を産んだため、三男とされました。1729年、孫の義真のときに無嗣断絶となりました。
 同年、尾張藩六代藩主 徳川継友の弟 通春が梁川藩を再興しましたが、翌年、兄継友が没したため尾張藩を相続したために廃藩となりました。
 義昌の六男 義武は、1711年に川田久保家の友著とともに譜代の列を仰せ付けられました。
 
初代 松平 義昌(よしまさ)【1651~1713】
 徳川光友の長男、母は側室 勘解由小路(公家 樋口信孝の娘)。
 1683年(33)に幕府から三万石を与えられ、陸奥梁川藩を立藩しました。江戸定府でしたが、城下町整備や新田開発を行いましたが、元禄中期以降の物価高騰で財政が厳しくなり年貢を引き上げました。享年63。
 正室陸奥二本松藩主 丹羽光重の娘。
 
二代 松平 義方(よしかた)【1686~1721】
 松平義昌の五男、母は丹羽光重の娘。
 1713年に28歳で陸奥梁川藩を相続しました。藩財政悪化により農民への負担が一層重くなりました。享年36。
 正室は安芸広島藩主 浅野綱長の娘。
 
三代 松平 義真(よしざね)【1714~1729】
 松平義方の嫡男、母は浅野綱長の娘。
 1721年にわずか8歳で陸奥梁川藩を相続しました。享年16。
 
【再興】初代 松平 通春(みちはる)【1696~1764】
 徳川綱誠の二十男、母は側室 湯本氏。
 1729年(34)に陸奥梁川藩を再興しましたが、翌年、尾張徳川家を相続したため廃藩となりました。尾張藩相続後、八代将軍 徳川吉宗の一字を与えられて宗春と改名しました。享年69。
 

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尾張徳川系松平氏系図
 
 

3. 川田久保家

 尾張藩二代藩主 徳川光友の十一男 友著が1706年に川田窪(東京都新宿区市ヶ谷河田町)に屋敷を与えられて分家し、蔵米一万石を与えられたことからはじまります。1732年に子の友淳が美濃高須藩を相続したために川田久保家は二代で絶家となりました。
 
初代 松平 友著(ともあき)【1678~1728】
 徳川光友の十一男、母は側室 梅の枝(鈴木氏)。
 1706年(29)に分家し、1711年(34)に譜代大名に列しました。甥の宗春とともに、将軍吉宗に目をかけられ諸行事に参加したり、鷹狩りの獲物を下賜されたりしました。
 正室は公家 正親町公通の娘 伊喜姫。
 
二代 松平 友淳(ともあつ)【1705~1761】
 松平友著の長男、母は側室 お繁(湯本氏)。
 父が正室を迎える前に設けた子であったため、幕府への届け出は遅れされ、祖母の縁者鈴木氏の元で養育されました。1728年(24)に父が没すると川田久保家を相続しました。
 1732年(28)に尾張支藩高須藩主 松平義孝の養子となって高須藩を相続し、義淳と改名しました。
 1739年(35)に尾張藩徳川宗春が隠居謹慎となると、急遽その跡を継いで尾張藩主となり、将軍 吉宗の一字を与えられて宗勝と改名しました。享年57。
 正室徳川吉通の娘 三姫。
 
 月桂寺は古河公方の末裔喜連川家ゆかりの寺で、この寺の西側あたりが川田窪と呼ばれました。
 

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月桂寺(川田窪付近)
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 徳川一族大全(廣済堂出版
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 徳川慶勝ー知られざる写真家大名の生涯ー(徳川美術館
 尾張の殿様物語(徳川美術館
 徳川実紀 第5編(国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。