探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

会津松平家

こんにちは、勘矢です。
今回は会津松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 会津松平家

 二代将軍徳川秀忠の末子幸松は、はじめ武田信玄の娘 信松院見性院に養育され、1617年に秀忠の叔母多劫君が嫁いだ信濃国高遠(長野県伊那市)の保科家に預けられ、その後正光の養子となった。1631年に大幅な加増されて出羽国山形(山形県山形市)に移り、1637年に保科家伝来の品々を保科正直の三男正貞へ譲渡した。1643年に陸奥国会津福島県会津若松市)で二十三万石となった。また、五万石を預けられ、実際には二十八万石を領した。三代正容のときに松平を称することを許された。
 幕末の当主容保は京都守護職をつとめた。鳥羽伏見の戦い後は会津に戻り、会津戦争で新政府軍に敗れて加盟断絶となった。翌年、子の容大が陸奥国斗南(青森県むつ市)三万石で家名再興を許された。
 
 
 

2. 会津松平家当主

初代 保科 正之(まさゆき)【1611~1672】
 二代将軍徳川秀忠の子、母は神尾栄加娘 お静の方。
 保科正光の養子となり、1631年に21歳で信濃高遠藩を相続しました。1636年(26)に出羽山形二十万石、1643年(33)に奥羽諸藩の目付け役として陸奥会津二十三万石(預け領五万石)となりました。
 1651年(41)に三代将軍家光が没すると、その遺言により幼い四代将軍家綱の補佐として幕政に参画しました。1669年に59歳で隠居しました。享年62。
 正室陸奥磐城平藩主 内藤政長の娘 菊姫、継室は藤木弘之の娘 お万の方。
 
二代 保科 正経(まさつね)【1646~1681】
 保科正之の四男、母は藤木弘之の娘。
 1669年に24歳で陸奥会津藩を相続しました。1681年に36歳で隠居しました。享年36。
 正室は加賀金沢藩主 前田利常の娘 久万姫。
 
三代 松平 正容(まさかた)【1669~1731】
 保科正之の六男、母は側室 沖氏 富貴の方。
 病身の兄の養子となり、1681年に13歳で陸奥会津藩を相続しました。1696年(28)に五代将軍綱吉から松平姓と葵紋を下賜されました。1712年(44)に六代将軍家宣の世子家継の元服のときに理髪役をつとめました。享年63。
 正室は武蔵忍藩主 阿部正武の娘 竹姫、継室は家臣 横山常定の娘 お祐。
 
四代 松平 容貞(かたさだ)【1724~1750】
 松平正容の八男、母は側室 塩見氏 美崎の方。
 1731年にわずか8歳で陸奥会津藩を相続しました。先代の頃から藩財政は困窮していき、城下の大火や江戸藩邸の類焼などで出費がかさみました。1749年(26)に寛延の大一揆が起きました。享年27。
 正室は讃岐高松藩主 松平頼豊の娘 友姫。
 
五代 松平 容頌(かたのぶ)【1744~1805】
 松平容貞の長男、母は継室 舘氏 貴也の方。
 1750年にわずか7歳で陸奥会津藩を相続しました。1765年(22)以降藩政改革に着手しました。1799年(56)に藩校日新館を創設しました。享年62。
 正室は武蔵忍藩主 阿部正允の娘 鉄姫、継室は長門萩藩主 毛利重就の養女 齢姫(毛利宗広の娘)。
 
六代 松平 容住(かたおき)【1778~1805】
 松平容詮の子、母は側室 鈴木氏 久米。
 容頌の養子になっていた父容詮が早世したため嫡子となり、1805年に28歳で陸奥会津藩を相続しましたが、就任からわずか5カ月に没しました。享年28。
 正室は近江彦根藩井伊直幸の娘 謙姫。
 
七代 松平 容衆(かたひろ)【1803~1822】
 松平容住の二男、母は側室 石川氏 美衛。
 1806年にわずか4歳で陸奥会津藩を相続しました。翌年、蝦夷地や樺太の警備を命じられ、その後江戸湾相模湾の沿岸警備についたため、財政が逼迫しました。享年20。
 正室は十一代将軍 徳川家斉の娘 元姫。
 
八代 松平 容敬(かたたか)【1803~1852】
 松平容住の三男、実は美濃高須藩主 松平義和の三男。
 実父義和は水戸藩徳川治保の二男で、義和が高須藩に養子になるときに会津藩家老 田中玄宰によって引き取られ、容住の没後(1806年)に生まれた子として幕府に届出されました。
 1822年に20歳で陸奥会津藩を相続しました。産業の奨励や積極的な人材登用などにより財政は改善していきました。また、藩校日新館の内容充実と学問奨励は、藩士の子弟の教育に大きく寄与しました。1847(45)から江戸湾周辺の防備に藩兵を派遣しました。享年50。
 正室は出羽窪田藩主 佐竹義和の娘 節姫、継室は加賀金沢藩主 前田斉広の娘 厚姫。
 
九代 松平 容保(かたもり)【1835~1893】
 美濃高須藩松平義建の六男、母は側室 古森氏。
 叔父容敬の婿養子となり、1852年に18歳で陸奥会津藩を相続しました。翌年のペリー来航により品川第二台場、1859年(25)東蝦夷警備などに出兵しました。
 1862年(28)に幕府より京都守護職就任の要請を受けてはじめは固辞しましたが、最終的には藩祖正之の遺訓に従って拝受し、藩兵一千人を率いて上洛しました。翌年の八月十八日の政変尊攘派の七卿を追放し、孝明天皇より御宸翰・御製を賜りました。これらは終生肌身から離すことはなかったといいます。
 1868年(34)の鳥羽伏見の戦いに敗れると徳川慶喜に従い海路江戸に帰りました。その後、養子喜徳に家督を譲って隠居した形をとり、会津に帰国しました。朝廷に嘆願書を提出するも容れられず、戊辰戦争に突入しました。会津若松城に籠城してから一か月後に降参し、容保父子は城下滝沢村の妙国寺で謹慎し、のち鳥取藩邸、和歌山藩邸と移され、1872年(38)に謹慎を解かれました。その後は、日光東照宮宮司などをつとめました。享年59。
 正室松平容敬の娘 敏姫。
 
十代 松平 喜徳(のぶのり)【1855~1891】
 常陸水戸藩徳川斉昭の十九男、母は側室 高橋氏。幼名 余九麿、初名 昭則。
 1866年(12)に幕命により容保の養子となり、1868年(14)に家督相続しました。しかし、幕府は崩壊した中での相続で、新政府に藩主として認められなかったため、歴代として数えられない場合もある。その後の戊辰戦争の折り、養父容保と共に会津若松城を守って戦い、降伏後は久留米藩に永預となりました。
 1873年(19)に実家に戻り、分家の旧守山藩松平頼之実弟)の養子となって相続しました。享年37。
 
十一代 松平 容大(かたはる)【1869~1910】
 松平容保の嫡男、母は側室 田代氏 佐久。
 戊辰戦争で家名断絶となったが、翌1869年に家名再興が許され、わずか1歳の容大が陸奥斗南で三万石を与えられました。1870年(2)に旧会津藩士とともに藩庁が置かれた五戸に向かいました。翌年田名部に藩庁は移したが、間もなく廃藩置県を迎えました。1884年(16)に子爵を授けられ、貴族議員などを歴任しました。享年42。
 正室は元美作鶴田藩主 松平武聡の娘 鞆子。
 
 
 

3. 会津松平家一門

保科正頼(まさより)【1640~1657】
 保科正之の二男、母は藤木弘之の娘。
 父に先立ち没しました。享年18。
 
保科正純(まさずみ)【1652~1671】
 保科正之の五男、母は藤木弘之の娘。享年20。
 
松平正邦(まさくに)【1696~1708】
 松平正容の長男、母は榎本氏。
 父に先立ち没しました。享年13。
 婚約者:五代将軍綱吉の養女 竹姫。
 
松平正甫(まさもと)【1697~1727】
 松平正容の三男、母は横山常定の娘。
 父に先立ち没しました。享年31。
 正室は安芸広島藩主 浅野吉長の娘。
 
松平容章(かたあきら)【1725~1786】
 松平正容の九男、母は外島氏。
 1745年(21)に朔望の出仕を許され、帝鑑間に候す。1750年(26)藩主松平容頌の後見。1777年(53)に致仕。享年62。
 
松平 容詮(かたさと)【1750~1785】
 松平容章の長男、母は小海氏。
 松平容頌の養子となるも、養父に先立ち没しました。享年36。
 正室は加賀金沢藩主 前田治修の養女 頴姫(前田重教の娘)。
 
松平 容序(かたつぐ)【1783~1800】
 松平容詮の二男、母は側室 鈴木氏 久米。享年18。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 運命の会津藩松平容保会津武家屋敷・会津歴史資料館)
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 徳川一族大全(廣済堂出版
 徳川諸家系譜 第三(続群書類従完成会
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。