探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本保科家

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(保科氏~高遠藩・飯野藩~ - 探検!日本の歴史)書いた飯野藩の分家、旗本保科氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本:保科岩之丞家

 上総飯野藩主 保科正貞には実子正景があったが出奔して所在が知れず、正貞の甥で小出吉英の三男正英を養子として迎えた。その後、正景が戻ってきて嫡子となったため、正英は1661年に二千石を分知された。子の正静のときに加増されて二千五百石となった。幕末の俊太郎は徳川昭武一行のパリ行きに通訳として随行した。
 

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旗本保科氏略系図
 
(寛政年間までの当主)
初代 保科 正英(まさふさ)【1611~1678】
 但馬出石藩主 小出吉英の三男、母は保科正直の娘。
 正貞の子正景が行方知れずとなったため、伯父正貞の養子となり1639年(29)に三代将軍徳川家光に拝謁しました。その後、正景が戻って嗣子となったため、1661年(51)に安房国内で二千石を分家与えられ、寄合に列しました。1675年に65歳で隠居しました。享年68。
 妻は旗本 井上庸名の娘。庸名の妻は黒田長政の娘。
 
二代 保科 正静(まさやす)【1653~1712】
 保科正英の二男、母は井上庸名の娘。
 1675年に23歳で家督相続し、1682年(30)に御使番となり、上総・上野・下野国内で五百石を加増されました。同年、出羽庄内藩主 酒井忠真が幼少のため、庄内に赴き政事を監す。1690年(38)に故あって拝謁を停められました。1697年(45)に知行地を改められ、上野国内で二千五百石となりました。享年60。
 妻は旗本松平(藤井)信重の娘(離婚)。信重の妹は本家正景の正室
 

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保科氏と藤井松平氏の関係図
 
三代 保科 正純(まさずみ)【1677~1737】
 旗本 岡部勝政の二男、母は渡邊綱貞の養女。
 正静の婿養子となり、1709年(33)に御書院番の番士となりました。1712年に36歳で家督相続しました。1720年(44)に御使番に転じ、土佐藩主山内豊常が幼少のため、仰せを受けて高知に赴き国政を監す。1726年(50)に山田奉行にすすみ、1732年(56)に辞職し、寄合に列した。1736年に60歳で隠居しました。享年61。
 妻は保科正静の養女(旗本 沼間清氏の娘)。
 
四代 保科 正勝(まさかつ)【1714~1738】
 保科正純の長男。
 1736年に23歳で家督相続し、寄合に列しました。享年25。
 妻は保科正殷の養女(正賢の娘)。
 
五代 保科 正倫(まさしげ)【1720~1746】
 保科正純の二男、母は保科正静の養女。
 兄正勝の養子となり、1738年に19歳で家督相続し、寄合となりました。~1746(27)。享年27。
 妻は旗本 小笠原茂武の娘。
 
六代 保科 正盈(まさみつ)【1725~1781】
 旗本 戸田氏常の四男、母は阿部正房の娘。
 正倫の末期養子となり、1746年に22歳で家督相続し、小普請となりました。1755年(31)に御書院番に列し、1768年に44歳で隠居しました。享年57。
 妻は旗本 米倉昌倫の娘(離婚)。
 
七代 保科 正恒(まさつね)【1751~1797】
 保科正盈の長男。
 1768年に18歳で家督相続し、翌年に御小姓組の番士となりました。享年47。
 
八代 保科 正棟(まさたか)【1778~?】
 保科正恒の二男。
 1797年に20歳で家督相続しました。
 妻は旗本 石川政本の娘。
 
(寛政年間以降の人物)
保科 栄次郎(えいじろう)【?~?】
 祖父は保科主税(西ノ丸書院番)、父は保科岩之丞(書院番)。
 1853年に小普請より西ノ丸小姓組入し、その後本丸小姓組
 
 1841年勝小吉が保科栄次郎方へ押込めとなった。
 
保科 俊太郎(しゅんたろう)【?~1883】
 祖父は保科岩之丞(書院番)、父は保科栄次郎(小姓組)。名は正敬(まさたか)。
 1864年別手組出役、1865年仏蘭西学伝習御用、1866年軍艦奉行支配より歩兵差図役頭取、のち歩兵頭並。
 1867年にフランス行きの留学生取締となり、パリ万博に派遣された徳川昭武一行に通訳として随行した。幕府瓦解により帰国を命じられ、その後は新政府で陸軍省人員局長などをつとめた。
 
 

2. 保科氏の婚姻関係

(1)保科正直の子女

 保科正直の長男正光の母は跡部氏で、真田昌幸の娘を正室に迎えた。二代将軍徳川秀忠の末子幸松(のち正之)を内命により養い、その遺領は正之が継いだ。二男正重は小日向氏との間に生まれた。
 
 甲斐の武田氏が滅びたあと保科家は徳川家に仕え、正直は徳川家康の異父妹多劫君(久松俊勝の娘、俊勝は家康生母お大の方の再婚相手)を正室に迎えた。正直と多劫君の間に二男四女が生まれ、三男正貞は上総飯野藩主となり、四男氏重は後北条氏の一族北条氏勝の養子となった。また、4人の女子は、徳川家康の養女となった。
 
 長女栄姫【?~1635】は豊前中津城黒田長政に嫁ぎ、長政は関ヶ原の戦い後に大幅な加増をされ筑前福岡52.3万石となった。長政と栄姫の間には三男二女が生まれ、嫡男忠之は福岡藩を相続、二女は上野館林藩主 榊原忠次の正室、三男長興は分家し筑前秋月藩で5万石、四男高政も分家し筑前東連地で4万石、三女は播磨姫路藩池田家の分家赤穂藩主 池田輝興の正室となった。
 
 二女は譜代大名の安部信盛に嫁いだ。信盛との間に四男三女が生まれ、長男信之は信盛の跡を相続(子孫は武蔵岡部藩主)、長女は和泉陶器藩主 小出有棟室、二女は旗本 向井忠宗の妻、二男信孝は幕臣、三女は服部正勝妻となった。三男貞信・五男信秀はそれぞれ分家して子孫は旗本として続いた。
 
 三女は但馬出石城主小出吉政の嫡男吉英に嫁いだ。関ヶ原の戦い後に吉政が岸和田に移ると、吉英は出石を与えられ、父の没後に岸和田藩を相続し、大坂の陣後に旧領の出石に戻った。吉英との間に五男五女が生まれ、長男帯刀は21歳で没し、長女は初め三浦重勝に嫁ぎのち土佐藩の分家 山内一唯に嫁いだ。二男吉重は出石藩を相続(子孫嗣子なく改易)、二女・三女は詳細不明、二男正英は保科正貞の養子となった。三男英本・四男英信はそれぞれ分家して子孫は旗本として続いた。四女は立花種長室、五女は松平(藤井)信之室となった。また、二男保科正英の長男英勝を養子に迎え、のちに分家して旗本となった。
 
 四女は伊予松山城加藤嘉明の嫡男明成に嫁いだ。嘉明はのちに会津に移され、明成はその跡を相続するも御家騒動により改易となった。明成との子はなく、側室が産んだ明友がのちに石見吉永で再興をゆるされ、のちに近江水口に移った。
 

(2)旗本保科家の養子縁組

 旗本保科家の二代正静は子がなく、沼間清氏の娘を養女にし、岡部勝政の二男正純を婿養子に迎えた。岡部勝政の祖母は家康養女(異父弟松平康元の娘)なので、保科家とは遠縁にあたる。沼間清氏の妻は日向延岡藩主 有馬康純の娘で、康純の母は家康の養女(本多忠政の長女・母松平信康の二女)である。
 五代正倫は子がなく、旗本戸田氏常の四男 正盈を養子に迎えた。正盈の祖母は飯野藩主 保科正景の娘。
 

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保科氏の婚姻関係図
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林
 数字と図表で読み解く 徳川幕府の実力と統治のしくみ(蒲生眞紗雄 著/新人物往来社
 日本人名大辞典(講談社
 続徳川実紀 第3篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
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それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。