こんにちは、勘矢です。
今回は伊東一族について調べたことをまとめました。
1. 伊東一族
祐家の子 祐親は伊東を称し、伊豆に配流された源頼朝を預かった。叔父工藤祐継と所領をめぐる争いがあり、祐継の没後に子の祐経の所領を横領した。その後、祐経は祐親とその子 河津祐泰を郎党に襲わせ祐泰を射殺した。
祐泰の子 一萬丸と箱王丸は母の再婚相手曾我祐信のもとで育てられた。兄一萬丸は曾我家を継いで曾我祐成と称した。弟箱王丸は出家したが、のちに還俗して曾我時致と称した。曾我兄弟は1193年の富士の巻狩りの最中に祐経を討ち果たしたが、騒ぎに集まった武士たちに討たれた。
祐親の二男祐清の子祐光は、源頼朝から伊豆国河津荘(静岡県賀茂郡河津町)を与えられた。その後、長時のときに尾張へ移り、その孫長久は織田信長・豊臣秀吉に仕えた。その子長実は備中岡田藩主となり、幕末まで続いた。
伊東 祐親(いとう・すけちか)【?~1182】
伊東祐家の子。
河津 祐泰(かわづ・すけやす)【1145~1176】
伊東祐親の長男。享年32。
曾我 祐成(そが・すけなり)【1172~1193】
河津祐泰の長男。享年22。
曾我 時致(そが・ときむね)【1174~1193】
河津祐泰の二男。享年20。
伊東 祐清(いとう・すけきよ)【?~1183】
伊東祐親の二男。
工藤 祐経(くどう・すけつね)【?~1193】
工藤祐継の子。
2. 日向伊東氏
曾我兄弟に打ち取られた工藤祐経の子 祐時は伊東を称し、1198年に日向国(宮崎県)に地頭職を与えられた。祐持は足利尊氏に属して日向国都於郡(宮崎県西都市)に所領を与えられ、都於郡城を築いた。祐堯の頃から勢力を拡大し、義祐のときに飫肥城を攻め取り伊東氏の最盛期を築いた。しかし、1577年に島津氏に敗れて日向を追われた。
初代 伊東 祐時(いとう・すけとき)【1185~1252】
工藤祐経の長男、母は千葉介常胤の娘。享年68。妻は三浦介某の娘。
二代 伊東 祐光(いとう・すけみつ)【?~?】
伊東祐時の六男、母は三浦介某の娘。妻は後藤基綱の娘。
三代 木脇 祐頼(きわき・すけより)【?~?】
伊東祐時の九男。
四代 伊東 祐宗(いとう・すけむね)【1266~1349】
伊東祐光の子、母は後藤基綱の娘。享年84。妻は後藤基邦の娘。
五代 伊東 貞祐(いとう・さだすけ)【?~?】
伊東祐宗の子、母は後藤基邦の娘。妻は後藤宗基の娘。
六代 伊東 祐持(いとう・すけもち)【?~1350】
伊東貞祐の子、母は後藤宗基の娘。妻は山内肥藤の娘。
七代 伊東 祐熙(いとう・すけひろ)【?~?】
伊東祐守の子。
八代 伊東 氏祐(いとう・うじすけ)【1324~1378】
伊東祐持の子、母は山内肥藤の娘。享年55。妻は守永下野守某の娘。
九代 伊東 祐安(いとう・すけやす)【?~1434】
伊東氏祐の子。妻は木脇長祐の娘。
十代 伊東 祐立(いとう・すけはる)【?~1444】
伊東祐安の子。
十一代 伊東 祐堯(いとう・すけたか)【1409~1485】
伊東祐立の子。享年77。
十二代 伊東 祐国(いとう・すけくに)【1448~1485】
伊東祐堯の子。享年38。妻は佐土原修理亮某の娘。
十三代 伊東 尹祐(いとう・ただすけ)【1469~1523】
伊東祐国の子、母は佐土原修理亮某の娘。享年56。阿蘇惟乗の娘。
十四代 伊東 祐充(いとう・すけみつ)【1510~1533】
伊東尹祐の子。享年24。妻は北条金吾某の娘。
十五代 伊東 義祐(いとう・よしすけ)【1512~1585】
伊東尹祐の子。兄の養子となる。享年74。
十六代 伊東 義益(いとう・よします)【1546~1569】
伊東義祐の子。享年24。妻は一条房基の娘。
十七代 伊東 義賢(いとう・よしかた)【?~?】
伊東義益の子。
十八代 伊東 祐兵(いとう・すけたか)【1559~1600】
伊東義祐の二男。享年42。妻は伊東義益の娘。
伊東 マンショ 【1570~1612】
伊東義益の甥、名は祐益。
参考文献:
時空旅人別冊 鎌倉殿 源氏三代と13人の武士(三栄)
日本名字家系事典(東京堂出版)
日本人名大辞典(講談社)
それでは、今日はここまで。
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