こんにちは、勘矢です。
今回は前回(伊東一族~伊豆から日向へ~ - 探検!日本の歴史)の続きで、日向飫肥藩伊東家とその分家について調べたことをまとめました。
1. 日向伊東氏
戦国時代の伊東祐兵は島津氏敗れて京都へ逃れ、豊臣秀吉に仕えた。秀吉による九州平定後、旧領の日向飫肥に復帰した。文禄・慶長の役に出陣し、関ヶ原の戦いでは密かに黒田官兵衛と通じて徳川方についたが、直後に没した。
祐慶のときに検地により五万七千石余となり、その後、祐豊(伊東主膳家)、祐春(伊東勝之助家)へそれぞれ三千石を分け与えて五万一千石余となった。以降幕末まで存続した。
2. 日向飫肥藩伊東家
初代 伊東 祐慶(すけのり)【1589~1636】
伊東祐兵の二男、母は伊東義益娘。
1600年(12)の関ヶ原の戦いでは国許で東軍に応じ、西軍方の高橋元種(宮崎城)、太田一吉(臼杵城)を攻めて城を落としました。1601年に13歳で家督相続し、翌年に主命に従わな家老 稲津掃部助を攻めて切腹させました。その後、江戸城などの普請を命じられました。また、1627年に薩摩藩との境界をめぐる争いが起こり、以降半世紀にわたって紛争が続きました。享年48。
二代 伊東 祐久(すけひさ)【1609~1657】
伊東祐慶の嫡男、母は側室 大田原氏。
三代 伊東 祐由(すけみち)【1631~1661】
伊東祐久の嫡男、母は滝川法直の娘。
1657年に27歳で日向飫肥藩を相続し、弟 祐春に三千石を分け与えました。享年31。
四代 伊東 祐実(すけざね)【1644~1723】
伊東祐久の四男、母は滝川法直の娘。
伊東 祐隆(すけたか)【1669~1747】
分家 伊東祐春の長男、母は土岐頼泰の娘。
1693年(25)に祐実の養子となりましたが、1707年(39)に病により嫡子を辞しました。享年79。
五代 伊東 祐永(すけなが)【1689~1739】
家臣 伊東祐信の子、母は側室 稲村氏。
祐実の婿養子となり、1714年に26歳で日向飫肥藩を相続しました。1718年(30)に藩財政が逼迫したことから厳しい倹約令を出しました。享年51。
正室は伊東祐実の養女(祐実の養子祐崇の娘)
六代 伊東 祐之(すけゆき)【1727~1744】
伊東祐永の嫡男、母は伊東祐実の養女。
1739年に13歳で日向飫肥藩を相続しました。享年18。
七代 伊東 祐隆(すけおき)【1716~1757】
伊東祐永の二男、母は側室 井上氏。
八代 伊東 祐福(すけよし)【1740~1781】
伊東祐隆の子、母は愛宕通晴の娘。
1757年に18歳で日向飫肥藩を相続しました。1771年(32)に仙洞御所の造営に当たりました。享年42。
正室は豊後岡藩主 中川久貞の娘。
九代 伊東 祐鐘(すけあつ)【1772~1798】
伊東祐福の子、母は中川久貞の娘。
1781根にわずか10歳で日向飫肥藩を相続しました。藩財政の建て直しのため植林事業に重点を置きました。享年27。
十代 伊東 祐民(すけたみ)【1792~1812】
伊東祐鐘の子、母は稲葉弘通の娘。
十一代 伊東 祐丕(すけひろ)【1797~1814】
伊東祐鐘の子。
十二代 伊東 祐相(すけとも)【1812~1874】
伊東祐民の二男、母は浅野重晟の娘。
父祐民が没した後に生まれたので祐丕の養嗣子となり、1814年にわずか3歳で日向飫肥藩を相続しました。藩財政の窮迫により度々家臣に上米を命じました。また、軍制の整備を行い、海防のために砲台を築造しました。1829年(18)に奏者番となり、1831年(20)に藩校振徳堂を創設しました。
十三代 伊東 祐帰(すけより)【1855~1894】
伊東祐相の嫡男。
3. 旗本伊東氏
(1)交代寄合:伊東勝之助家
初代 伊東 祐春(すけはる)【1635~1706】
伊東祐久の三男、母は滝川法直の娘。
しました。享年72。
妻は旗本 土岐頼泰の娘。
二代 伊東 祐連(すけつら)【1677~1719】
伊東祐春の二男、母は土岐頼泰の娘。
1700年(24)に家督相続しました。享年43。
妻は旗本 滝川元長の娘、後妻は旗本 伊東祐賢の娘。
三代 伊東 祐陳(すけのぶ)【1717~1741】
伊東祐連の嫡男、母は伊東祐賢の娘。
1719年にわずか3歳で家督相続し、祐恵に千石を分け与え、二千石を知行しました。享年25。
四代 伊東 祐房(すけふさ)【1719~1778】
伊東祐永の五男。
1741年に23歳で家督相続しました。1771年に53歳で隠居しました。享年60。
妻は旗本松平(久松)定昌の娘。
五代 伊東 祐武(すけたけ)【1750~1778】
日向飫肥藩主 伊東祐隆の二男。
祐房の婿養子となり、1771年に22歳で家督相続しました。享年29。
妻は伊東祐房の娘。
六代 伊東 祐昌(すけまさ)【1762~1780】
旗本 伊東祐峯の二男、母は松平康郷の娘。
1778年に17歳で家督相続しました。享年19。
妻は伊東祐武の娘(婚約)。
七代 伊東 祐寿(すけとし)【1764~1791】
交代寄合 松平(久松)康真の六男。
妻は伊東祐昌の養女(祐武の娘、婚約)。
八代 伊東 祐承(すけよし)【1787~?】
伊東祐程の四男、母は菅沼定用の娘。
1791年にわずか5歳で家督相続しました。
九代 伊東 祐溥【?~?】
通称岩丸、主殿。祐承の養子となり、1803年に家督相続しました。
十代 伊東 祐膺【?~1855】
伊東祐溥の子。通称勝之助。
1825年に家督相続しました。
十一代 伊東 鑒之助【?~?】
伊東祐膺の子。
(2)旗本:伊東監物家
(寛政年間までの当主)
初代 伊東 祐恵(すけまさ)【1713~1768】
伊東祐連の庶子。
妻は日向飫肥藩主 伊東祐永の娘。
二代 伊東 祐程(すけちか)【1746~?】
交代寄合 伊東祐房の三男、母は松平定昌の娘。
妻は伊東祐恵の娘、後妻は交代寄合 菅沼定用の娘。
(寛政以降の人物)
伊東 祐氏
伊東祐程の五男。母は菅沼定用の娘。
伊東 内蔵助
伊東祐氏の子。書院番。
伊東 常五郎
(3)旗本:伊東主膳家
初代 伊東 祐豊(すけとよ)【1612~1668】
伊東祐慶の二男、母は森本氏。
1629年(18)に御小姓となり、蔵米二千俵を賜りました。1636年(25)に父の遺領より三千石を分け与えられました。また、御書院の番士となり、のちに中奥に移りました。1651年(40)に辞職し、小普請となりました。享年57。
二代 伊東 祐賢(すけかた)【1666~1708】
伊東祐豊の四男、母は原氏。
1668年にわずか3歳で家督相続しました。1684年(19)に御小姓となりました。1689年(24)に知行地を蔵米に改められ、務めをゆるされました1692年(27)に御小姓に復し、翌年に中奥の御小姓に移り、その後辞職して寄合となりました。1697年(32)に蔵米を知行地に改められて近江国内で五千石を賜りました。享年43。
妻は旗本 酒井忠経の娘。
三代 伊東 祐詮(すけとし)【1690~1730】
伊東祐賢の長男、母は酒井忠経の娘。
妻は旗本 高木正長の養女(旗本 土屋茂直の娘)。
四代 伊東 祐積(すけつぐ)【1714~1777】
伊東祐詮の二男、母は高木正長の養女。
1730年に17歳で家督相続しました。1753年に40歳で隠居しました。享年64。
妻は旗本 大久保忠明の娘。
五代 伊東 祐峯(すけみね)【1737~1768】
伊東祐積の長男。
1753年に17歳で家督相続しました。1761年(25)に中奥の御小姓になりました。享年32。
妻は交代寄合 松平(久松)康郷の娘。
六代 伊東 祐政(すけまさ)【1757~?】
伊東祐峯の長男、母は松平(久松)康郷の娘。
1768年に12歳で家督相続しました。1781年(25)に中奥の御小姓になりました。1796年に40歳で隠居しました。
妻は旗本 内藤信庸の娘(離婚)、後妻は出羽松山藩主 酒井忠休の養女(忠休の二男 忠起の娘、離婚)。
七代 伊東 祐真(すけちか)【1779~?】
伊東祐積の二男 祐訓の子。徳川旗本八万騎人物系譜総覧では祐虎とあり。
従兄祐政の二男祐充が父に先立ち没したため、祐政の婿養子となりました。1796年に18歳で家督相続しました。
1831年(53)に改易絶家となりました。
妻は伊東祐政の娘。
八代 伊東 釆女【?~?】
伊東祐真の子。
1846年に再度召し出されて蔵米三百俵を与えられ、小普請入りしました。
九代 伊東 成一郎(せいいちろう)【?~?】
伊東采女の子。
1858年に部屋住より書院番入りし、蔵米三百俵。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。