探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

日向飫肥藩伊東家とその分家

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(伊東一族~伊豆から日向へ~ - 探検!日本の歴史)の続きで、日向飫肥藩伊東家とその分家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 日向伊東氏

 戦国時代の伊東祐兵は島津氏敗れて京都へ逃れ、豊臣秀吉に仕えた。秀吉による九州平定後、旧領の日向飫肥に復帰した。文禄・慶長の役に出陣し、関ヶ原の戦いでは密かに黒田官兵衛と通じて徳川方についたが、直後に没した。
 祐慶のときに検地により五万七千石余となり、その後、祐豊(伊東主膳家)、祐春(伊東勝之助家)へそれぞれ三千石を分け与えて五万一千石余となった。以降幕末まで存続した。
 
 伊東勝之助家は伊東祐久の三男祐春が日向国内で三千石を分け与えられ、交代寄合に列したことからはじまる。三代 祐陳のときに祐恵(伊東監物家)へ千石を分け与えて二千石となった。
 伊東主膳家は伊東祐慶の二男祐豊からはじまり、五千石を知行し
たが、1831年祐真のときに改易絶家となった。その子采女が1846年に再度召し出され、蔵米三百俵を与えられた。
 

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飫肥藩伊東氏略系図
 

2. 日向飫肥藩伊東家

初代 伊東 祐慶(すけのり)【1589~1636】
 伊東祐兵の二男、母は伊東義益娘。
 1600年(12)の関ヶ原の戦いでは国許で東軍に応じ、西軍方の高橋元種(宮崎城)、太田一吉(臼杵城)を攻めて城を落としました。1601年に13歳で家督相続し、翌年に主命に従わな家老 稲津掃部助を攻めて切腹させました。その後、江戸城などの普請を命じられました。また、1627年に薩摩藩との境界をめぐる争いが起こり、以降半世紀にわたって紛争が続きました。享年48。
 
二代 伊東 祐久(すけひさ)【1609~1657】
 伊東祐慶の嫡男、母は側室 大田原氏。
 1636年に28歳で日向飫肥藩を相続し、弟 祐登代に三千石を分け与えました。翌年の島原の乱に藩兵二千五百人を率いて出陣し、富岡城を守備しました。享年49。
 正室尾張藩家老 滝川忠征の子 法直の娘。法直の妻は伊東祐兵の娘。
 
三代 伊東 祐由(すけみち)【1631~1661】
 伊東祐久の嫡男、母は滝川法直の娘。
 1657年に27歳で日向飫肥藩を相続し、弟 祐春に三千石を分け与えました。享年31。
 正室は公家 姉小路公景の娘。
 
四代 伊東 祐実(すけざね)【1644~1723】
 伊東祐久の四男、母は滝川法直の娘。
 兄 祐由の養子となり、1661年に18歳で日向飫肥藩を相続しました。1675年(32)に薩摩藩との境界争いは幕府評定所での採決で勝訴して解決しました。1714年に71歳で隠居しました。享年80。
 正室陸奥三春藩主 秋田盛季の娘、継室は肥前佐賀藩主 鍋島光茂の娘。
 
伊東 祐隆(すけたか)【1669~1747】
 分家 伊東祐春の長男、母は土岐頼泰の娘。
 1693年(25)に祐実の養子となりましたが、1707年(39)に病により嫡子を辞しました。享年79。
 正室は近江大溝藩主 分部信政の娘、継室は陸奥柳川藩主 松平(尾張)義昌の娘。
 
五代 伊東 祐永(すけなが)【1689~1739】
 家臣 伊東祐信の子、母は側室 稲村氏。
 祐実の婿養子となり、1714年に26歳で日向飫肥藩を相続しました。1718年(30)に藩財政が逼迫したことから厳しい倹約令を出しました。享年51。
 正室は伊東祐実の養女(祐実の養子祐崇の娘)
 
六代 伊東 祐之(すけゆき)【1727~1744】
 伊東祐永の嫡男、母は伊東祐実の養女。
 1739年に13歳で日向飫肥藩を相続しました。享年18。
 
七代 伊東 祐隆(すけおき)【1716~1757】
 伊東祐永の二男、母は側室 井上氏。
 祐永の庶子であったため二男として扱われ、祐之に世子がなかったため、1744年に29歳で日向飫肥藩を相続しました。享年42。
 正室は公家愛宕通晴の娘。
 
八代 伊東 祐福(すけよし)【1740~1781】
 伊東祐隆の子、母は愛宕通晴の娘。
 1757年に18歳で日向飫肥藩を相続しました。1771年(32)に仙洞御所の造営に当たりました。享年42。
 正室は豊後岡藩主 中川久貞の娘。
 
九代 伊東 祐鐘(すけあつ)【1772~1798】
 伊東祐福の子、母は中川久貞の娘。
 1781根にわずか10歳で日向飫肥藩を相続しました。藩財政の建て直しのため植林事業に重点を置きました。享年27。
 正室は豊後臼杵藩 稲葉弘通の娘。
 
十代 伊東 祐民(すけたみ)【1792~1812】
 伊東祐鐘の子、母は稲葉弘通の娘。
 1798年にわずか7歳で日向飫肥藩を相続しました。植林事業が順調にすすんで「飫肥杉」として広まり、林業が藩財政の支えとなりました。享年21。
 正室は安芸広島藩 浅野重晟の娘。
 
十一代 伊東 祐丕(すけひろ)【1797~1814】
 伊東祐鐘の子。
 兄 祐民の養子となり、1812年に16歳で日向飫肥藩を相続しました。享年18。
 
十二代 伊東 祐相(すけとも)【1812~1874】
 伊東祐民の二男、母は浅野重晟の娘。
 父祐民が没した後に生まれたので祐丕の養嗣子となり、1814年にわずか3歳で日向飫肥藩を相続しました。藩財政の窮迫により度々家臣に上米を命じました。また、軍制の整備を行い、海防のために砲台を築造しました。1829年(18)に奏者番となり、1831年(20)に藩校振徳堂を創設しました。
 1869年(58)に版籍奉還して飫肥藩知事となりましたが、間もなく辞職して隠居しました。享年63。
 
十三代 伊東 祐帰(すけより)【1855~1894】
 伊東祐相の嫡男。
 1869年に15歳で家督相続し、飫肥藩知事に任じられました。1871年(17)に廃藩置県を迎えました。享年40。
 正室は豊後日出藩主 木下俊敦の娘、継室は公家 岩倉具慶の娘、継々室は元若狭小浜藩主 酒井忠禄の娘。
 
 
 

3. 旗本伊東氏

(1)交代寄合:伊東勝之助家

初代 伊東 祐春(すけはる)【1635~1706】
 伊東祐久の三男、母は滝川法直の娘。
 1657年(23)に父の遺領から日向国内で三千石を分け与えられ、交代寄合に列しました。1700年に66歳で隠居
しました。享年72。
 妻は旗本 土岐頼泰の娘。
 
二代 伊東 祐連(すけつら)【1677~1719】
 伊東祐春の二男、母は土岐頼泰の娘。
 1700年(24)に家督相続しました。享年43。
 妻は旗本 滝川元長の娘、後妻は旗本 伊東祐賢の娘。
 

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伊東家と滝川家の関係図
 
三代 伊東 祐陳(すけのぶ)【1717~1741】
 伊東祐連の嫡男、母は伊東祐賢の娘。
 1719年にわずか3歳で家督相続し、祐恵に千石を分け与え、二千石を知行しました。享年25。
 
四代 伊東 祐房(すけふさ)【1719~1778】
 伊東祐永の五男。
 1741年に23歳で家督相続しました。1771年に53歳で隠居しました。享年60。
 妻は旗本松平(久松)定昌の娘。
 
五代 伊東 祐武(すけたけ)【1750~1778】
 日向飫肥藩主 伊東祐隆の二男。
 祐房の婿養子となり、1771年に22歳で家督相続しました。享年29。
 妻は伊東祐房の娘。
 
六代 伊東 祐昌(すけまさ)【1762~1780】
 旗本 伊東祐峯の二男、母は松平康郷の娘。
 1778年に17歳で家督相続しました。享年19。
 妻は伊東祐武の娘(婚約)。
 
七代 伊東 祐寿(すけとし)【1764~1791】
 交代寄合 松平(久松)康真の六男。
 1780年に17歳で家督相続しました。享年28。
 妻は伊東祐昌の養女(祐武の娘、婚約)。
 
八代 伊東 祐承(すけよし)【1787~?】
 伊東祐程の四男、母は菅沼定用の娘。
 1791年にわずか5歳で家督相続しました。
 
九代 伊東 祐溥【?~?】
 通称岩丸、主殿。祐承の養子となり、1803年に家督相続しました。
 
十代 伊東 祐膺【?~1855】
 伊東祐溥の子。通称勝之助。
 1825年に家督相続しました。
 
十一代 伊東 鑒之助【?~?】
 伊東祐膺の子。
 1860年家督相続しました。
 

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旗本伊東氏略系図 1
 
 

(2)旗本:伊東監物家

(寛政年間までの当主)
初代 伊東 祐恵(すけまさ)【1713~1768】
 伊東祐連の庶子
 1719年(7)に父の遺領より日向国内で千石を分け与えられました。1746年(34)に御書院番に列しました。享年56。
 妻は日向飫肥藩主 伊東祐永の娘。
 
二代 伊東 祐程(すけちか)【1746~?】
 交代寄合 伊東祐房の三男、母は松平定昌の娘。
 1768年に23歳で家督相続しました。1771年(26)に御書院の番士に列し、進物役をつとめました。1774年(29)に肥前島原城を松平(深溝)忠恕が賜るときに現地に赴き、城引渡役をつとめました。
 妻は伊東祐恵の娘、後妻は交代寄合 菅沼定用の娘。
 
(寛政以降の人物)
伊東 祐氏
 伊東祐程の五男。母は菅沼定用の娘。
 1822年に書院番より使番となり、1829年に病により辞職しました。
 
伊東 内蔵助
 伊東祐氏の子。書院番
 
伊東 常五郎 
 伊東内蔵助の子。1857年家督相続し、小普請入り。1864年書院番
 
 

(3)旗本:伊東主膳家

初代 伊東 祐豊(すけとよ)【1612~1668】
 伊東祐慶の二男、母は森本氏。
 1629年(18)に御小姓となり、蔵米二千俵を賜りました。1636年(25)に父の遺領より三千石を分け与えられました。また、御書院の番士となり、のちに中奥に移りました。1651年(40)に辞職し、小普請となりました。享年57。
 妻は陸奥平藩主 内藤政長の娘、後妻は駿河大納言の家老 朝倉宣正の娘、後々妻は三河挙母藩主 三宅康盛の娘。
 
二代 伊東 祐賢(すけかた)【1666~1708】
 伊東祐豊の四男、母は原氏。
 1668年にわずか3歳で家督相続しました。1684年(19)に御小姓となりました。1689年(24)に知行地を蔵米に改められ、務めをゆるされました1692年(27)に御小姓に復し、翌年に中奥の御小姓に移り、その後辞職して寄合となりました。1697年(32)に蔵米を知行地に改められて近江国内で五千石を賜りました。享年43。
 妻は旗本 酒井忠経の娘。
 
三代 伊東 祐詮(すけとし)【1690~1730】
 伊東祐賢の長男、母は酒井忠経の娘。
 1708年に19歳で家督相続し、御小姓になりましたが、翌年五代将軍 徳川綱吉が没したため務めをゆるされました。享年41。
 妻は旗本 高木正長の養女(旗本 土屋茂直の娘)。
 
四代 伊東 祐積(すけつぐ)【1714~1777】
 伊東祐詮の二男、母は高木正長の養女。
 1730年に17歳で家督相続しました。1753年に40歳で隠居しました。享年64。
 妻は旗本 大久保忠明の娘。
 
五代 伊東 祐峯(すけみね)【1737~1768】
 伊東祐積の長男。
 1753年に17歳で家督相続しました。1761年(25)に中奥の御小姓になりました。享年32。
 妻は交代寄合 松平(久松)康郷の娘。
 
六代 伊東 祐政(すけまさ)【1757~?】
 伊東祐峯の長男、母は松平(久松)康郷の娘。
 1768年に12歳で家督相続しました。1781年(25)に中奥の御小姓になりました。1796年に40歳で隠居しました。
 妻は旗本 内藤信庸の娘(離婚)、後妻は出羽松山藩主 酒井忠休の養女(忠休の二男 忠起の娘、離婚)。
 
七代 伊東 祐真(すけちか)【1779~?】
 伊東祐積の二男 祐訓の子。徳川旗本八万騎人物系譜総覧では祐虎とあり。
 従兄祐政の二男祐充が父に先立ち没したため、祐政の婿養子となりました。1796年に18歳で家督相続しました。
 1831年(53)に改易絶家となりました。
 妻は伊東祐政の娘。
 
八代 伊東 釆女【?~?】
 伊東祐真の子。
 1846年に再度召し出されて蔵米三百俵を与えられ、小普請入りしました。
 
九代 伊東 成一郎(せいいちろう)【?~?】
 伊東采女の子。
 1858年に部屋住より書院番入りし、蔵米三百俵。
 1861年家督相続し、1863年に目付、徒頭となり、1866年に御役御免となって勤仕並寄合となりました。
 

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旗本伊東氏略系図 2
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 続徳川実紀 第2篇、第3篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。