探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

高須四兄弟

こんにちは、勘矢です。
今回は高須四兄弟について調べたことをまとめました。
 
 

1. 松平義建の子女

 美濃高須藩 十代藩主 義建には十男九女があり、そのうち六男一女が成人しました。二男 義恕(慶恕・慶勝)は尾張藩を相続、三男 武成は石見浜田藩の越智松平家(六代将軍 徳川家宣の弟 松平清武からはじまる家)を相続、五男 義比が実家高須藩を相続(後に尾張藩 茂徳、一橋家当主 茂栄)、七男 容保は会津松平家を相続、八男定敬は桑名藩の久松松平家を相続、十男 義勇は義比の子 義端のあとに実家高須藩を相続するなど、すべてが大名となりました。一女幸姫は出羽米沢藩主 上杉茂憲に嫁ぎました。
 そのうち慶勝、茂徳、容保、定敬の4人は幕末維新に活躍し、高須四兄弟と呼ばれました。
 

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松平義建の子女
 

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水戸藩高須藩関係図
 

2. 高須四兄弟

(1)徳川慶勝

 1824年(1)松平義建の二男として誕生。母は徳川治紀の娘 規姫。幼名 秀之助。
 1841年(18)に元服し、義恕(よしくみ)と名乗る。
 1849年(26)二本松藩主 丹羽長富の娘矩姫(かねひめ)と婚儀を行う。同年、十四代尾張藩主となり、慶恕(よしくみ)と改名。
 1858年(35)三男 義宜(よしのり)誕生。同年、江戸城へ不時登城したことにより隠居を命じられ、戸山下屋敷にて謹慎・幽閉される。
 
 
 1860年(37)謹慎・幽閉を解かれる。同年、慶勝(よしかつ)と改名。また、この頃より写真研究にとりかかる。
 1863年(40)上洛し、参内して孝明天皇に拝謁。同年、三男で茂徳の養子となっていた義宜が十六代尾張藩主となり、後見する。
 1864年(41)征長総督を命じられ、広島に嫡陣し、長州藩の処分を家老三人の切腹にとどめ、戦闘状態を終結させる。
 
 
 1867年(44)王政復古により、議定職を拝命する。
 1868年(45)青松葉事件。
 1869年(46)議定職を免じられ、麝香之間伺候を命じられる。
 1870年(47)初代名古屋藩知事の慶宜が致仕したため、二代名古屋藩知事となる。
 1871年(48)廃藩置県により、名古屋藩知事を免じられる。
 
 
 1875年(52)義宜が没したため、尾張家の家督を再相続し、十七代となる。
 1876年(53)高松松平家十二代の頼聡の二男 義礼を婿養子に迎える。
 1878年(55)北海道胆振国遊楽部の土地百五十万坪の無償払い下げを申請し、八雲開拓を開始する。同年、銀座 二見朝隈写真館において、弟茂栄、容保、定敬と写真撮影をする。
 
 また、十一男 義恕が誕生。(義恕はのちの男爵家初代となり、子の義寛は昭和天皇の侍従をつとめ、終戦前に「玉音放送」の録音盤を守り通した。)
 1880年(57)隠居し、養子の義礼(よしあきら)が尾張徳川家十八代となる。
 1883年(60)本所横網町邸で没する。
 

(2)徳川茂栄

 1831年(1)松平義建の五男として誕生。母は側室 美佐尾(尾崎氏)。幼名 鎮三郎。
 1845年(15)元服し、建重と名乗る。
 1849年(19)兄義恕の尾張家相続により高須藩の嫡子となり義比(よしちか)と改名。
 
 
 1850年(20)父の隠居により家督相続し、高須藩藩主となる。
 1853年(23)二本松藩主 丹羽長富の娘政姫と婚儀を行う。(兄慶勝の正室の妹)
 1858年(28)長男 義端(よしまさ)誕生。同年、兄 慶勝が隠居を命じられ、十五代尾張藩主となり、茂徳(もちなが)と改名。(高須藩は長男 義端が相続。)
 1860年(30)兄 慶勝の三男 義宜を養子とする。
 
 
 1863年(33)致仕し、玄同と名乗る。養子の義宜が十六代尾張藩主となる。
 1865年(35)十四代将軍 家茂の偏諱を賜り、茂栄と改名。家茂の命により上京し、条約勅許、兵庫開港を奏請する。
 
 
 1866年(36)1月、江戸への帰府を命じられる。4月、老中水野忠精松平康直より、清水家相続の内意を申し渡される。12月、清水家相続の内意を受けていたが、思召しにより一橋家の十代当主となる。(清水家は慶喜の弟昭武が相続。)
 
 
 1868年(38)3月、駿府東征大総督 有栖川宮 熾仁親王慶喜の処分軽減を懇願する。
 閏4月、勝海舟が意見書を静寛院宮(和宮)に提出し、茂栄が徳川宗家のため尽力すべきと言上する。その後、駿府東征大総督 有栖川宮 熾仁親王に嘆願書を提出する。その後、田安亀之助名代として登城し、大総督有栖川宮熾仁親王より亀之助の徳川家名相続の儀を申し渡される。
 5月、徳川宗家からの独立を認められ、一橋藩が成立。
 
 
 1869年(39)版籍奉還するも、他の大名とは異なり知藩事に任ぜられず、廃藩を申し渡される。
 1870年(40)家臣一同が繰り返し新政府に茂栄の知藩事に任じる旨を嘆願するも願いかなわず、一橋藩は解体。
 1878年(48)銀座 二見朝隈写真館において、兄慶勝、弟容保、定敬と写真撮影をする。
 1883年(54)没する。上野凌雲院に葬られる。四男の達道が家督相続。
 

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海津市歴史民俗資料館
 

(3)松平容保

 1835年(1)松平義建の七男として誕生。母は側室 古森氏。幼名 銈之丞。
 1846年(12)会津藩松平容敬の養子となり、容保(かたもり)と改名。(容敬は叔父であるが、公式には会津松平家の子とされる。)
 
 
 1852年(18)養父容敬が没したため、九代会津藩主となる。
 1853年(19)品川第二砲台管守を命じられる。
 1856年(22)前藩主の容敬の娘 敏姫と婚儀を行う。
 1859年(25)品川第二砲台の守備を解かれ、幕府より東蝦夷「ニシベツ」より西蝦夷「サワキ」に至る間アバシリ地方を除き、海岸およそ360キロ(90里)を与えられ、本営・分営を置き、北辺を護る。
 1860年(26)桜田門外の変が起こり、出府して事態の収拾にあたる。
 
 
 1862年(28)京都守護職を命ぜられ、役料五万石を賜る。
 1863年(29)1月、御所に参内し、小御所にて孝明天皇に拝謁。3月、近藤勇新選組の母体となる浪士組が京都守護職に属する。8月、薩摩藩と協力し、朝廷から尊攘派を一掃する(八月十八日の政変)。10月、孝明天皇より宸翰と御製二首を賜る。12月、徳川慶喜松平春嶽と共に朝議参与を命ぜられる。
 
 
 1864年(30)上洛以来の功により五万石加増。2月、京都守護職を免じられ、陸軍総裁・軍事総裁と相次いで任ぜられるも、2か月後に京都守護職に再任される。5月、池田屋事件。7月、禁門の変
 1865年(31)慶喜・定敬らと共に五ヵ国条約と兵庫開港の勅許を朝廷に奏請するも却下。
 
 
 1866年(32)水戸藩徳川慶篤の弟 余九郎麿(のち喜徳)を養子とする。
 1867年(33)2月、病により京都守護職の辞職を上奏するも許可されず。5月、慶喜・定敬らと共に五ヵ国条約と兵庫開港の勅許を朝廷に奏請し、条約勅許を得た。12月、京都守護職を免ぜられ、慶喜・定敬らと共に二条城から大坂城へ移動。
 
 
 1868年(34)1月、鳥羽・伏見の戦いが発生。慶喜・定敬らと共に大坂城を脱出し、開陽丸で江戸へ。官位を剥奪され、京都屋敷も没収される。2月、藩主を辞任し、喜徳に譲る。その後会津に帰り謹慎。
 閏4月、仙台・米沢・庄内諸藩を通じ嘆願書を提出するが、奥羽総督の九条道孝はこれを拒否する。7月、会津城下へ到着した定敬と再会。新政府軍、会津若松城へ乱入。9月、降伏し、開城。容保・喜徳は滝沢村に妙国寺に入る。
 10月、容保・喜徳は東京へ護送され、容保は鳥取藩池田家、喜徳は久留米藩有馬家に幽閉される。
 
 
 1869年(35)実子の容大が誕生。9月、和歌山藩へ御預替となる。
 1870年(36)喜徳と共に斗南藩に御預替となり、7月、田名部(青森県むつ市)に移り、翌月に東京に移る。
 1871年(37)容保・喜徳、特旨をもって御預を免ぜられる。
 
 
 1878年(44)銀座 二見朝隈写真館において、兄慶勝、茂栄、弟定敬と写真撮影をする。
 1880年(46)日光東照宮第七代宮司に任ぜられる。上野東照宮祠官、岩代国耶麻郡猪苗代 土津神社の祠官を兼務する。
 1884年(50)願いにより日光東照宮宮司を免ぜられる。
 
 
 1887年(53)日光東照宮宮司に補せられ、二荒山神社宮司を兼務する。
 1888年(54)東京府皇典講究所監督を委託される。
 1889年(55)栃木県皇典講究所監督を委託される。
 1893年(59)願いにより、宮司の兼務を免ぜられる。病にて没する。
 
 

(4)松平定敬

 1846年(1)松平義建の八男として誕生。母は側室 今西氏。幼名 欽之助、のち鍥之助。
 1859年(14)伊勢桑名藩主 松平定猷(さだみち)の娘 初姫の婿養子となって定敬(さだあき)と改名。
 1863年(18)2月、将軍家茂に従い、京都警備の任につくため江戸を出発する。3月京都に到着後、約2か月藩領の桑名に滞在する。5月に京都に戻り、6月に将軍家茂の江戸帰府に際し、参内する。京都を発し、桑名によってから江戸に参府。12月再度の将軍上洛に合わせて大坂に出発。
 
 
 1864年(19)4月、大坂から京都に移り、京都所司代に任命される。5月、池田屋事件。7月、禁門の変
 1865年(20)閏5月、家茂の際上洛の際、大坂まで出迎える。10月、慶喜・容保らと共に五ヵ国条約と兵庫開港の勅許を朝廷に奏請するも却下。
 1867年(22)5月、慶喜・容保らと共に五ヵ国条約と兵庫開港の勅許を朝廷に奏請し、条約勅許を得た。12月、京都所司代を免ぜられ、慶喜・容保らと共に二条城から大坂城へ移動。
 
 
 1868年(23)1月、鳥羽・伏見の戦いが発生。慶喜・容保らと共に大坂城を脱出し、開陽丸で江戸へ。官位を剥奪されれる。桑名城は開城し、先代の遺児万之助(のち定教)を立て恭順する。2月、深川霊巌寺へ入り謹慎。
 4月、横浜から船で箱館廻りで新潟に向かう。閏4月、柏崎(桑名藩の飛び地)の勝願寺にて鳥羽・伏見の戦い以来の戦死者供養の大法会を営む。7月、会津若松城下へ到着し、兄容保と再会。その後、援軍を求めて米沢へ向かう。8月、米沢城下に滞留し、藩主上杉斉憲(姉 幸姫の岳父)に面会を求めるが拒否される。
 9月、仙台城下に到着し、板倉勝静と面会。10月、蝦夷に向かい、11月に箱館に到着。
 
 
 1869年(24)4月、箱館を脱出して、森村から乗船するも引返す。米国船にのり再出発し、横浜を経て上海へ密行する。5月、横浜に帰着し、野毛町林光寺に入る。その後、市ヶ谷の尾張藩邸に入り降伏し、取調べを受ける。8月、神田の藤堂藩邸へ移り、さらに謹慎を続ける。
 1871年(26)津藩邸より桑名藩に御預替となり、7年ぶりに桑名に帰国する。
 
 
 1872年(27)1月、特旨をもって御預を免ぜられる。2月、初子(初姫)と婚儀を行う。
 1877年(32)朝旨に従い、西南戦争参加のため桑名士族を募集する。定敬も九州まで同行する。
 1878年(33)銀座 二見朝隈写真館において、兄慶勝、茂栄、容保と写真撮影をする。
 1885円(40)四男定晴誕生。
 1894年(49)日光東照宮第八代宮司に就任する。
 1896年(51)日光東照宮宮司を辞す。
 1901年(56)夫人初子没する。
 1908年(63)没する。
 
 
美濃高須についてはこちらもご覧ください。
参考文献:
 高須四兄弟 新宿荒木町に生まれた幕末維新(新宿歴史博物館)
 御三卿 一橋徳川家茨城県立歴史館)
 高須藩をたずねて(海津市歴史民俗資料館)
 徳川慶勝ー知られざる写真家大名の生涯ー(徳川美術館
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 徳川一族大全(廣済堂出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。