探検!日本の歴史

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旗本 山口氏~幕末四賢候 伊達宗城の実家の一族~

こんにちは、勘矢です。
今回は、幕末の四賢候の一人伊達宗城の実家の旗本 山口氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本 山口氏

 山口氏は清和源氏頼季流の丹波赤井氏の一族で、赤井時家の四男 直之が信濃国山口を領したことから山口氏を称したといいます。
 1585年に直之の子 直友が徳川家康に仕え、徳川家が関東に移ると下総国内で三百石を与えられました。その後、大和国内で三千石となり、伏見城番をつとめました。
 山口直友の二男直治は1661年に徳川綱重に附属となって別家しました。甲府藩の家老となり、三千石を領しました。孫の直安は1704年に家宣が西の丸に入ると旗本となり、三千石を知行しました。二代直郷は一橋家家老をつとめ、四代直清は日光奉行、大坂町奉行を歴任しました。
 幕末の直信は勘定奉行大目付をつとめました。直信の弟に伊予宇和島藩主の伊達宗城伊予吉田藩主の伊達宗孝がいます。また、直信の二男 宗敬は宗孝の跡を継いで伊予吉田藩主となりました。
 

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旗本山口氏の略系図

宇和島藩の伊達家についてはこちらをご覧ください。

宇和島藩 伊達家 - 探検!日本の歴史

伊予吉田藩の伊達家についてはこちらをご覧ください。

伊予吉田藩 伊達家 - 探検!日本の歴史

 

2. 旗本 山口一族

(1)甲府藩家老山口家

山口 直治(なおはる)【1615~1672】
 山口直友の二男、母は戸田一西の娘。直友72歳のときの子。
 1628年に召されて蔵米を賜り、御小姓組に列し、その後御小姓に移りました。1631年(17)に蔵米三百俵、翌年に二百俵を加えられ、蔵米を知行地に改められ、七百石を知行しました。1638年(24)に御書院番となり、1643年(29)より進物役をつとめました。1653年(39)に御小姓組の組頭にすすみ、1656年(42)に三百俵を加増されました。
 1661年(47)徳川綱重の家老となって三千石を賜り、旧知七百石及び蔵米三百俵は長男 直矩に与えられました。その後、直矩を跡継ぎにするため、先の旧知を二男 直重に与えました。1671年(57)に辞職しました。享年58。
 妻は島正利の娘、後妻は旗本 浅野氏重の娘。
 
山口 直矩(なおのり)【?~1701】
 山口直治の長男、母は島正利の娘。
 1661年に父直治が甲府藩の家老になると、その旧知七百石及び蔵米三百俵を相続しました。1668年に父の甲府藩での知行三千石を継ぎ、これまでの知行地・蔵米は弟 直重に与えました。
 妻は木村盈直の娘。
 

(2)旗本:山口勝次郎家

初代 山口 直安(なおやす)【?~1733】
 山口直矩の長男、母は木村盈直の娘。
 甲府藩主 徳川綱豊に仕え、父の後を継いで奥寄合に列しました。
 1704年に綱豊が西ノ丸に入るとそれに従い、寄合に列しました。翌年、三河国内に知行地を与えられました。1724年に御小姓組の番士となりました。
 妻は旗本 赤井忠広の娘。
 
二代 山口 直郷(なおさと)【1709~1778】
 山口直安の長男、母は赤井忠広の娘。
 1733年に25歳で相続しました。1745年(37)に御使番になり、翌年、下総国佐倉城を堀田正亮が賜るとき、現地に赴き、城引渡しの役をつとめました。1750年(42)に下野国宇都宮城を松平(深溝)忠祇が賜るとき、現地に赴き、城引渡しの役をつとめました。
 1751年(43)に日光東照宮修理の仮目付をつとめ、翌年、御目付になり、1754年(46)に美濃・伊勢・尾張の河川普請を監察しました。
 1755年(47)に小普請組の支配に移り、1766年(58)に甲府勤番支配となりました。同年、故あって一時出仕を止められました。
 1776年(68)に一橋家の家老となりました。享年70。
 妻は旗本 本多正庸の娘(離婚)。この本多家は本多正信の子孫。
 
三代 山口 直承(なおよし)【1724~1795】
 旗本 戸田忠胤の二男。
 1778年に55歳で相続しました。1789年に66歳で隠居しました。享年72。
 妻は松平(深溝)忠堅の養女(松平(深溝)忠位の娘、忠堅の義妹)。
 
四代 山口 直清(なおきよ)【1759~1798】
 伊予宇和島藩主 伊達村候の二男、母は田中氏。
 直承の婿養子となり、1789年に31歳で相続しました。翌年、火事場見廻りをつとめました。1792年(34)に御使番となり、再び火事場見廻りを兼ねました。
 1793年(35)に日光奉行に移り、1795年(37)に町奉行に転じ、在職中に没しました。享年40。
 妻は山口直承の娘。
 
五代 山口 直勝(なおかつ)【1782~1825】
 山口直清の長男、母は山口直承の娘。内匠、相模守。
 1798年に17歳で相続しました。1813年(32)に火事場見廻りとなり、1816年(35)に中奥小姓となりました。享年44。
 二男の宗城は伊予宇和島藩主となり、三男の宗孝は伊予吉田藩主となりました。
 
六代 山口 直信(ちょくしん)【?~?】
 山口直勝の長男。勝次郎、丹波守。
 1825年に相続しました。1835年に御使番となり、1844年に御目付に進み、翌年、長崎表御用を命じられ、1847年に小普請組支配となりました。
 1847年に日光奉行となり、1850年に山田奉行に移りました。1858年に普請奉行、大目付、西ノ丸留守居となりました。翌年、勘定奉行となり、1860年に再び大目付となりました。1862年に御小姓組番頭になるものの、同年に隠居しました。
 二男の宗敬は弟宗孝の養子なり、伊予吉田藩主となりました。
 
七代 山口 内匠【?~?】
 旗本 佐野茂好の子。勝次郎。実名は「御旗本物語」によると『直衛』。
 山口直信の養子となり、1860年に御小納戸となりました。
 1862年に相続しました。同年、翌年の将軍上洛の御供を仰せつかりました。1863年の上洛中に叔父で元宇和島藩伊達宗城と面会しました。
 その後、御目付をつとめ、1866年に京都詰めを命ぜられ、役料千俵を与えられました。翌年には江戸に戻り、1868年に御使番となりました。
 
愛知県岡崎市に山口氏の陣屋が置かれていました。
 
土呂陣屋の松
また、山口勝次郎家の江戸屋敷は市ヶ谷の逢坂を登って左折して約200mあたりにありました。逢坂の下には築土神社があります。

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逢坂から山口家の屋敷方向

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築土神社から逢坂

(3)旗本:山口鉄太郎家

初代 山口 孫三郎【?~1713】
 山口直重の三男、母は井戸幸弘の娘。
 1678年に召されて御小姓組に列し、1680年に蔵米三百俵を賜りました。
 
二代 山口 鉄太郎
 山口孫三郎の長男。1713年にわずか1歳で相続するも翌年に早世し、絶家となりました。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 御旗本物語ー日本史の意外な証言者たちー(谷 有二/未来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻、第5巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。