こんにちは、勘矢です。
1. 三淵氏とは
2. 旗本:三淵土佐守家
(寛政年間までの当主)
三淵藤英(ふじひで)【?~1574】
三淵晴員の子。
1565年、室町幕府十三代将軍 足利義輝が三好三人衆(三次長逸・三好政康・岩成友通)に殺害されると、弟の細川藤孝らと共に義輝の弟で奈良の興福寺 一乗院門跡 覚慶を救出し、近江に匿いました。覚慶は還俗して足利義秋さらに義昭と改名しました。
藤英らは、義昭の将軍擁立のために尽力し、越前朝倉氏を頼りました。しかし、朝倉氏がなかなか動かなかったため、尾張の織田信長を頼りました。信長の支援で上洛し、義昭が十五代将軍に就任すると藤英は奉公衆となり、幕臣に返り咲きました。
義昭と信長の対立が深まると、藤英は義昭方に付くも、義昭が追放後は信長に仕えました。しかし、1574年に所領を召し上げられ、明智光秀に預けられました。そして、坂本城において長男秋豪(あきひで)と共に自害させられました。
初代 三淵 光行(みつゆき)【1571~1623】
三淵藤英の二男。
妻は豊臣秀頼の家臣 郡宗保の娘。
二代 三淵 藤利(ふじとし)【1604~1657】
三淵光行の長男、母は豊臣秀頼の家臣 郡宗保の娘。別名尚正(なおまさ)
1612年(9)に徳川家康に拝謁し、その後、、御書院番に列しました。1625年(22)に近江国内の采地を美濃国内に移されました。翌年の二代将軍徳川秀忠の上洛に付き従い、のにち西の丸の務めとなり、そののち御小姓組に移りました。1633年(30)に上総国内で二百石を加増され、合わせて千二百石となりました。享年54。
妻は旗本蒔田頼久の娘。蒔田家はのちに吉良と改め、高家となりました。
三代 三淵 勝正(かつまさ)【1642~1693】
三淵藤利の長男、母は蒔田頼久の娘。
1657年に16歳で相続しました。のちに御小姓組の番士となり、その後、番を辞職して小普請となりました。享年52。
妻は旗本 市橋長常(長綱)の娘。
四代 三淵 永正(ながまさ)【?~1719】
三淵勝正の長男、母は市橋長常の娘。
1693年に相続しました。1697年に御小姓組の番士となり、1706年に本所奉行を勤め、翌年に御目付にすすみました。1712年に御船手に移りました。
五代 三淵 政甫(まさやす)【1701~1758】
肥後熊本藩 細川家家臣 郡氏正の子。この郡家は、三淵光行の二男藤正が郡を称することからはじまる。
1719年に19歳で相続し、寄合に列しました。1724年(24)に御小姓組に列し、1733年(33)に御使番にすすみました。1745年(45)に西の丸の御目付に移り、翌年に務めを辞職し、1754年に54歳で隠居しました。享年58。
妻は旗本 水野忠栄の養女(旗本奥山良政の娘、忠栄の妹)、後妻は旗本 青山成福の養女(旗本 青山成意の娘、成福の姪)。
六代 三淵 政醇(まさあつ)【1720~1764】
三淵政甫の長男、母は水野忠栄の養女。
1754年に35歳で相続しました。翌年に御小姓組の番士となりました。享年45。
妻は旗本 向井正員の娘(離婚)、後妻は旗本 稲垣正武の娘(離婚)。
七代 三淵 正広【1746~?】
奥山良寿の二男。先々代政甫の妻の従弟。
1764年に19歳で相続しました。1766年(21)に御小納戸に列しました。1776年に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。1793年(48)に御小納戸頭取の格となり、翌年に頭取にすすみました。1797年(52)に若君(徳川家慶)の附属となりました。
妻は三淵政醇の娘。
三淵 純之丞【1771~1788】
大和柳本藩主 織田秀賢の二男。
1788年(18)に将軍家に拝謁するも父に先立ちて没しました。享年18。
三淵正広の養女(旗本 松平乗識の娘)と婚約。
三淵 正繁(まさしげ)【1772~?】
旗本 松平(五井)忠英の二男。
1791年(20)に御小姓組の番士に列しました。1794年(23)に御小納戸に移りました。1797年(26)に西の丸の務めとなり、その後、西の丸の御小姓に移りました。
妻は三淵正広の養女(旗本 松平乗識の娘)。
参考文献:
家紋・旗本八万騎(秋田書店)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
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