探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

三淵藤英とその子孫

こんにちは、勘矢です。
今回は大河ドラマ麒麟がくる」に登場する、三淵藤英とその子孫について調べたことをまとめました。
 
 

1. 三淵氏とは 

 三淵は「みつぶち」と読み、先祖は足利尊氏落胤ともいわれる。
 三淵の祖持清は足利義満庶子で、足利義持の一字を与えられ持清と称し、引付頭人に列せられ、山城国三淵を領してその地名を名乗りました。
 和泉半国守護の細川元有は三淵晴貞の娘を娶り、その二男晴員は母方のおじ三淵晴恒の養子となりました。晴員は足利義晴、義輝、義昭に仕え、はじめ和泉国松崎城に住み、のちに山城国大法寺城を与えられました。
 藤英は足利義輝、義昭に仕えました。その弟の藤孝は伯父の細川元常の養子となりました。
 藤英の子光行は、関ヶ原の戦いに参戦し、その後、近江国内で千石の地を与えられ、つぎの藤利のときに美濃国内に采地替えがあり、さらに加増があり、千二百石となりました。

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三淵氏略系図
 
 

2. 旗本:三淵土佐守家

(寛政年間までの当主)
 
三淵藤英(ふじひで)【?~1574】
 三淵晴員の子。
 1565年、室町幕府十三代将軍 足利義輝三好三人衆(三次長逸・三好政康岩成友通)に殺害されると、弟の細川藤孝らと共に義輝の弟で奈良の興福寺 一乗院門跡 覚慶を救出し、近江に匿いました。覚慶は還俗して足利義秋さらに義昭と改名しました。
 藤英らは、義昭の将軍擁立のために尽力し、越前朝倉氏を頼りました。しかし、朝倉氏がなかなか動かなかったため、尾張織田信長を頼りました。信長の支援で上洛し、義昭が十五代将軍に就任すると藤英は奉公衆となり、幕臣に返り咲きました。
 義昭と信長の対立が深まると、藤英は義昭方に付くも、義昭が追放後は信長に仕えました。しかし、1574年に所領を召し上げられ、明智光秀に預けられました。そして、坂本城において長男秋豪(あきひで)と共に自害させられました。
 
 
初代 三淵 光行(みつゆき)【1571~1623】
 三淵藤英の二男。
 1600年(30)に関ヶ原の戦いに参戦し、1609年(39)に近江国内において采地千石を賜りました。享年53。
 妻は豊臣秀頼の家臣 郡宗保の娘。
 
二代 三淵 藤利(ふじとし)【1604~1657】
 三淵光行の長男、母は豊臣秀頼の家臣 郡宗保の娘。別名尚正(なおまさ)
 1612年(9)に徳川家康に拝謁し、その後、、御書院番に列しました。1625年(22)に近江国内の采地を美濃国内に移されました。翌年の二代将軍徳川秀忠の上洛に付き従い、のにち西の丸の務めとなり、そののち御小姓組に移りました。1633年(30)に上総国内で二百石を加増され、合わせて千二百石となりました。享年54。
 妻は旗本蒔田頼久の娘。蒔田家はのちに吉良と改め、高家となりました。
 
三代 三淵 勝正(かつまさ)【1642~1693】
 三淵藤利の長男、母は蒔田頼久の娘。
 1657年に16歳で相続しました。のちに御小姓組の番士となり、その後、番を辞職して小普請となりました。享年52。
 妻は旗本 市橋長常(長綱)の娘。
 
四代 三淵 永正(ながまさ)【?~1719】
 三淵勝正の長男、母は市橋長常の娘。
 1693年に相続しました。1697年に御小姓組の番士となり、1706年に本所奉行を勤め、翌年に御目付にすすみました。1712年に御船手に移りました。
 妻は旗本 森長重の娘、後妻は旗本 森正重の娘、後々妻は旗本 柘植宗辰の養女(駿河大納言忠長の家臣 服部作右衛門の娘)。森長重と森正重は”はとこ”で森蘭丸の叔父森可政の子孫。
 
五代 三淵 政甫(まさやす)【1701~1758】
 肥後熊本藩 細川家家臣 郡氏正の子。この郡家は、三淵光行の二男藤正が郡を称することからはじまる。
 1719年に19歳で相続し、寄合に列しました。1724年(24)に御小姓組に列し、1733年(33)に御使番にすすみました。1745年(45)に西の丸の御目付に移り、翌年に務めを辞職し、1754年に54歳で隠居しました。享年58。
 妻は旗本 水野忠栄の養女(旗本奥山良政の娘、忠栄の妹)、後妻は旗本 青山成福の養女(旗本 青山成意の娘、成福の姪)。
 
六代 三淵 政醇(まさあつ)【1720~1764】
 三淵政甫の長男、母は水野忠栄の養女。
 1754年に35歳で相続しました。翌年に御小姓組の番士となりました。享年45。
 妻は旗本 向井正員の娘(離婚)、後妻は旗本 稲垣正武の娘(離婚)。
 
七代 三淵 正広【1746~?】
 奥山良寿の二男。先々代政甫の妻の従弟。
 1764年に19歳で相続しました。1766年(21)に御小納戸に列しました。1776年に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。1793年(48)に御小納戸頭取の格となり、翌年に頭取にすすみました。1797年(52)に若君(徳川家慶)の附属となりました。
 妻は三淵政醇の娘。
 
三淵 純之丞【1771~1788】
 大和柳本藩主 織田秀賢の二男。
 1788年(18)に将軍家に拝謁するも父に先立ちて没しました。享年18。
 三淵正広の養女(旗本 松平乗識の娘)と婚約。
 
三淵 正繁(まさしげ)【1772~?】
 旗本 松平(五井)忠英の二男。
 1791年(20)に御小姓組の番士に列しました。1794年(23)に御小納戸に移りました。1797年(26)に西の丸の務めとなり、その後、西の丸の御小姓に移りました。
 妻は三淵正広の養女(旗本 松平乗識の娘)。
 
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 家紋・旗本八万騎(秋田書店
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代(NHK出版)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。