こんにちは、勘矢です。
1.鎌倉公方
鎌倉公方は関東公方とも呼ばれ、室町時代に関東を管轄した鎌倉府の長である。鎌倉府は鎌倉公方を頂点とし、上杉氏が関東管領として補佐した。はじめは関東8ヵ国(相模、武蔵、上野、下野、常陸、下総、上総、安房)と伊豆、甲斐であったが、のちに陸奥と出羽も追加された。
鎌倉幕府が倒れた後、建武の新政により足利尊氏の弟足利直義が後醍醐天皇の皇子成良親王と共に鎌倉に入ったことが鎌倉府のはじまりと考えられます。室町幕府が開かれると直義は兄と共に京都で政務に携わったため、代わりに尊氏の嫡男義詮が鎌倉府の長となりました。
四代持氏は関東管領の上杉禅秀と不和になり、禅秀が起こした反乱で一時鎌倉を追われましたが、幕府の支援を受けてこれを鎮圧しました。その後、五代将軍義量が嗣子なく没すると将軍職を得るチャンスと思っていましたが、四代将軍義持の弟が還俗して六代将軍義教となったので、幕府への反発を強めていきました。関東管領上杉憲実は将軍と鎌倉公方の融和をはかりましたが失敗しました。幕府と鎌倉公方の対立は決定的になり、幕府は鎌倉に軍勢を差し向け鎌倉公方を滅ぼしました。(永享の乱)
○歴代の鎌倉公方
初代 足利 基氏(もとうじ)【1340~1367】
2代 足利 氏満(うじみつ)【1359~1398】
3代 足利 満兼(みつかね)【1378~1409】
4代 足利 持氏(もちうじ)【1398~1439】
○鎌倉公方一族
足利 満直(みつただ)【?~1440】
足利 満隆(みつたか)【?~1417】
足利 満貞(みつさだ)【?~1439】
足利 持仲(もちなか)【?~1417】
足利 義久(よしひさ)【1426~1439】
2.古河公方
持氏の遺児 春王丸、安王丸は下総の結城氏を頼って結城城にはいるが、幕府軍に攻められ落城した(結城合戦)。その後2人は捕らえ、京に送られる途中で殺された。末弟の永寿王丸(のち成氏)は赤子のため助命された。
古河を選んだ理由として、まず兄たちを擁して幕府と戦った結城氏の本拠に近いこと、下総にある古河と武蔵の間には太日川や利根川、荒川といった川があったため、武蔵からの攻撃に対する防御を考えてのことではないかと考えます。
太日川は現在の渡良瀬川、権現堂川、中川(松伏町金杉あたりまで)、江戸川(およそ野田橋より南)の川筋に相当する流れでした。戦国時代の利根川は行田市あたりから南東に流路を変えて現在の古利根川、中川の川筋に相当する流れでした。また、現在の元荒川がかつての荒川です。
四代晴氏は義父北条氏綱の支援をえて、叔父の小弓公方足利義明を国府台の合戦で破った。氏綱の死後、その子氏康と対立し、扇谷上杉と山内上杉と連合軍を形成して北条氏康と戦うも河越夜戦で敗戦し、のちに相模波多野(神奈川県)に幽閉されました。
豊臣秀吉による小田原征伐のち、会津に向かう途中で宇都宮に滞在したとき、喜連川塩谷氏に嫁いでいた小弓公方義明の孫娘 嶋子が秀吉に召されて拝謁しました。このとき、嶋子の弟国朝を氏姫と結婚させることで、古河公方の再興を許されました。さらに喜連川を領地として与えられ、喜連川を名乗りました。
○歴代の古河公方
初代 足利 成氏(しげうじ)【1434/38~1497】
2代 足利 政氏(まさうじ)【1466~1531】
3代 足利 高基(たかもと)【?~1535】
4代 足利 晴氏(はるうじ)【1508~1560】
5代 足利 義氏(よしうじ)【1541~1583】
○古河公方の一族
氏姫(うじひめ)【1574~1620】
足利義明(よしあき)【?~1538】
足利基頼(もとより)【?~1538】
喜連川 国朝(くにとも)【1572~1593】
参考文献:
日本史総覧(新人物往来社)
日本一小さな大大名(グラフ社/山下昌也著)
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