探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

関東の足利氏~鎌倉公方・古河公方~

こんにちは、勘矢です。
今回は鎌倉公方古河公方について調べたことをまとめました。

 

 

1.鎌倉公方

 鎌倉公方関東公方とも呼ばれ、室町時代に関東を管轄した鎌倉府の長である。鎌倉府は鎌倉公方を頂点とし、上杉氏が関東管領として補佐した。はじめは関東8ヵ国(相模、武蔵、上野、下野、常陸、下総、上総、安房)と伊豆、甲斐であったが、のちに陸奥と出羽も追加された。
 鎌倉幕府が倒れた後、建武の新政により足利尊氏の弟足利直義後醍醐天皇の皇子成良親王と共に鎌倉に入ったことが鎌倉府のはじまりと考えられます。室町幕府が開かれると直義は兄と共に京都で政務に携わったため、代わりに尊氏の嫡男義詮が鎌倉府の長となりました。
 観応の擾乱で直義が失脚すると、義詮が京都での政務に携わることになり、義詮の弟の基氏が鎌倉にくだりました。基氏は鎌倉府による支配体制の基礎をかため、以降の鎌倉公方は基氏の子孫が世襲しました。
 二代氏満は将軍職を得ようと画策しましたが、関東管領上杉氏の諫言を受けて断念しました。後年、陸奥と出羽の支配権を与えられました。
 三代満兼は弟の満直、満貞を陸奥(現在の福島県)に派遣し、東北の支配の強化しました。大内義弘が起こした応永の乱に呼応して、将軍職を得ようと出陣するも義弘が敗死したことなどにより断念しました。
 四代持氏は関東管領上杉禅秀と不和になり、禅秀が起こした反乱で一時鎌倉を追われましたが、幕府の支援を受けてこれを鎮圧しました。その後、五代将軍義量が嗣子なく没すると将軍職を得るチャンスと思っていましたが、四代将軍義持の弟が還俗して六代将軍義教となったので、幕府への反発を強めていきました。関東管領上杉憲実は将軍と鎌倉公方の融和をはかりましたが失敗しました。幕府と鎌倉公方の対立は決定的になり、幕府は鎌倉に軍勢を差し向け鎌倉公方を滅ぼしました。(永享の乱
 
 

○歴代の鎌倉公方

初代 足利 基氏(もとうじ)【1340~1367】
 足利尊氏の子で、母は赤橋登子。1349年に鎌倉公方となった。享年28。
 
2代 足利 氏満(うじみつ)【1359~1398】
 足利基氏の長男。1367年に鎌倉公方となった。享年40。
 
3代 足利 満兼(みつかね)【1378~1409】
 足利氏満の長男。1398年に鎌倉公方となった。享年32。
 
4代 足利 持氏(もちうじ)【1398~1439】
 足利満兼の長男。1409年に鎌倉公方となった。享年42。
 

鎌倉公方一族

足利 満直(みつただ)【?~1440】
 足利氏満の子。1399年に陸奥に派遣され、篠川御所と呼ばれた。反持氏の立場をとり、鎌倉公方が滅ぼされたのち、持氏の遺児を要する結城方に攻められ自害した。
 
足利 満隆(みつたか)【?~1417】
 足利氏満の子。持氏と対立し、養子の持仲と上杉禅秀と共に挙兵し、一時は鎌倉を制圧するも持氏方の反撃を受けて自害した。
 
足利 満貞(みつさだ)【?~1439】
 足利氏満の子。1399年に陸奥に派遣され、稲川御所と呼ばれた。持氏を支持したが、幕府軍に攻められ自害した。
 
足利 持仲(もちなか)【?~1417】
 足利満兼の二男。叔父満隆の養子。養父と上杉禅秀と共に挙兵し、一時は鎌倉を制圧するも持氏方の反撃を受けて自害した。
 
足利 義久(よしひさ)【1426~1439】
 足利持氏の子。永享の乱で父のあとを追い自害した。
 

2.古河公方

 持氏の遺児 春王丸、安王丸は下総の結城氏を頼って結城城にはいるが、幕府軍に攻められ落城した(結城合戦)。その後2人は捕らえ、京に送られる途中で殺された。末弟の永寿王丸(のち成氏)は赤子のため助命された。
 その後、鎌倉公方なしに関東を治めることが難しかったのか、1449年に成氏を鎌倉公方にしたが、関東管令上杉憲忠を殺したことにより、幕府軍の追討を受け、古河へ移った。これ以降古河公方と呼ばれた。
 古河を選んだ理由として、まず兄たちを擁して幕府と戦った結城氏の本拠に近いこと、下総にある古河と武蔵の間には太日川や利根川、荒川といった川があったため、武蔵からの攻撃に対する防御を考えてのことではないかと考えます。
 太日川は現在の渡良瀬川権現堂川、中川(松伏町金杉あたりまで)、江戸川(およそ野田橋より南)の川筋に相当する流れでした。戦国時代の利根川行田市あたりから南東に流路を変えて現在の古利根川、中川の川筋に相当する流れでした。また、現在の元荒川がかつての荒川です。
 
 二代政氏は父の死により古河公方となりました。その後、子の高基と不和になり、古河を追われて久喜(埼玉県久喜市)に移り住みました。現在、甘棠院がある場所です。
 三代高基は父を追放して古河公方となりました。息子の晴氏に北条氏綱の娘を迎えて勢力の回復をはかるが、弟高基や晴氏と対立し、のちに隠居しました。
 四代晴氏は義父北条氏綱の支援をえて、叔父の小弓公方足利義明国府台の合戦で破った。氏綱の死後、その子氏康と対立し、扇谷上杉と山内上杉と連合軍を形成して北条氏康と戦うも河越夜戦で敗戦し、のちに相模波多野(神奈川県)に幽閉されました。
 五代義氏は、伯父北条氏康の庇護を受けて1552年に古河公方となりました。嫡男に先立たれ、跡継ぎがないままなくなりました。残ったのは娘の氏姫のみでした。家臣団は幼い姫を擁立して城主としました。
 豊臣秀吉による小田原征伐のち、会津に向かう途中で宇都宮に滞在したとき、喜連川塩谷氏に嫁いでいた小弓公方義明の孫娘 嶋子が秀吉に召されて拝謁しました。このとき、嶋子の弟国朝を氏姫と結婚させることで、古河公方の再興を許されました。さらに喜連川を領地として与えられ、喜連川を名乗りました。
 
 茨城県古河市古河公方公園(古河市総合公園)あたりに古河公方の館がありました。
 

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古河公方館趾
 

○歴代の古河公方

初代 足利 成氏(しげうじ)【1434/38~1497】
 足利持氏の四男。5代鎌倉公方のち初代古河公方。享年60/64。
 
2代 足利 政氏(まさうじ)【1466~1531】
 足利成氏の長男。1497年に古河公方となった。享年66。
 
3代 足利 高基(たかもと)【?~1535】
 足利政氏の長男。1512年に古河公方となった。
 
4代 足利 晴氏(はるうじ)【1508~1560】
 足利高基の子。妻は北条氏綱の娘芳春院。享年53。
 
5代 足利 義氏(よしうじ)【1541~1583】
 足利晴氏の子。母は北条氏綱の娘芳春院。享年43。
 

古河公方の一族

氏姫(うじひめ)【1574~1620】
 足利義氏の娘。豊臣秀吉の命により足利国朝と結婚。国朝が亡くなるとその弟の頼氏と再婚。喜連川の領地には住まず、終生古河に住んだ。享年47。
 
足利義明(よしあき)【?~1538】
 足利政氏の子。出家の身であったが、のちに還俗して上総武田氏の支援を得て下総小弓城に入り、小弓公方と呼ばれた。国府台の合戦で晴氏方と戦い敗死した。
 
足利基頼(もとより)【?~1538】
 足利政氏の子。兄義明に従って国府台の合戦に参戦するも敗死した。
 
喜連川 国朝(くにとも)【1572~1593】
 足利頼純の子。小弓公方義明男の孫。妻は足利義氏の娘 氏姫。古河公方名跡を継ぐが、文禄の役肥前名護屋に向かう途中で没した。享年22。
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 日本史総覧(新人物往来社
 日本一小さな大大名(グラフ社/山下昌也著)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。