探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

土岐(豊島)氏一族

こんにちは、勘矢です。
今回は豊島土岐氏一族について調べたことをまとめました。
 
前回
前々回
 
 

1. 土岐(豊島)氏とは

 美濃守護土岐頼芸の弟治頼は、常陸国江戸崎城主(茨城県稲敷市)原景成の婿養子となり、のちに土岐にあらためました。跡を継いだ子の治英は、古河公方足利晴氏に属しました。次の治綱は佐竹義重と戦い討死にしました。治綱の子頼英は幼少のため、その弟胤倫が佐竹氏と合戦に及ぶも利がなく、龍崎に隠れ住みました。
 胤倫の子朝房は母方の姓豊島を名乗って徳川家康に仕え、廩米二百俵を賜りました。1611年に徳川頼宣の附属となり、大坂の陣でも頼宣に従い出陣しました。朝清、朝治と紀州家に仕え、徳川吉宗が将軍になると朝治とその三男朝直が旗本に取り立てられました。
 朝直の曾孫朝旨は御用取次となって四千石を加増され、その子朝昌は講武所奉行をつとめました。

 

f:id:SGM335:20200425212529p:plain

土岐(豊島)氏 略系図
 

2. 土岐(豊島)氏当主一覧

(1)旗本:土岐信濃守家

初代 土岐 朝治(ともはる)【1661~1733】
 豊島朝清の二男、母は近江大溝藩主 分部家家臣 分部友定の娘。
 紀州藩徳川吉宗に仕え、1716年(56)に吉宗が将軍になると嫡子家重に供奉して二ノ丸に入り、御書院の番頭に準じられ、下野国内で千二百石を賜り、豊島から土岐に復しました。翌年千石の加増があり、合わせて二千二百石を知行しました。
 1724年(64)に二ノ丸の御側となり、翌年より西ノ丸につとめ、1728年(68)に高齢のため宿直を許されました。享年73。
 妻は紀州家の侍女 勝野の養女。
 
二代 土岐 朝澄(ともずみ)【1691~1752】
 土岐朝治の長男、母は紀州家の侍女 勝野の養女。
 紀州藩徳川吉宗に仕え、1716年(26)に吉宗が将軍になるとそれに従い、御小納戸となりました。1728年(34)の日光社参に供奉しました。
 1733年に43歳で相続しました。1749年(59)に西ノ丸御小姓組の番頭となり、1751年(61)に八代将軍徳川吉宗が亡くなると寄合となりました。1752年(62)隠居し、隠居料として廩米三百俵を賜りました。享年62。
 妻は旗本 江原全玄の娘。
 
三代 土岐 朝貞(ともさだ)【1724~1774】
 土岐朝澄の二男、母は江原全玄の娘。
 1743年(20)に御小納戸となり、1745年(22)に西ノ丸のつとめとなりました。1752年に29歳で相続しました。1755年(32)に火事場見廻りをつとめ、1759年(36)に御使番となり、美濃郡上城に赴いて城引渡しの役を勤めました。1761年(38)に小普請組の支配に転じました。1766年(43)に西ノ丸御小姓組の番頭に進み、1770年(47)に御書院番の番頭にうつりました。享年51。
 妻は旗本 大岡忠征の娘。大岡忠征は大岡忠相の親戚。
 
四代 土岐 朝恒(ともつね)【1745~1781】
 分家 土岐朝貞の長男、母は大岡忠征の娘。
 1762年(18)に御小姓組の番士となり、1772年(28)に中奥の番士に転じました。
 1774年に30歳で相続しました。1776年(32)に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました1778年(34)に西ノ丸の小十人の頭となり、翌年本丸のつとめとなり、1781年(37)に西ノ丸のつとめに復しました。享年37。
 妻は旗本 丸毛政恭の娘。
 
五代 土岐 朝利(ともとし)【1765~1829】
 分家 土岐朝秋の二男。
 1781年に17歳で相続し、小普請となりました。1783年(19)に御小納戸となり西ノ丸につとめ、1786年(22)に本丸に復し、翌年御小姓に転じ、1790年(26)に中奥の御小姓にうつりました。
 1805年(41)に新番頭、1810年(46)に小普請組支配となり、翌年一橋家の家老となりました。1822年(58)に300石を加増され合わせて2500石となり、1825年(61)に隠居の一橋治済(将軍徳川家斉の実父)附きとなり、御留守居次席、当主一橋斉礼の用向を兼ねました。1828年(64)に御留守居となりました。享年65。
 妻は土岐朝恒の娘。

f:id:SGM335:20200425195139j:plain

一橋徳川屋敷跡
六代 土岐 源次郎【?~?】
 土岐朝利の養子。大学頭。
 1810年に召し出されて両番となり、のちに御小納戸、御小姓となりました。
 1829年に相続しました。1840年に隠居しました。
 
七代 土岐 朝義(ともよし)【?~1859】
 土岐 源次郎の養子。半之丞。
 1820年に御小納戸となり、1825年に御小姓、1837年に西ノ丸御小姓へうつり、西ノ丸御小姓頭取介を経て西ノ丸御小姓頭取となりました。
 1840年に相続しました。1841年に新番頭となりました。1846年に小普請組支配、1849年に西ノ丸御小姓組番頭、1851年に小姓組番頭、一柳家の家老となりました。
 
八代 土岐 朝佐【?~?】
 1859年に相続しました。
 
 

(2)旗本:土岐豊前守家

初代 土岐 朝直(ともなお)【1695~1761】
 土岐朝治の三男、母は紀州家の侍女 勝野の養女。
 紀州藩徳川吉宗に仕え、1716年(22)に吉宗が将軍になるとそれに従い、御小姓に列して廩米三百俵を賜りました。のちに豊島から土岐に復しました。1728年(34)の日光社参に供奉しました。1741年(47)に三百石を加えられ、先の廩米をあらためられ、武蔵・上野国内で六百石を知行しました。1745年(51)に西ノ丸のつとめになり、1747年(53)に西ノ丸御先弓の頭に転じました。1760年(66)に務めを辞職して寄合となりました。享年67。
 妻は旗本 中山直好の娘。
 
二代 土岐 朝秋(ともあき)【1727~1783】
 土岐朝直の長男、母は中山直好の娘。
 1747年(21)に西ノ丸の御小納戸となりました。1751年(61)に八代将軍徳川吉宗が亡くなると寄合となりました。
 1761年に35歳で相続しました。1775年(49)に小十人組の頭となり、翌年、十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。享年57。
 妻は旗本 柳生久寿の養女(岩出信之の娘、離婚)。この柳生家は、柳生宗矩の子孫宗在の門下で、のち柳生を称することを許されました。
 
三代 土岐 朝尭(ともたか)【1763~1785】
 土岐朝秋の長男。
 1783年に21歳で相続し、小普請となりました。享年23。
 妻は旗本 江原胤親の娘。朝尭の死後、旗本 本多忠廉と再婚。
 
四代 土岐 朝旨(ともむね)【1770~1838】
 旗本 深津盛徳の三男、母は水野守鑑の娘。盛徳は本家 土岐朝貞の三男。
 1786年に17歳で相続しました。1794年(25)に御小納戸のちに御小姓となりました。1797年(28)に徳川家慶の附属となりました。
 1802年(33)に西ノ丸御小姓頭取、1814年(45)に御小姓組番頭格、御側御用取次見習、1817年(48)に御側御用取次となり千四百石を加増されました。1827年(58)に二千石、1836年(67)に三千石を加増されて、合わせて七千石となりました。翌年から大御所徳川家斉の御用をつとめました。享年69。
 妻は旗本 小長谷時懋の娘。時懋は土岐朝貞の四男。
 
土岐 朝豪(ともたけ)
 土岐朝旨の子、母は小長谷時懋の娘。銓之助。
 1810年に初見えし、1820年に西ノ丸の小姓となりました。
 
五代 土岐 朝昌(ともまさ)
 土岐朝旨の子。
 1832年に西ノ丸の御小姓となり、のちに本丸に転じました。
 1838年に相続しました。1842年に御小姓組番頭、1844年に御書院番となりました。1854年浦賀奉行となり、1857年に御書院番に復しました。同年に勘定奉行の勝手方海防掛、翌々年に駿府城代1862年講武所奉行となりました。1863年に御側御用取次となりましたが、翌年に御役御免となりました。
 
六代 土岐 若狭守
 1864年に相続しました。組合銃隊頭、目付。
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
 続徳川実紀 第二篇(国立国会図書館デジタルコレクション
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。