こんにちは、勘矢です。
今回は越前鯖江藩主間部家とその一族について調べたことをまとめました。
1. 間部氏とは
綱豊が六代将軍 家宣になると側用人に取り立てられ、新井白石と共に正徳の治と呼ばれる政治を行いました。この間に大名に取り立てられ、上野国高崎(群馬県高崎市)を与えられました。家宣が亡くなるとその子家継にも仕えました。家継が亡くなると、高崎から越後国村上(新潟県村上市)に移されました。
2. 間部家当主一覧
初代 間部 詮房(あきふさ)【1666~1720】
西田清貞の長男、母は武蔵忍藩家臣 小川次郎右衛門の娘。1684年(19歳)に徳川綱豊(のち家宣)の小姓になり禄米二百五十俵を与えられ、以後重用されるようになりました。1704年(39歳)に家宣が将軍の世子となり江戸城西の丸に入るとそれに従い御家人となりました。西の丸の御書院番となり、廩米一千俵を賜りました。
1705年(40歳)に廩米を采地にあらためられ、また加増されて相模国内において三千石を知行しました。1706年(41歳)に若年寄格となって七千石の加増があり一万石となりました。1709年(44)に家宣が六代将軍となると老中格の側用人となり、1710年(45歳)に上野国高崎において五万石を与えられました。1712年(47歳)に家宣が死に際し、詮房に後事を託したため、七代将軍 家継の側用人として幕政を支えました。家継が亡くなると辞職し、1717年(52歳)に越後村上藩へ転封となりました。享年55。正室は甲府藩臣 小花和成武の娘。
二代 間部 詮言(あきとき)【1690~1724】
西田清貞の五男、母は側室 小河氏。1708年(19歳)に世子のいなかった兄詮房の養子となりました。1720年に31歳で越後村上藩を相続しましたが、同年に越前鯖江藩に転封となりました。鯖江は城のない土地でしたので、城主から無城となり家格が低下しました。詮言は鯖江の地を踏むことなく没しました。享年35。正室は武蔵忍藩主 阿部正喬の養女(旗本 阿部正房の娘)。
三代 間部 詮方(あきみち)【1709~1785】
分家 間部詮貞の長男、母は側室 田中氏。1724年に16歳で越前鯖江藩を相続しました。1735年(27歳)に勅使饗応役を務めました。1742年(34歳)に新利根川大堤の修復工事に従事しました。1761年に53歳で病気のため隠居しました。享年77。正室は間部詮言の娘 見知。継室は越前丸岡藩主 有馬一準の娘。
丸岡有馬氏についてはこちらもご覧ください。
四代 間部 詮央(あきなか)【1738~1771】
五代 間部 詮茂(あきとお)【1739~1786】
六代 間部 詮熙(あきひろ)【1766~1812】
七代 間部 詮允(あきさね)【1790~1814】
八代 間部 詮勝(あきかつ)【1804~1884】
間部詮熙の三男、母は側室 永田氏。1814年に11歳で越前鯖江藩を相続しました。1826年(23歳)に奏者番となり、1830年(27歳)に寺社奉行加役、1837年(34歳)に大坂城代、翌年に京都所司代と出世しました。1840年(37歳)に西の丸老中となり、鯖江に築城が許可されましたが、天保の飢饉や城地にする場所がないこなどから築城には至りませんでした。1843年(40歳)に病気を理由に老中を辞職しました。
1858年(55歳)に井伊直弼の推挙により老中(勝手掛兼外国掛)に再任されました。条約締結問題の勅許の件で上洛し、朝廷工作を行って了承を得てました。また、尊攘派の公家を処罰しました。その後、江戸に帰ると井伊大老と意見が対立し、老中を解任されました。
九代 間部 詮実(あきざね)【1827~1863】
十代 間部 詮道(あきみち)【1853~1892】
間部詮勝の八男、母は側室 田子氏。1864年に12歳で越前鯖江藩を相続しました。就任後に水戸天狗党の浪士が領内を通過したため、藩兵を出動させ、福井藩など周囲の藩とともに警備を行いました。1869年(17歳)に版籍奉還し、鯖江藩知事に任ぜられ、1871年(19歳)に廃藩置県を迎えました。享年40。正室は上総大多喜藩主 松平正和の娘 貴子。
3. 間部一族
間部 詮貞(あきさだ)【1668~1727】
西田清貞の二男、母は小川次郎右衛門の娘。甲府藩の桜田の江戸屋敷において御小姓をつとめ、1704年(37歳)に家宣が将軍の世子となり江戸城西の丸に入るとそれに従い御家人となりました。西の丸桐間の番士となり、廩米二百五十俵を賜りました。翌年、御小納戸となり、二百俵を加えられ、合わせて四百五十俵となりました。七代将軍 家継が亡くなると務めをゆるされ寄合に列しました。嫡男詮方が本家を相続したため家は絶えました。享年60。
間部 方喬(みちたか)【1749~1770】
間部詮方の八男。1763年(15歳)将軍家世子徳川家基がはじめて山王社に詣でるときに付き従いました。
享年22。
(1)旗本:間部主殿頭家
(寛政年間までの当主)
初代 間部 詮之(あきゆき)【1674~1730】
西田清貞三男、母は母は小川次郎右衛門の娘。甲府藩の桜田の江戸屋敷において小姓をつとめ、1704年(31歳)に家宣が将軍の世子となり江戸城西の丸に入るとそれに従い御家人となりました。西の丸の御小姓となり、廩米三百五十俵を賜りました。その後、廩米をあらためて采地となり、数回の加増があり二千百五十石となりました。七代将軍 家継が亡くなると務めをゆるされ寄合に列しました。1724年(51歳)に御作事奉行となりました。享年57。妻は旗本蒔田広蕃の娘(離縁)。
二代 間部 詮綽(あきひろ)【1716~1771】
間部詮衡の二男、母は秋田季品の娘。1730年に15歳で相続しました。御書院番、御使番などをつとめました。享年56。妻は旗本 岡部長藏の娘(離縁)。
三代 間部 方元(みちもと)【1757~?】
越前鯖江藩主 間部詮方の五男。1771年に15歳で相続しました。妻は間部詮綽の娘。
(2)旗本:間部図書家
(寛政年間までの当主)
初代 間部 詮衡(あきひら)【1681~1725】
西田清貞の四男、母は母は小川次郎右衛門の娘。甲府藩の桜田の江戸屋敷において小姓をつとめ、1704年(24歳)に家宣が将軍の世子となり江戸城西の丸に入るとそれに従い御家人となりました。西の丸の御小姓となり、廩米二百五十俵を賜りました。その後、廩米をあらためて采地となり、数回の加増があり千五百五十石となりました。七代将軍 家継が亡くなると務めをゆるされ寄合に列しました。享年45。妻は旗本 秋田季品の娘。
二代 間部 詮長(あきなが)【1715~1766】
間部詮衡の長男、母は秋田季品の娘。1725年に11歳で相続しました。1741年(27歳)に西の丸の御書院番となりました。享年52。妻は旗本 秋田季成娘(母の姪)。
三代 間部 詮番(あきつぐ)【1740~1782】
間部詮長の長男。1763年(24歳)に御小姓組の番士となりました。1766年に27歳で相続しました。享年43。妻は旗本 安部信久の娘、後妻は旗本 長谷川正脩の娘。
四代 間部 詮芳(あきふさ)【1766~?】
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系大事典(東京堂出版)
事典にのらない 江戸大名の晩年と隠居(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。