こんにちは、勘矢です。
今回は越前大野藩について調べたことをまとめました。
1. 越前大野藩
江戸時代初期は福井藩領でした。松平忠直が改易された後、忠直の弟松平直政が上総国姉崎(千葉県市原市)から越前国大野(福井県大野市)に移封されて立藩しました。その後、直政が転封となると弟の直基、直良と続けて入り、直良の子直明まで約60年越前松平一門の領地でした。
2. 越前松平家一門の大野藩主たち
初代 松平 直政(なおまさ)【1601~1666】
結城秀康の三男、母は側室 三谷長基の娘。1614年(14)の大阪冬の陣で初陣を飾り、兄忠直の麾下に属して真田丸攻めを行いました。このとき直政は先駆けをし、この様子を真田丸から見て感じ入った真田信繁(幸村)から軍扇を投げ与えられたといわれます。翌年の夏の陣にも参戦し、戦功を立てました。戦後、越前国内に一万石を与えられました。1619年(19)に一万石を加増され上総姉崎二万石となりました。1624年(24)に三万石を加増され、越前大野五万石となりました。1633年(33)に二万石を加増され、信濃松本七万石となりました。1638年(38)に十一万六千石を加増され、出雲松江十八万六千石となりました。享年66。正室は美濃大垣藩主 松平忠良の娘 久姫。
初代 松平 直基(なおもと)【1604~1648】
松平直基については下記の記事にも書いているのでご覧ください。
初代 松平 直良(なおよし)【1604~1678】
結城秀康の六男、母は側室 津田信益の娘 奈加。1624年(21)に次兄忠昌から越前木本二万五千石を与えられました。1632年(29)に越前勝山三万五千石となりました。1644年(41)に越前大野五万石となりました。享年75。正室は越前丸岡藩主 本多成重の娘 豊。
二代 松平 直明(なおあきら)【1656~1721】
3. 土井家の大野藩主たち
初代 土井 利房(としふさ)【1631~1683】
土井利勝の四男、母は側室 中村氏。1644年(14)に父の遺領のうち下野国足利郡内で一万石を与えられました。1658年(28)に兄土井利隆の領地から一万石を分与され、二万石となりました。1661年(31)に奏者番となり、1663年(33)に若年寄に進み、その後五千石を加増され、1679年(49)に老中に就任し一万五千石の加増があり合わせて四万石となりました。1681年(51)に老中を辞職し、翌1682年(52)に越前大野藩主となりました。享年53。正室は陸奥弘前藩主 津軽信義の娘。
二代 土井 利知(としとも)【1674~1745】
土井利房の長男、母は側室 小林氏。1683年に10歳で越前大野藩を相続しました。1695年(22)に越前丸岡藩主 本多重益が改易になったとき、丸岡城の請け取り役をつとめました。翌年には大坂加番となりました。1722年(49)に奏者番となり1741年(68)までつとめました。1743年(70)に隠居しました。享年72。正室は下総佐倉藩主 稲葉正往の養女(稲葉正則の娘)。
利知の初名は利治で、1740年に九代将軍家重の嫡男竹千代が家治と名を改めたため、「治」の名を憚って改名しました。
本多重益については、下記の記事にも書いているのでご覧ください。
三代 土井 利寛(としひろ)【1718~1746】
四代 土井 利貞(としさだ)【1741~1807】
土井利寛の長男、母は側室 坂上氏。1746年にわずか6歳で越前大野藩を相続しました。1759年(19)以降大坂加番を8回つとめました。1805年に65歳で隠居しました。享年67。播磨姫路藩主 酒井忠恭の娘 泰。
五代 土井 利義(としのり)【1777~1818】
近江彦根藩藩主 井伊直幸の九男、母は側室 池崎氏。1791年(15)に利貞の娘と婚約して婿養子となりましたが、婚約者に先立たれました。1805年に29歳で越前大野藩を相続しました。1810年に34歳で隠居しました。享年42。正室は和泉岸和田藩主 岡部長住の娘 於松。
六代 土井 利器(としかた)【1783~1818】
七代 土井 利忠(としただ)【1811~1868】
土井利義の長男、母は岡部長備の娘。1818年にわずか8歳で越前大野藩を相続しました。宗家の下総古河藩主 土井利位が後見役をつとめました。1842年に藩政改革に着手し、産物会所*を設けて生糸・茶などを国産奨励として力を注ぎ、さらに藩直営販売店「大野屋」を大坂など全国12ヶ所に設置しました。さらに藩校明倫館を創設、洋学の振興を図るために洋学館を開設しました。
1855年(45)幕府に蝦夷地開拓の意見書を提出し、翌年樺太西海岸を調査し、のちに大野藩の準領地として幕府に認められました。また、洋式帆船「大野丸」の建造も行いました。1862年に52歳で隠居しました。享年58。正室は出羽新庄藩主 戸沢正胤の娘 晉、継室は美濃大垣藩主 戸田氏庸の娘。
*産物会所: 国産会所ともいい、江戸中期以降に殖産興業政策や、国産品専売業務を行うために設けられた幕府や諸藩の役所。
大野城には土井利忠の像があります。
八代 土井 利恒(としつね)【1848~1893】
土井利忠の三男。1862年に15歳で越前大野藩を相続しました。1864年(17)に十四代将軍 家茂の上洛に供奉しました。同年洋式帆船大野丸が座礁し、藩の北蝦夷開拓事業が頓挫しました。さらに水戸浪士の天狗党が領内をを通過する騒動があり、つづいて京都の警備を命じられました。
1868年(21)に北蝦夷開拓地を上知、箱館裁判所副総督に任ぜられたが、病気を理由に辞退しました。反新政府軍の征討作戦に家老を隊長に藩兵を箱館に送り戦果をあげて、戦後賞典禄三千石を下賜されました。翌年版籍奉還し、大野藩知事となりました。1871年(24)に廃藩置県を迎えました。享年46。正室は下総古河藩主 土井利則の娘 福子。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
江戸三百藩大全(廣済堂出版)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。