こんにちは、勘矢です。
今回は以前とりあげた下野吹上藩有馬家の本家、久留米藩の有馬家とその一族について調べたことをまとめました。
1. 摂津有馬氏
則頼の子豊氏ははじめ遠江横須賀城主 渡瀬繁詮に仕えていましたが、渡瀬氏の失脚後にその遺領を領し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後丹波福知山六万石となりました。父の死後その遺領も継ぎ、その後加増されて筑後久留米二十一万石となりました。
分家には筑後松崎藩有馬家、下野吹上藩有馬家、旗本が2家あります。
2. 久留米藩有馬家当主一覧
藩祖 有馬 則頼(のりより)【1533~1602】
有馬重則の子。
1601年(69)に摂津三田藩二万石。享年70。
正室は別所忠治の娘 於振。
初代 有馬 豊氏(とようじ)【1569~1642】
有馬則頼の二男、母は別所忠治の娘 於振。
大坂の陣にも従軍しました。1620年(52)に長年の功績によって大幅に加増され筑後久留米藩二十一万石となりました。1637年(69)の島原の乱に二男忠頼を出陣させたが、翌年戦況打開のため出陣を命じられました。享年74。
二代 有馬 忠頼(ただより)【1603~1655】
三代 有馬 頼利(よりとし)【1652~1668】
有馬忠頼の三男、母は側室 磯部氏。
四代 有馬 頼元(よりもと)【1654~1705】
有馬忠頼の四男、母は側室 神保氏。
五代 有馬 頼旨(よりむね)【1685~1706】
有馬頼元の二男、母は側室 小野氏。
六代 有馬 則維(のりふさ)【1674~1738】
旗本 石野則員の子、母は小笠原長直の娘。
七代 有馬 頼徸(よりゆき)【1714~1783】
有馬則維の五男、母は側室・お隼の方。
八代 有馬 頼貴(よりたか)【1746~1812】
有馬頼徸の長男、母は側室 奥田氏。
九代 有馬 頼徳(よりのり)【1797~1844】
有馬頼端の長男、母は側室 吉田氏。
十代 有馬 頼永(よりとお)【1822~1846】
有馬頼徳の四男、母は側室 お綱の方。
十一代 有馬 頼咸(よりしげ)【1828~1881】
有馬頼徳の七男、母は側室 立石氏。
1846年に19歳で筑後久留米藩を相続しました。徳川将軍家との婚姻関係があったため佐幕的な態度をとり、二度の長州征伐に出兵しました。大政奉還後に勤王派が主導権を握り戊辰戦争には新政府軍につきました。1869年(42)に版籍奉還し久留米藩知事となりました。1871年(44)に廃藩置県を迎えました。享年54。
徳川将軍家や一橋家の姫についてはこちらもご覧ください。
3. 久留米藩有馬氏一族
(1) 筑後松崎藩
初代 有馬 豊祐(とよすけ)【1646~1700】
小出吉重の三男、母は有馬豊氏の娘。
嫡男は豊祐の弟で旗本の小出英直の養子となり小出英致となりました。
松平直良についてはこちらもご覧ください。
(2) 藩主一門
有馬 信堅(のぶかた)【1600~1626】
有馬 則矩(のりかね)【1701~1708】
有馬則維の長男、母は谷衛広の娘。父に先立ちて亡くなりました。享年8。
有馬 大次郎【1702~1708】 (7)
有馬則維の二男、母は谷衛広の娘。父則維が頼旨の養子になるとき、祖父の有馬則故の養子となりました。兄則矩が没すと則維の嫡子となりましたが、間もなく亡くなりました。享年7。
有馬 則如(のりゆき)【1709~1718】
有馬則維の三男、母は金見氏。父に先立ちて亡くなりました。享年10。
有馬 頼董(よりただ)【1773~1786】
有馬頼貴の長男、母は高木氏。父に先立ちて亡くなりました。享年14。
有馬 頼善
有馬頼貴の二男、母は高木氏。1786年に嫡子となり、1793年に病により嫡子を辞退しました。
有馬 頼端(よりなお)【1778~1802】
有馬頼貴の三男、母は高木氏。
1793年(16)に嫡子となりました。父に先立ちて亡くなりました。享年25。
(3) 旗本:有馬他吉郎家
初代 有馬 豊長(とよなが)【1601~1675】
有馬則頼の四男。
妻は下総山川藩主 水野忠元の娘、紀州藩家老 水野重央の娘。
二代 有馬 則故(のりふる)【1635~1713】
有馬豊長長男、母は水野重央娘。
1675年に41歳で相続しました。1682年(48)に越前大野城を土井利房が賜るときに城引き渡しの役をつとめました。同年上野国内で五百石を加増され、合わせて三千五百石となりました。翌年、越後村上藩主 榊原政邦が幼少で相続したとき、政務を監督しました。
1685年(51)に下総古河城を松平信之が賜るときに仰せを伝える役をつとめました。1692年(58)に御先鉄砲の頭となり、1704年(70)に高齢のため務めを辞職しました。享年79。
妻は丹後宮津藩主 永井尚征娘。
土井利房についてはこちらをご確認ください。
三代 有馬 則致(のりむね)【1661~1715】
旗本 有馬重広の長男、母は富永重師の娘。
1683年(23)に御書院番となり、1685年(25)に進物役をつとめました。則故の養子となり、番をゆるされました。1713年に53歳で相続しました。享年55。
四代 有馬 則武(のりたけ)【1698~1739】
水野忠慎の二男。
1715年に18歳で相続しました。1739年(42)より火事場見廻りをつとめました。享年42。
妻は有馬則致の娘、後妻は旗本 赤松則主の娘。
五代 有馬 則雄(のりお)【1712~1779】
石野範種の三男、母は鍋島正恭の娘。
1739年に28歳で相続しました。火事場見廻り、御使番、新番頭、仙洞附をつとめました。享年68。妻は旗本 水野忠富の娘(則武の姪)。
有馬 則満(のりみつ)【1749~1768】
有馬則雄の長男。
1763年(15)に十代将軍 徳川家治の世子家基が山王社に詣でるときに騎馬にて従いました。享年20。
妻は土佐高知新田藩主 山内豊産の娘。
有馬 則憑(のりよし)
若狭小浜藩主 酒井忠音の十男。則満が亡くなったあと則雄の養子となるも故あって実家に戻りました。
六代 有馬 則明(のりあきら)【1761~?】
旗本 石野範堯の三男、母は大久保忠與の娘。
1779年に19歳で相続しました。
妻は丹後田辺藩主 牧野惟成の娘、後妻は旗本 小笠原信喜の娘。
七代 有馬 宮内
1809年に相続しました。
八代 有馬 則国
1826年に相続しました。
九代 有馬 則篤
(4) 旗本:有馬伊織家
(寛政年間までの当主)
有馬 重頼(しげより)
有馬 重泰(しげやす)
有馬重頼の長男。
初代 有馬 重良(しげよし)【1604~1651】
有馬重泰の長男、母は堀尾吉晴の娘。
二代 有馬 重広(しげひろ)【1641~1717】
有馬重泰の二男、母は守能長明の娘。
1653年に13歳で相続しました。1659年(19)に御小姓組の番士となりました。享年77。
妻は旗本 富永重師の娘、後妻は旗本 天野康隆の娘。
有馬 重光(しげみつ)【?~1717】
生年について寛政譜では言及されていませんが、父重良が亡くなったのが1651年のため、1717年の時点で67歳以上となります。
三代 有馬 重尚(しげなお)【1696~1748】
久留米藩家臣 有馬重利の子、母は有馬重興の娘。
1717年に22歳で祖父の跡を相続しました。1719年(24)に御書院の番士に列しました。享年53。
妻は有馬重光の養女(有馬重広の娘)、後妻は旗本 石丸定愛の養女(岡本清春の娘)。
四代 有馬 尚久(なおひさ)【1717~1787】
有馬重尚の長男、母は有馬重光の養女。
1748年に32歳で相続しました。同年、西の丸の御書院番となりました。1786年(70)に高齢のため番を辞職しました。享年71。
妻は旗本 土岐頼在の娘、後妻は旗本 柳沢安弘の娘(離婚、柳沢吉保の一族)、旗本 河野通喬の娘、旗本 能勢頼寿の娘。
五代 有馬 尚庸(なおつね)【1751~?】
有馬尚久の長男、母は柳沢安弘の娘。
妻は旗本 羽太正堯の娘。
(5) 下野吹上藩有馬家
吹上藩系の有馬家についてはこちらをご覧ください。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。