こんにちは、勘矢です。
1. 赤松氏とは
赤松満祐は六代将軍 足利義教と対立し、結城合戦平定の祝賀と称して自邸に招き暗殺しました(嘉吉の乱)。そして、山名宗全率いる幕府軍と戦って敗退し、満祐は自刃しました。播磨守護職は山名氏のものとなり、赤松一族は没落しました。
江戸時代に旗本として残ったのは、則村の長男範資の子孫となります。氏貞のときに地頭職になった地名から石野を称しました。その子氏満は、別所長治、豊臣秀吉に仕えました。
2. 室町時代の赤松一族
(1) 播磨守護家(惣領)
赤松 則村(のりむら)【1277~1350】
播磨守護。法名は円心。享年74。
赤松 則祐(のりすけ)【1311~1371】
赤松 義則(よしのり)【1358~1427】
赤松 満祐(みつすけ)【1373~1441】
赤松義則の長男。播磨守護。享年69。
赤松 政則(まさのり)【1455~1496】
赤松 義村(よしむら)【1472~1521】
赤松政資の子。政則の急死により養子となりました。播磨・美作・備前守護。享年50。
赤松 晴政(はるまさ)【1510~1565】
赤松 義祐(よしすけ)【?~1576】
(2) 赤松七条家
赤松 範資(のりすけ)【?~1351】
赤松則村の長男。播磨守護。
赤松 光範(みつのり)【1320~1381】
赤松範資の長男。摂津守護。享年62。
赤松 満弘(みつひろ)【1341~1391】
赤松光範の子。享年51。
赤松 教弘(のりひろ)【?~?】
赤松満弘の子。
赤松 元久(もとひさ)【?~?】
赤松教弘の子。
赤松 政資(まさすけ)【1462~1501】
赤松元久の子。享年40。
赤松 義充(よしみつ)【?~?】
赤松政資の子。
赤松 義氏(よしうじ)【?~?】
赤松義充の子。
石野 氏貞(うじさだ)【1527~1565】
赤松義氏の子。石野を称する。享年39。
石野 氏満(うじみつ)【1553~1606】
石野 氏貞の子。豊臣家、前田家に仕えました。享年54。
3. 江戸時代の赤松一族
(1) 旗本:赤松左衛門家
初代 石野 氏置(うじおき)【1574~1612】
石野氏満長男、母は有馬則頼の娘。幼少期は外祖父有馬則頼の元で養育されました。1592年(19)に徳川家康の御近習に列しました。1595(22)に上総国において二千百五十石の采地を賜りました。関ヶ原の戦いでは斥候の役をつとめました。のちにこの功により伊豆国において千石の加増がありました。翌年御使番となりました。享年39。妻は徳川家家臣 内藤家長の娘。
二代 石野 氏照(うじてる)【1609~1670】
石野氏置長男、母は内藤家長の娘。1612年にわずか4歳で相続しました。このとき、父が加増された千石の地は収められました。1626年(18)に采地の御朱印をくださり、二千五百十石を知行しました。翌年御書院の番士となり、その後御小姓組などを経て1653年(45)に下田奉行に移り、相模国足柄郡において三百石を加えられました。1661年に三百石を養子の則員に分け与えました。1668年に60歳で隠居しました。享年62。妻は旗本 久世広当の養女(旗本 大久保忠当の娘 )。
石野 氏任(うじたか)【?~1659】
石野氏照長男、母は久世広当の養女。1646年に御小姓組に列し、1648年に廩米三百俵を賜りました。父に先立ち亡くなりました。妻は旗本 曾我近祐の娘。
三代 赤松 範恭(のりやす)【1651~1721】
石野氏任長男、母は曾我近祐の娘。1659年に9歳で父の遺跡を賜りました。1668年(18)に祖父の跡を相続し、それまでの廩米は収められました。翌年小姓組の番士となり、その後御徒の頭となりました。1682年(32)に上野国内で五百石を賜り、合わせて三千五十石を知行しました。1693年(43)に御先弓の頭になりました。1708年(58)に家号を赤松に復しました。1711年(61)に日光奉行となりました。1719年に69歳で隠居しました。享年71。妻は旗本 大久保忠昌の娘(叔母は範恭の祖母で氏照妻)。
四代 赤松 範主(のりかず)【1671~1746】
赤松範恭長男、母は大久保忠昌の娘。1719年に49歳で相続しました。1724年(54)に小姓組の番士となりました。1746 (76)。享年76。妻は越前福井藩の分家 松平直堅の娘(一万俵。子孫は越後糸魚川藩主)。
五代 赤松 恭富(やすとみ)【1711~1757】
赤松範主長男。1746年に36歳で相続しました。享年47。妻は旗本 佐野察行の娘(離婚)。
六代 赤松 範邑(のりさと)【1740~1784】
赤松恭富長男。1757年に18歳で相続しました。1783年に44歳で隠居しました。享年45。妻は旗本 高木守明の娘。
七代 赤松 範善(のりよし)【1760~1783】
赤松範邑長男、母は高木守明の娘。1783年に24歳で相続しました。。妻は旗本 仙石久当の娘、後妻は旗本 本多正命の娘。
八代 赤松 範徳
1808年に相続しました。使番、駿府町奉行をつとめました。
九代 赤松 範忠
(2) 旗本:石野三次郎家
赤松左衛門家の分家
(寛政年間までの当主)
初代 石野 則員(のりかず)【1636~1677】
久留米藩有馬家についてはこちらもご覧ください。
二代 石野 範種(のりたね)【1670~1742】
石野範種長男、母は小笠原長真の娘。1678年に9歳で相続しました。1697年(28)に御小姓組に列し、1720年(51)に御使番となりました。1729年(60)に小普請奉行にすすみ、このとき上総国内で三百石を賜りました。1734年(65)に御勘定奉行となり、駿河国内で采地五百石を賜り、合わせて千百石を知行しました。1737年(68)に大目付となりました。享年73。妻は旗本 鍋島正恭の娘。
三代 石野 範至【1707~1777】
石野範種長男、母は鍋島正恭の娘。1735年(29)に御小姓組に列しました。1742年に36歳で相続しました。1755年(49)に御目付に代わり美濃・尾張・伊勢国の川々の普請を検しました。1766年(60)に甲斐国の川々の普請を監しました。1772年(66)に堺奉行になりました。享年71。妻は旗本 堀田正矩の娘。
四代 石野 範堯(のりたか)【1739~1777】
石野範至長男、母は堀田正矩の娘。1776年(38)に御小姓組の番士となりました。1777年に39歳で相続しました。1786年(48)に御使番になりました。1788年(50)より火事場見廻りを兼ね、その後駿河の町奉行に移りました。妻は旗本 大久保忠与の娘。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。