こんにちは、勘矢です。
1. 伊予西条藩 松平家
伊予西条藩の松平家は、初代紀州藩主徳川頼宣の二男頼純が1668年に五万石を分知されたことからはじまります。1670年に幕府から伊予国内で三万石を加増されたため、三万石を紀州藩に戻し、伊予西条(愛媛県西条市)に陣屋を置きました。
頼純には正室が産んだ頼雄がいましたが、五男 頼致を可愛がっていてこれを藩主に就けたいと思い、正室が没したのを機に頼雄の廃嫡を強行し、頼致が嫡子となって西条藩を相続しました。このようなお家騒動がありましたが、幕府からの処分はなく、廃藩置県まで存続しました。
西条藩からは紀州藩を相続した人物が3人います。一人目は二代頼致で、紀州藩主徳川吉宗が将軍家相続したときに紀州藩を相続し、徳川宗直と改名しました。二人目は五代頼淳で、紀州藩主徳川重倫の子治宝が幼少のため紀州藩を相続し、徳川治貞と改名しました。三人目は九代頼学の子頼久で、紀州藩主徳川慶福が将軍家相続したときに紀州藩を相続し、徳川茂承と改名しました。
2. 伊予西条藩主一覧
初代 松平 頼純(よりずみ)【1641~1711】
徳川頼宣の二男、母は側室 越智氏。
1668年(28)に紀伊国内において五万石を分与されました。1670年(30)に伊予西条で三万石を賜り、宗家からの三万石は返上しました。伊予西条藩は定府大名でしたが、頼純は在任中に5回にわたって西条に入りました。享年71。
二代 松平 頼致(よりよし)【1682~1757】
松平頼純の五男、母は側室 太田氏。
三代 松平 頼渡(よりただ)【1706~1738】
松平頼純の七男、母は側室 佐藤氏。
四代 松平 頼邑(よりさと)【1732~1781】
松平頼渡長男、母は松平忠雅の娘。
1738年にわずか7歳で伊予西条藩を相続しました。1753年に病弱により22歳で隠居しました。享年50。
五代 松平 頼淳(よりあつ)【1728~1789】
先代の隠居により、1753年に26歳で伊予西条藩を相続しました。年貢の税率を一割上げたため、反対する農民一揆が起き、藩は税率を元に戻しました。1775年(48)に宗家の紀州藩主徳川重倫が病気を理由に隠居になると、世子が幼少のため紀州藩を相続し、徳川治貞と改名しました。享年62。
六代 松平 頼謙(よりかた)【1755~1806】
七代 松平 頼看(よりみ)【1773~1797】
松平頼謙の長男、母は側室 永石氏。
1795年に23歳で伊予西条藩を相続しました。享年25。
八代 松平 頼啓(よりゆき)【1784~1848】
松平頼謙の三男、母は側室 永石氏。
九代 松平 頼学(よりさと)【1808~1865】
松平頼啓の長男、母は側室 大熊氏。
十代 松平 頼英(よりひで)【1843~1905】
松平頼学の六男、母は側室 山野井氏。
頼学の婿養子になっていた頼永(陸奥守山藩主松平頼慎の子:水戸藩分家)が早世したため嫡子となり、1862年に20歳で伊予西条藩を相続しました。1868年(26)土佐藩の藩兵が朝命と称して西条藩内に乗り込み、その支配下に置かれたため、西条藩は新政府軍に恭順しました。1869年(27)に版籍奉還して西条藩知事に任ぜられ、1871年(29)に廃藩置県を迎えました。享年63。
3. 松平頼純の子女
初代藩主松平頼純は子だくさんで七男九女いました。
渡辺恭綱:長男。侍女に産ませた子で認知されず、家臣の渡辺家で養育され、そのまま渡辺家を相続しました。子は、従兄弟で八代将軍徳川吉宗の側近有馬氏倫の養子になった氏久です。
有馬氏倫の家についてはこちらをご覧ください。
留天姫:長女。家老 渥美勝之の妻。勝之は、頼雄の廃嫡に反対して手討ちにされ、とどめは頼致がさしたという。渥美氏は紀州藩主 治宝によって家名を復興されました。
松平頼雄(よりかつ):四男。母は正室本多氏。西条藩主の世子となりましたが、実母が没したのを機に廃嫡されました。廃嫡後は蟄居していましたが、紀州藩主吉宗が和歌山に呼び寄せました。吉宗が将軍になると因縁の弟頼致が紀州藩主 宗直となり、頼雄はその年に没しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川一族大全(廣済堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。