こんにちは、勘矢です。
今回は以前取り上げた「田沼意次とその一族」について、追加で調べたことをまとめました。
1. 意次の略年譜
*カッコは意次の年令
1719年(1歳):田沼意行の子として生まれる。幼名龍助。
1732年(14歳):将軍徳川吉宗に初お目見え。
1734年(16歳):家重付き西ノ丸小姓。三百俵。
1735年(17歳):家督相続。相模国内 六百石。
1748年(30歳):小姓組番頭。相模・上総・下総国内 二千石。
1749年(31歳):嫡男意知生まれる。
1751年(33歳):御用取次。
1754年(36歳):四男意正生まれる。
1755年(37歳):相模・上総・下総国内 五千石。
1758年(40歳):遠江・相模・下総国内 一万石。
1762年(44歳):加増 一万五千石。
1763年(45歳):六男雄貞生まれる。
1765年(47歳):七男隆祺生まれる。
1767年(49歳):側用人。加増 二万石。相良城築城。
1769年(51歳):老中格。加増 二万五千石。
1772年(54歳):老中(側用人兼務)。加増 三万石。
1774年(56歳):意正、水野忠友の養子となる。
1777年(59歳):加増 三万七千石。
1779年(61歳):六男雄貞、土方雄年の養子となる。
七男隆祺、九鬼隆貞の養子となる。
1780年(62歳):相良城に入城(10日間滞在)。
土方雄貞、伊勢菰野藩主となる。
1781年(63歳):九鬼隆祺、丹波綾部藩主となる。
加増 四万七千石。(家斉が将軍世子となる)。
1782年(64歳):土方雄貞死去、享年20。
1784年(66歳):意知が佐野善左衛門に斬られて死去、享年36。
1785年(67歳):加増 五万七千石。
1786年(68歳):老中辞職。二万石の没収。江戸・大坂屋敷の返上と謹慎。
1787年(69歳):九鬼隆祺死去、享年23。
二万七千石の没収。隠居・謹慎。相良城の没収。
1788年(70歳):死去。駒込勝林寺に葬られる。
2. 意次の正室とその一族
(1)伊丹氏
田沼意次の正室は伊丹直賢の娘で、意次が大名になる以前に結婚した。田沼家も伊丹家も元は紀州藩士であった縁であると推測される。直賢の娘と意次の間には子がなく、意次の嫡男が継室との子であることから、それ以前に亡くなったものと思われる。
伊丹直賢は元は紀州藩士で、藩主徳川吉宗の嫡男長福丸(のちの家重)の御伽であった。1716年に吉宗が将軍に就任すると幕臣となって蔵米三百俵を賜り、御小納戸をつとめた。1746年に一橋宗尹の傅役となって二百石を加増され、蔵米を改められて上野内で五百石を賜った。その後、一橋家家老となり、五百石を加増され、合わせて千石を領した。1749年に大目付となるが、一橋家の見廻りも命じられた。1757年に御留守居となった。
また、直賢の嫡男直宥の娘は意次の甥意致の妻となっている。
【旗本 伊丹三郎右衛門家の歴代】
初代 伊丹 直賢(なおかた)【1696~1766】
紀州藩士 伊丹直胤の子。
1716年(21歳)に幕臣となる。一橋家家老、大目付、御留守居。享年71。
妻は旗本 佐野為成の娘。後妻は旗本 服部保守の娘。後々妻下野鹿沼藩内田家家臣 清家某の娘。
伊丹 直宥(なおひろ)【1729~1752】
伊丹直賢の長男、母は清家某の娘。
西ノ丸の御小納戸。父に先立ち没した。享年24。
妻は旗本 神保忠正の養女(旗本 木原弘正の娘)。
二代 伊丹 直彜(なおつね)【1737~1774】
伊丹直賢の三男、母は清家某の娘。
1766年に30歳で家督相続。享年38。
妻は旗本 小幡景利の娘。後妻は旗本 山名豊明の娘。
三代 伊丹 直純(なおずみ)【1766~1801】
伊丹直彜の長男、母は山名豊明の娘。
1774年にわずか9歳で家督相続。御小納戸。享年36。
妻は旗本 須田盛茂の娘。
四代 伊丹 直栄(なおひろ)【1784~?】
伊丹直純の長男、母は須田盛茂の娘。
1801年に18歳で家督相続。御使番、御先手弓頭。1855年に隠居。
五代 伊丹 桄之丞【?~?】
林衡の子(林大学頭家)。1855年に家督相続。書物御用頭取、二ノ丸留守居。

(2)黒沢氏
田沼意次の継室は黒沢定紀の娘で、意次が小姓組番頭になる頃に結婚し、嫡子意知を産んだ。
この黒沢家は奥州安倍氏の末裔であるという。戦国時代の重久が徳川家康に仕え、その養子定幸のとき、上野内で二百九十石余、現米四十石を賜った。孫の定当のときに加増があり、五百九十石余となった。
定当の子が定紀で、甥の井上貞高が幼少のため後見として御鉄砲方のことをつとめた。その子杢之助は意次の義兄にあたるが、1750年に本多重英の養女に関する問題に加担した罪で追放となった。
3. 寛政以降の旗本田沼家
旗本田沼家は意次の弟意誠からはじまり、その子意致のときに二千石となった。
三代意英は1796年に家督相続した。意英は主水のち市左衛門と称した。小納戸や西ノ丸先手弓頭をつとめた。1831年に隠居した。
四代主水は意英の養子で、家督相続前から西ノ丸御書院番をつとめていた。半左衛門は、1811年に貞之丞を養子にしており、貞之丞は1823年に「両番のうちに入れらる」と続徳川実紀にあるので、貞之丞はのちに主水と改めたのではないかと思われる。
寛政譜では貞之丞の名は見えないが、本朝武家諸姓分脈系図 [289]では、意英の弟に貞之丞の名が見られる。
吉備郡史 巻中によると、蒔田広孝の項に「実父御書院番蒔田八郎左衛門広胖、実母同断田沼主水意清女」とある。同断は、御書院番と解釈できるので、上記主水のことであると推測される。
1843年頃から1855年頃の当主は、小普請組の安三郎。その次の代は、1861年に御書院番となった元五郎ヵ。最後の当主は元五郎の子主計で、1863年に家督相続し、御小姓をつとめた。1867年の頃は奥詰銃隊となっており、御使番の梶清三郎と共に白河城の受取りに出向いた。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
参考文献:
相良藩主 田沼意次(牧之原市教育委員会)
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻、第4巻(東洋書林)
増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版)
本朝武家諸姓分脈系図 [289](国立国会図書館デジタルコレクション)
吉備郡史 巻中(岡山県吉備郡教育会 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
東京市史稿 市街編40(東京都 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。