探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

田沼意次とその一族

こんにちは、勘矢です。
今回は田沼意次とその一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 田沼家とは

 田沼家は、下野国安蘇郡田沼(栃木県佐野市田沼)が発祥で、鎌倉時代に佐野盛綱の七男重綱が田沼を称したことからはじまります。新田氏、武田氏に仕えたのち、江戸時代の吉次が徳川頼宣に仕え紀州藩士となりました。
 吉次の曾孫意行が、徳川吉宗の将軍就任に伴って幕臣となりました。
 その子意次は吉宗の世子家重の小姓に取り立てられました。その後しばしば加増され、1758年に一万石に達し大名となり、遠江相良の地を与えられました。そして、側用人から老中格・老中へ出世するに伴って数回の加増があり、最終的に五万七千石になりました。相良藩主になって10年後に築城を許可され、12年かけて完成しました。現在、牧之原市史料館がある場所が本丸で三重の堀をめぐらした平城でした。しかし。意次が失脚すると城は取り壊されました。孫の意明が一万石で相続することを許されましたが、陸奥下村藩に転封されました。
 二代意明から五代意定までは、短命の藩主が続きました。
 六代意正は意次の子で、はじめは駿河沼津藩主水野忠友の養子になりましたが、父意次の失脚に伴って離縁され、母方の姓田代氏を名乗りました。本家の意定が嗣子なくして没すると、50を過ぎた意正が相続しました。その後、若年寄に任ぜられたあとに旧領の遠江相良藩に復帰となりました。そして、相良城二の丸跡に居館を築きました。
 八代意尊は若年寄となり、水戸天狗党の乱を鎮圧するための幕府軍を指揮しました。明治維新後に徳川宗家が駿河遠江を領有することになったため、上総小久保に移ることになりました。
 九代意斉のときに廃藩置県を迎えました。
 

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相良城跡に建つ牧之原市史料館
 
 牧之原市史料館には田沼家のゆかりの資料が展示されています。
 
牧之原市史料館
 
 

2. 田沼家歴代藩主

初代 田沼 意次(おきつぐ)【1719~1788】
 田沼意行の嫡男、母は紀州藩士田代高近の養女。1730年(12歳)で徳川吉宗の世子家重に西の丸小姓として仕え、1735年に17歳で父の遺領六百石を相続しました。家重が将軍となると本丸小姓となり、その後側衆などをつとめ、この間にしばしば加増されました。1758年(40歳)に一万石となりました。
 家重が隠居し、家治が将軍職に就いてもそのまま重用されて側用人になり、のちに老中格、老中と昇進しました。株仲間の奨励や印旛沼手賀沼干拓の着手するなどの政策を行いました。
 1784年(66歳)に嫡男意知が江戸城内での刃傷にあって没すると、急速に威信が衰えました。1786年(68歳)に将軍家治が病死すると老中を辞職し、二万石の没収と江戸・大坂屋敷の返上と謹慎を命じられました。1787年(69歳)にさらに二万七千石を没収され隠居謹慎を命じられました。享年70。正室は旗本 伊丹直賢の娘、継室は旗本 黒沢定紀の娘。
 
二代 田沼 意明(おきあき)【1773~1796】
 田沼意知の長男。1787年に15歳で祖父の跡を相続し、陸奥下村を与えられた。1796年(24歳)に大坂城の守衛を命じられたが、同年大坂にて没した。享年24。正室は出羽高畠藩主 織田信浮の娘。
 
三代 田沼 意壱(おきかず)【1780~1800】
 田沼意知の二男。1796年に17歳で陸奥下村藩を相続しました。享年21。正室は旗本 新見正徧の娘。
 
四代 田沼 意信(おきのぶ)【1782~1803】
 田沼意知の四男。1800年に19歳で陸奥下村藩を相続しました。享年22。正室水戸藩の分家にあたる常陸府中藩主 松平頼前の養女(松平頼陽の娘)。
 
五代 田沼 意定(おきさだ)【1784~1804】
 田沼意致の二男。1803年に20歳で陸奥下村藩を相続しました。享年21。
 
六代 田沼 意正(おきまさ)【1754~1836】
 田沼意次の四男。はじめ、水野忠友の婿養子となり水野忠徳と称しました。父意次の失脚により離縁されました。1804年に51歳で陸奥下村藩を相続しました。1819年(66歳)に西の丸の若年寄、1822年(69歳)に若年寄となりました。1823年(70歳)に遠江相良藩に転封となりました。1825年(72歳)に側用人となりました。1836年に83歳で隠居しました。享年83。正室は水野忠友の娘。
 
七代 田沼 意留(おきとめ)【?~1861】
 田沼意正の子、母は水野忠友の娘。1836年に遠江相良藩を相続しました。1840年に隠居しました。
 
八代 田沼 意尊(おきたか)【1818~1869】
 田沼意留の子。1840年に23歳で遠江相良藩を相続しました。1852年(35歳)に大番頭になり、翌年に大坂定番をつとめ、1861年(44歳)に若年寄となりました。1864年(47歳)に水戸天狗党の乱を鎮圧するための幕府軍を指揮しました。1866年(49歳)に若年寄を辞任しました。1868年(51歳)の鳥羽伏見の戦いでは幕府軍として参戦しましたが、のちに新政府軍に恭順しました。同年、上総小久保に転封となりました。1869年(52歳)に版籍奉還により小久保藩知事となりました。享年52。正室豊後森藩主 久留島通嘉の娘 蓮。
 
九代 田沼 意斉(おきなり)【1855~?】
 武蔵岩槻藩主 大岡忠恕の五男。意尊に子がなかったことから養嗣子となりました。意斉の祖父忠固の伯父忠喜の正室が意次の養女である縁から迎えられたと考えます。1870年に16歳で上総小久保藩を相続し、知藩事となりました。1871年に(17歳)廃藩置県を迎えました。1873年(19歳)に隠居して、意尊の娘智恵に家督を譲り田沼家を離れました。その後は不明。
 
 

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田沼家略系図
 

3. 田沼一族

田沼 意行(おきゆき/もとゆき)【1688~1734】
 田沼義房の子。1716年(29歳)に幕臣に加えられ、小姓となりました。その後六百石の采地を賜りました。享年47。妻は紀州藩士 田代高近の養女。
 
田沼 意知(おきとも)【1749~1784】
 田沼意次の長男。1781年(33歳)に世子のまま奏者番となり、1783年(35歳)には若年寄となり廩米五千俵を賜りました。翌年佐野政言の私怨により斬られ、数日後に没した。享年36歳。正室は石見浜田藩主 松平康福の娘。
 
 

○旗本田沼家

(寛政年間までの当主)
初代 田沼 意誠(おきのぶ)【1721~1773】
 田沼意行二男、母は田代高近の娘。1732年(12歳)に徳川吉宗の四男小五郎(宗尹)の小姓となりました。一橋家の側用人などをつとめたのち、1759年(39歳)安房国内で五百石を賜り、一橋家の家老となりました。1770年(50歳)に三百石の加増がありました。享年53。
 
二代 田沼 意致(おきむね)【1741~1796】
 田沼意誠長男。小姓組番士、小納戸を経て徳川家基の附属となりました。1774年(34歳)に家督相続し、1778年(38歳)に一橋家の家老となりました。1781年(41歳)に家斉が将軍家の養子となると西の丸の小姓組番頭の格になりました。1782年(42歳)に千二百石を加増され二千石となりました。享年56。妻は旗本 能勢頼忠の養女(旗本 山名豊明の娘)、後妻は旗本 伊丹直宥の娘。伯母が田沼意次の妻になります。
 
三代 田沼 意英(おきふさ)【1771~?】
 田沼意致長男、母は伊丹直宥の娘。妻は旗本 山口直良の養女(旗本 長田繁達の娘)。
 
御三卿の家老についてはこちらもご覧ください。
 

4. 田沼家の婚姻関係

 六百石の幕臣からスタートした意次は、五万七千石の大名まで異例の出世をしました。出自の低さをカバーするため子女の婚姻は戦略を持って行われました。
 意次の長男意知の正室は、老中のひとり石見浜田藩主 松平康福の娘を迎えました。この松平家は元々は松井を称していて、江戸初期の当主康重は徳川家康のご落胤説のある人物でした。
 意次の三女は奏者番寺社奉行を務めていた遠江横須賀藩主 西尾忠移に嫁ぎました。忠移は、意次の失脚後に相良城の破却の命を受けました。
 意次の四女は越後与板藩主井伊直朗に嫁ぎました。この井伊家は彦根藩井伊家の分家です。直朗の姉は大老をつとめた彦根藩井伊直幸に嫁ぎました。
 意次の四男忠徳は、老中のひとり駿河沼津藩主 水野忠友の婿養子になりました。
 大老・老中・寺社奉行といった幕府の重職者との縁組を行い、幕府内の地位を強固にしました。
 
 意次の養女は、はじめ岩槻藩主 大岡忠喜に嫁ぎました。忠喜の父は、徳川家重側用人をつとめた大岡忠光です。この婚姻は、家重側近グループのつながりを強固にする意図があったのではないかと考えます。しかし、忠喜とは離婚することになり、伊勢菰野藩主 土方雄年と再婚することになりました。土方家は外様大名で、土方家側が田沼家とつながりを持ちたかったようで、雄年はさらに意次の五男雄貞を養子に迎え、妹を雄貞の正室としました。
 意次の六男隆祺は丹波綾部藩主 九鬼隆貞の婿養子になりました。隆貞の弟光隆は有馬氏久の養子で、氏久の養父は氏倫で吉宗の側近でした。この婚姻は旧紀州藩士系の大名とつながりを持とうとする意図があったのではないかと考えます。
 

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田沼意次の子女の婚姻関係図
 
大岡氏についてはこちらもご覧ください。
 

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相良城二の丸の松
 

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仙台河岸(相良城の石垣の一部)
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。